ゾンビランド
2009年/アメリカ
ヒーローの軽視
総合 80点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
ザック・スナイダー監督の『ガフールの伝説』は‘英雄物語’に対する疑念を表していたが、日本では余り受けなかったようだ。ルーベン・フライシャー監督の『ゾンビランド』は最早ヒーローを当てにできないと悟った主人公の大学生のコロンバスがネットゲームを通じて独自に作り出した‘ゾンビの世界で生き残るルール’で、辛うじてゾンビの世界で生き残っている。
ヒーローなどに期待していない世界では、かつて『ゴースト・バスターズ』でヒーローとして幽霊を退治していたビル・マーレイでさえ有名人ではあってもヒーローとは見なしておらず、コロンバスが誤ってビル・マーレイを撃ち殺しても、コロンバスが責められることはなく、重大な過失と見倣されない皮肉が効いている。
しかしコロンバスも一度は「ヒーローにはならない」というルールを破って、‘ヒーロー’になった理由は、あくまでも自分が苦手としていたピエロに抱く恐怖を克服することに関してだけで、‘みんなのヒーロー’にはならない。
ヒーローに期待しないとは他人を盲信しないということである。安住できる故郷にたどり着かないまま、お互いを信じるのではなく、ルールに沿いながら親密さを築き上げようとする過酷さの中で4人がこれからどのように生き残っていくのか、続編を待つしかない。
ところで誰も最後にビル・マーレイが言う「In the words of Jean Paul Sartre, 'Au revoir, gopher'(フランスの作家で哲学者のジャン=ポール・サルトルの言葉で言うならば‘さらば、モグラよ’)」というギャグの何が面白いのか説明していないことが不思議なのだが、これはビル・マーレイがゴルフ場管理人のアシスタントである Carl Spackler という役で出演した1980年のコメディ映画『Caddyshack』(ハロルド・ライミス監督)で言ってウケたセリフである(ちなみにハロルド・ライミスは『ゴースト・バスターズ』の脚本を担当している)。私の解釈を記しておきたい。
この言葉はゴルフ場に現れるモグラを退治するためにビル・マーレイがモグラの巣の穴にダイナマイトを仕掛ける時に言ったのであるが、フランス人が言う‘gopher(モグラ)’が訛って‘golfer(ゴルファー)’に聞こえる上に、哲学者の言葉として紹介されたためにギャグとして笑いを誘うのだと思う。
この作品の最後でビル・マーレイに同じセリフを30年後に言わせている理由は、最後に言い残す言葉を促されたビル・マーレイが言った相手が妻や家族などではなく、モグラに対して言ったというオチだと思う。つまり同一のセリフに違う意味を持たせて観客の笑いを誘っているのである。日本人がこのギャグを理解できないことは仕方がないと思うが、アメリカ人には分かってもらえると判断してこのギャグを言わせているのであるならば、意外とアメリカ人の映画に関するリテラシーは高いのかもしれない。
既に終わってしまったが、2010年10月17日までブリジストン美術館で催されて
いた、「ヘンリー・ムア『生命のかたち』」の感想を記しておきたい。
上の作品を彫刻家、オーギュスト・ロダン(1840ー1917)の“近代彫刻の父”
としてのスタンダードな作品と定義付けるならば、そのスタンダードから2つの流れが
生じたように思う。流れを作った一人が彫刻家、ヘンリー・ムア(1898ー1986)で
下の作品のように人物の体は厚みを増して横たわるようになる。
もう一人がスイスの彫刻家、アルベルト・ジャコメッティ(1901ー1966)であり、
彼の作品は下のようにヘンリー・ムアの作品とは正反対に体が細々として立って
歩く(彷徨う?)ようになる。
ヘンリー・ムアが作る人物像が“ストーンヘンジ”を暗示させ、自然回帰に向かった
ことに対して、アルベルト・ジャコメッティが作る人物像は精神性へ向かったように
感じる。今後もこの3人の作品を手がかりに様々な彫刻作品を見ていきたいと思う。
中国、開幕式拒否 東京国際映画祭 台湾名称めぐり対立(産経新聞) - goo ニュース
最近の中国と日本を含めたその周囲国の情勢を勘案するならばこのようなことは
当然主催者は想定していなければならないはずである。特に最近は国際的な場で
中国の台湾に対する似たような妨害行為が相次いでいるのであるし、中国では
立て続けに反日デモも起こっているのだから、中国側が台湾側に提案した、沖縄の
尖閣諸島の“領有権問題”に関し、中台の映画関係者が連帯してグリーンカーペット
を歩く“ミニ反日デモ”が実現していたら日本はわざわざ敵対する国にデモの場を
提供するバカな国と世界に認知されかねなかった。そもそもカンヌ国際映画祭など
の歴史を見ても分かるように国際映画祭は政治的に非常に利用されやすいことが
東京国際映画祭の主催者は全く理解していない。国際映画祭とはいかに主義主張
をスマートに表現するかを競う場であり、馴れ合う場ではありえない。完全に緊張感
を欠いているチェアマンの依田巽の引責辞任は避けられないだろう。
×ゲーム
2010年/日本
本当に罰ゲーム
総合 0点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
主人公たちが通っていた小学校の教室の黒板に「2月29日火曜日」と書かれているところを見ると間違いなく西暦2000年だと思うが、それから12年後が描かれているということは物語の‘現在’は2012年という設定であるにも関わらず2010年に公開されてしまうこの作品の意図がよく分らないのであるが、そのような瑣末な問題を真剣に考察する必要もないほど、作品の出来は酷いものだった。
作品内でも描かれているように主人公の小久保英明は自分がイジメられることを避けるために蕪木毬子をイジメていたはずである。12年後の蕪木毬子、つまり小久保英明の恋人である明神理香子が小久保と交際している理由は彼の真意を確かめるはずなのであるが、罰ゲームが中心に描かれているために、ラストで入院している小久保英明に対する明神理香子の心の葛藤が見えなかった。
しかし本当は登場人物たちのイジメる側とイジメられる側の間に芽生える微妙な心の葛藤ではなく、様々に繰り広げられる罰ゲームを見ることを‘楽しむ’ように制作されたのだろうから、楽しめなかった私は作品のコピー通りに「これを観るのも罰ゲーム」状態だった。わざわざお金を払ってまで受ける罰ゲームって!?
草加市長が失職、出直し市長選へ 2度目の不信任案可決(朝日新聞) - goo ニュース
埼玉県草加市長が失職=議会が2度目の不信任決議(時事通信) - goo ニュース
この件に関して面白い記事を見つけたので、かなり長くなってしまうが全文引用
してみたい。2010年10月11日の『東武よみうり』の「松原手帳」からである。
「草加市の木下博信市長の不信任に伴う市議選の投票が10日行われた。9月中旬、市議会解散を報じた本紙。市民団体の請願受理で、9月議会で審議されるはずの議員定数削減問題。開会冒頭の不信任可決で棚上げ、市民から『審議する気がないのでは』の声。その記事に、不信任提案の代表議員(現在は引退)から、電話でののしられた◆『お前はバカ者だ』『そんな記事を書いているのはお前の新聞だけだ』。新聞の独自性を理解されないようだ。続報で定数削減の著名運動を掲載。市民の関心は予想以上に高い◆この提案代表者、誤りの指摘ではなく、掲載そのものが不満らしい。『読売新聞の購読を辞める。責任者を出せ』に続き、最後は『お前は邪魔だ、草加から出てゆけ』とどなる。『それは立派な脅迫ですよ』と注意すれば、『訴えるなら訴えてみろ』◆不信任は、執行猶予が満了した元助役の収賄事件で、木下市長が『市が行政の立場で再検証。その結果、元助役に不正はなかった』と説明したことに、『法令順守に欠ける』との理由で可決した。その提案者の報道に対する脅し。法令順守をもてあそぶな。報道への脅しには断固闘う。」
これ以上付け加えることはないのであるが、鹿児島県阿久根市、愛知県名古屋市、
そして埼玉県草加市と共通することは税金や議員報酬や議員定数など何かを
削減しようとすると混乱が生じるということである。いずれ私が住んでいるところも
他人事ではなくなるのかもしれない。
軽蔑
1963年/フランス
ジャン=リュック・ゴダールの‘悪意’
総合 100点
ストーリー 0点
キャスト 0点
演出 0点
ビジュアル 0点
音楽 0点
フランスの映画監督ジャック・ロジエが1963年に制作した2つの短編ドキュメンタリー映画『バルドー/ゴダール』『パパラッツィ』はブリジット・バルドーがこの『軽蔑』に出演していた時の彼女の様子を撮ったものである。ジャック・ロジエの‘問題提起’に関しては既述に委ねるとして、この『軽蔑』を改めて観てみるとジャック・ロジエとジャン=リュック・ゴダールの映像に対する姿勢は極めてよく似ている。
今更言うまでもないがジャン=リュック・ゴダールは映画監督デビュー前から映像に対して極めて懐疑的な姿勢を取り続けており、映像を信じていない映画監督というパラッドクスの葛藤の中で、同様のテーマを共有しているジャック・ロジエがなかなか作品を発表できない状況を考えると今日に至るまで作品を発表し続けていられるという奇跡の恩恵に浴している。
『軽蔑』という作品は冒頭からラウール・クタールが撮影しているシーンから始まり、予め観客にこの作品の物語にのめり込ませないように暗に促した後、女優のカミーユ・ジャヴァルと脚本家のポール・ジャヴァルの同じ言葉が繰り返されるだけの睦言から、フランス人のポール・ジャヴァルがアメリカ人の映画プロデューサーのジェレミー・プロコシュをフランチェスカ・ヴァニーニが通訳することで観客は同じことを2度聞かされることになり、ジェレミー・プロコシュはフリッツ・ラングが撮影した、出演者が‘ブロンズ像’ばかりの『オデュッセイア』のラッシュを見て激怒して、カミーユはポールを軽蔑する理由を言わないまま交通事故で死んでしまい、ようやくフリッツ・ラングが俳優を使って『オデュッセイア』を撮り始めた時にこの作品は終わってしまう。『軽蔑』という作品の‘つまらなさ’は映画スターを揃えて、ヒロインが裸になって、事故で死んで、ついでに作品の中でクラシカルな仰々しい音楽を流しておけば、俳優が‘ブロンズ像’でもダイアローグに全く意味が無くても‘悲劇’ぽく見えるというゴダールの確信犯としての‘悪意’によるものなのであり、これはジャック・ロジエの‘ヴァカンス(空虚)’な物語と通じる。
宇多田、過熱報道に「あとは見る人の判断」(サンケイスポーツ) - goo ニュース
宇多田ヒカルが来年から活動を休止するということと、Utada名義による2枚の
アルバムがレコード会社が期待していたほど売れなかった、特にリプリーズ・レコード
所属のフィリピン人のシャリース(Charice)の大ブレークを見て、宇多田ヒカルが
所属しているアイランド・デフ・ジャム・ミュージック・グループは事実上、彼女に
“三行半”を突きつけたということだと思う。もう付き合うつもりがないのだろうから、
本人の意志を無視してでも、少しでも元を取り戻すためにCDが一番売れる時を勘案
するならば『Utada Hikaru SINGLE COLLECTION VOL.2』と“パッケージ”で売ること
が宣伝費も節約できるのだから願ったり叶ったりであろう。
小6自殺、「1人で給食」に伴い欠席急増(読売新聞) - goo ニュース
goo注目ワードピックアップ・・・一人で学食ランチ…大学で単独行動を取るのは恥ずかしいこと?(goo注目ワード) - goo ニュース
今は大学生でさえ友達がいないと思われるのが恥ずかしいために一人でランチを
とることができず、人目を避けてトイレで食事をとるようになっている。しかし大学生
であるならば“便所飯”として一人で対応できても、小学6年生が教室の中で一人で
給食を食べるという状況は耐えられるものではないだろう。いくらクラス担任が
「(明子さんと)一緒に食べてあげるように」と児童に指導しても、友達がいる児童
にはその過酷さがまだ理解できないはずなのだから、やはりクラス担任が“便所飯”
くらいは認識しておくべきだったと思う。
【2010米中間選挙】茶会候補支援呼びかけ ペイリン氏、全米行脚(産経新聞) - goo ニュース
オドネル氏に高い関心 茶会が支持 2010米中間選挙(産経新聞) - goo ニュース
「無知」が選挙争点になっているアメリカ 誰が金を払っているのか(gooニュース・ニュースな英語) - goo ニュース
草の根の保守運動「ティーパーティー(茶会)」が支持するデラウェア州の共和党
上院候補のクリスティン・オドネルは17日にABCテレビのインタビューで「いくら
頼んでも共和党は私を助けようとしない。民主党候補と差が開くばかりじゃないの」
とブチギレしたらしい。過去に“魔術”にはまっていたオドネルといい、無知を売りに
している元アラスカ州知事のサラ・ペイリンといい、どうして「ティーパーティー(茶会)」
が敢えてこのような奇矯な女性たちを支援するのかと考えてみるなら、実は彼らは
彼女たちのような誰が見ても議員として相応しくない人でも自分たちが金にものを
言わせて支援すれば最終的には大統領にまでなってしまうのかどうか遊び半分で
試しているのではないのかと思う。
「AKB48」キャラ消費の進化論:斎藤 環(精神科医)(Voice) - goo ニュース
川の流れのように 美空ひばり 歌詞情報 - goo 音楽
RIVER AKB48 歌詞情報 - goo 音楽
この斎藤環の論文を理解できる人がどれくらいいるのか定かではないが、私には
言葉を浪費しているだけの戯言のようにしか読めない。AKB48を論じるために
柄谷行人やフロイトやB・アンダーソンを引用しているが、論文を高級そうに見せる
以外には全く機能していない。「もちろん各メンバーに固定的なキャラが割り振られ
ているわけではないが、大島優子がおっさんキャラで高橋みなみがすべりキャラで、
坂野友美がギャルキャラで、という具合の差異化がなされているのは周知のとおり」
と斎藤は述べているが、キャラというものはその人が生まれついて持っている素質
であるのだから、人気投票による序列化で生じるレイヤー(層)でキャラが決定づけ
られることはありえないのである。大島優子の人気がトップから滑り落ちることは
ないとは思うが、大島優子が下位になったところで彼女の“おっさんキャラ”が他の
キャラに変わることはありえない。「集団力動」にサブグループや序列化という「構造
的力動」を加味することで他のメンバーと比較して際立つキャラというものは、元々
その人が持っているキャラ以上のものではありえないし、勿論ファンが彼女たちの
キャラ形成に関わりうるという事実は存在しないのであるから、この時点で斉藤の
論理は破綻していると言わざるを得ない。
AKB48の人気の一因に斎藤が挙げている楽曲の良さは私も認める。例えば、
1989年1月にシングルとしてリリースされた美空ひばりの「川の流れのように」は
秋元康の作詞である。この作品で川の流れは人生そのものにダブらせて直喩で
肯定的に捉えられている。2009年10月に再び秋元康は川をテーマに作詞した。
AKB48の「RIVER」である。「川の流れのように」とは対照的に「RIVER」では川が彼女
たちの人生の障害の隠喩として描かれることになる。いずれ秋元康の作詞の才能
は阿久悠と並び称されることになるだろうが、斎藤環がラカンと並び称されることは
ありえないし、スラヴォイ・ジジェクとさえ並び称されることは絶対にありえない。