原題:『À bout de souffle』
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
出演:ジャン=ポール・ベルモンド/ジーン・セバーグ/ダニエル・ブーランジェ/ジャン=ピエール・メルヴィル
1959年/フランス
長篇デビュー作から既に難解なゴダール作品について
もう語り尽された作品だが、あるシーンについて書いておきたい。以下はNHK-BSプレミアムの森みさによる字幕翻訳に基づくのだが、もちろん字幕翻訳を批判する意図はなく、そもそもゴダールが書いたセリフが難しいのである。
主人公のパトリシア・フランキーニが住む部屋にミシェル・ポワカールが勝手に入り込んだ後、パトリシアがピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)の『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢(Portrait d'Irène Cahen d'Anvers)』のポスターを部屋のどこに貼ろうかと迷っていて、結局浴室に貼ることになる。その際、パトリシアが絵画のモデルが「私よりきれい?(Est-ce que tu le trouves plus jolie que moi?)」と訊いて「君の中の同居する恐れと驚きが君の目を輝かす(Dès que tu as peur, Dès que tu es étonnée, ou les deux en même temps, tu as un drôle de reflet dans les yeux.)」とミシェルは答えるのだが、正確には「両目にいかがわしい者が反映すると同時に君は恐れと驚きを被る」となり、ポスターのモデルよりもパトリシアの方がきれいであると言っているのだが、パトリシアが「だから?(Et alors?)」と返すと「そんな目の君と寝たい(Je voudrais recoucher avec toi, à cause de ce reflet.)」とミシェルは答えるのだが、正確には「その反映した者のおかげで(君がきれいに見えて)僕はまた君と寝たくなるんだ」となる。足を洗いながら「ミシェル、ミシェル」とパトリシアが呼んでいる時に、ミシェルは「そこで何してる(Je peux pisser dans le lavabo.)」とつぶやいている。
元々の訳は「洗面台で小便してもいい?」と訳されていてこの訳がオリジナル脚本に近い。
2016年のリマスター版の寺尾次郎による字幕翻訳では「浴室で何している」とされている。
何故「洗面台で小便してもいい?」という訳から「浴室で何している」、「そこで何してる」と変わったのか勘案するならば、ミシェルが小便をしたいのにパトリシアが足を洗ってできないからというニュアンスを込めたと思われるが、正確にはパトリシアは浴槽の横にある蛇口が付いた流し台で浴槽の端に座って足を洗っているのだからミシェルはトイレは使えるのである。
それではミシェルの「俺は洗面台でも小便できるぜ(Je peux pisser dans le lavabo.)」の真意は何かと勘案するならば、ここで言う「le lavabo」とは「洗面台」を指すのではなく、中世の修道院で洗浄に用いられた水槽を指すのではないかと推測する。つまりミシェルの意図はパトリシアとなかなかセックスできない鬱憤を晴らすにまかせて、セックスの暗喩(尿=精液)でタブーを犯すこともできると強がって発言したように聞こえるのである。
その後、パトリシアは「話があるのよ(Devine ce que je vais dire.)」と訊くのだが正確には「私が言うことを察してみて」という意味になる。ミシェルは「何かな(Aucune idée!)」と答えるが正確には「何も思いつかない」という意味である。パトリシアは「子供ができたの(Je suis enceine, Michel!)」と言うのである。
そして問題のラストシーンなのだが、撃たれたミシェルが「まったく最低だ(C'est vraiment dégueulasse.)」と言った言葉を聞き取れなかったパトリシアが警官に訊いて「最低って何のこと?(Qu'est-ce que c'est "dégueulasse"?)」と言って終わる。もちろんパトリシアはアメリカ人でフランス語がよく分からないという設定を踏まえた上で、これまでのストーリーの流れから判断するならば、パトリシアの意図は自分が妊娠したことも無視して警官を銃殺しキリスト教を冒涜するミシェルこそ最低ではないのかというニュアンスが込められているように思うのである。