原題:『修羅』
監督:松本俊夫
脚本:松本俊夫
撮影:鈴木達夫
出演:中村嘉葎雄/三条泰子/唐十郎/今福将雄/田村保/観世栄夫/松本克平/川口敦子
1971年/日本
「修羅場」の描き方について
本作に関して映画監督の大島渚が1971年11月の『映画批評』で酷評したことを憶えている人はいないと思うので、改めて『映画の変革』(三一書房 1972.3.31)で松本俊夫が発表した反論「大島渚の眼は節穴か」の一部を引用しておきたい。
「松本の源五兵衛に対する見方の基本的な誤りは、源五兵衛がもともと阿呆であること、そして加害者であることを、全然見ていないところにある」「誰が基本的な加害者で、誰が基本的な被害者であるということは、当然存在するのであり、それを正確に定めることこそが、作家の第一の仕事ではないだろうか」「加害者は加害者の、被害者は被害者の論理をそのまま貫くことが、世界のあり方であり」「〈昏い怨念〉を仮託するとすれば、それは、三五郎と小万の夫婦にでなければならなかった」にもかかわらず「松本俊夫はこんな初歩的なことはまったく盲目であるのだから、これはもうお話にならない」
大島がまるで鬼の首でもとったように、『修羅』の致命的欠陥はこれだとばかり強調してみせた批判点は、右(=上)の引用に尽きている。しかしそれにしても、私は大島の了解前提の基本的な誤り、ないしピントはずれのはなはだしさに唖然としないわけにはゆかない。私はもうとうの昔から、一方の加害者(ないし悪玉)を、他方に被害者(ないし善玉)を設定して、その対立と葛藤によって劇を展開させてゆくドラマトゥルギー(物のみかた)にあきたらず、むしろ何が加害(ないし悪)で何が被害(ないし善)かの良識的判断がくずれ、眩暈と恐怖におののきながら、その先に「この世界は何を意味するのか」と問いつめずにはおれなくなる位相にこそ、より今日的な劇をみようとしているからである。(p.259)
確かに鶴屋南北の歌舞伎狂言『盟三五大切』の原作を忠実に映像化するとするならば、大島の意見はもっともではあるが、松本俊夫の意図は「修羅」というタイトルにもあるように、ストーリーよりも修羅場そのものの極限を極めたものであり、例えば、源五兵衛が小万に自分の刀を持たせて小万の赤ん坊の頭を突き刺す場面など、凄惨過ぎて逆に笑えてくるところなどが見どころだと言えるのである。映画に対するスタンスの違いといったところだろうか。