原題:『薔薇の葬列』
監督:松本俊夫
脚本:松本俊夫
撮影:鈴木達夫
出演:ピーター/土屋嘉男/小笠原修/東恵美子/城よしみ/仲村紘一/芝山幹郎/小松方正
1969年/日本
策を弄した作品について
『修羅』(1971年)を観た後に本作を観るならば違和感を感じるかもしれない。大島渚に貶されたとしても『修羅』は完全なフィクションであったが、本作は途中で出演者のインタビューが挿入されるなどしてストーリーにのめり込むことができないからである。
それならば各々のインタビューにそれなりの意味があるのかと思いきや、何故ゲイとして生きるのかという質問に対してありきたりな答えしかなく、監督本人が行なったであろうインタビューに意味を見出すことはできず、唯一面白かったところは、丸山明宏(美輪明宏)のどこが好きなのかと尋ねられたピーターが「整形しているところ」とうっかり(?)口を滑らした部分だけである。
ソポクレスの『オイディプス王』をモチーフにしているが、主人公がゲイの青年エディであるために、少年の頃に母親と浮気相手の男を殺して、今はゲイバーの経営者の権田と親密なのであるが、ラストシーンは混乱しているように見える。
権田はエディが持っていた書籍『父帰る』の中に挟まれていた家族写真を見つけて、エディが自分の実の息子であることを知り、浴室で刃物で首を切って自害する。物音に気が付いたエディが浴室を覗いて自殺している権田を発見するのであるが、エディは何故権田が自殺したのかすぐには理解できなかったはずである。ところがエディはすぐに刃物で両目を潰してしまう。
その後、エディがマンションから外に出て行く様子が描かれるのであるが、それはエディの「視点」を通してなのである。しかしエディは両目を潰しているのだから、この「視点」は存在しないはずである。その上、カメラを担いで撮影したであろうカメラマンの影が映り込んでおり興ざめなのである。
何故このような中途半端な演出になってしまったのか勘案するならば、既にイタリアの映画監督であるピエル・パオロ・パゾリーニが『アポロンの地獄』(1967年)を公開しており、エディとサングラスをした男が一緒に立っている背後の壁にそのポスターが貼ってある。ボードレールの詩やル・クレジオの小説の引用や池田龍雄の「百仮面」の絵などを駆使しても『アポロンの地獄』に勝てそうになく「外した」ために中途半端な作品になってしまったように個人的には思う。
ピーターが本作の出演を決めた理由として「きれいに撮ってくれるから」と答えていたが、自ら両目を潰した無惨なラストシーンを見たピーターの感想を訊いてみたいものである。それにこれは間違いないと思うが、絶対に淀川長治のいつもの「挨拶」でラストは終わらせるべきだったと思う。それでなければセンセーショナリズムという誹りを免れないだろう。