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償いの書(48)

2011年04月30日 | 償いの書
償いの書(48)

 裕紀のことを考えている。

 ぼくが浮気をすることと比較して、それ以上にぼくが雪代のことを考えていることを知ったら、彼女はそちらを憎むのかもしれない。比較としての話だ。どちらも嫌なことは間違いない。だが、ぼくの頭から消えない印象を雪代はまたしても残してしまった。

 ぼくはビールを片手に文庫本を読みながら特急電車に乗っている。暗くなった窓外にいくつかの家の明かりが見える。そこに、ぼくは手料理を作って待っている裕紀を想像し、また、その窓外には雪代の清らかな表情も同時に映った。

 ぼくらが別れてから、もう5年ぐらいは経ってしまっているはずだ。彼女は、そのこころのなかにぼくのことをどう印象付けているかは知らない。あの口調ならば嫌われていないことは多分、事実だろうが、ぼくはもしかしたらそれよりずっと好意的な感情を抱いて欲しかったのだろう。もう、関係の修復などは無理なのだが。

 そして、ぼくは手に入れられなかった彼女の5年の推移をまた懐かしがっている。もっとたくさんの素敵な時間を裕紀は作ってくれた。ぼくは、それにとても感謝している。辛い時期にそばにいてくれぼくを楽しませてくれた。彼女の笑顔がぼくの救いになったのも少なくない数にのぼった。逆に彼女に対して、同じようなことを返せているのかが心配になる。ぼくは一度、彼女を見放したのだ。それは、都合の良い話だがぼくの傷になっていた。あのようなことをするべきではなく、またもう繰り返しても良い問題でもなかった。ぼくは、今後ずっと彼女を放さないと決めたのだ。その覚悟をしていたのだ。ぼくは揺れ行く電車の中でその気持ちを再燃させようとしていた。

 うとうとして夢を見る。ぼくはラグビーで島本さんのチームと戦っている16歳だった。彼に敗者のみじめさを教えられ、悔し涙をこらえている。汚れたユニフォームでロッカーに引き上げる。勝者の側に雪代もいた。ぼくの側には初々しかった裕紀がいた。ぼくの這い上がろうとする気持ちには裕紀が含まれていて、結局、登りつめた瞬間には雪代がいる世界に足を入れていた。

 そこには敗者と勝利者の両極の世界があった。ぼくは覚醒しかけている脳で、そのことを理解するのだ。もしかしたら、裕紀がいる場所にいられるのは、ぼくに元気がないときだけなのだろうか? あの東京の孤独感を埋める必要があるときに、裕紀は再び登場し、ぼくをある面で成長させてくれた。そこに安住することを望んでいない自分は、もしかしたら向上心と称して違う世界を見つけ、そこに向かうことを望んでいるのだろうか。

 ぼくは、はっきりと目を覚ます。飲み残しのビールは冷たさを保っていなかった。ぼくは、その温くなり始めたものをそれだけの確認のために口にする。

 特急電車の終点に着いた。ぼくは文庫本をしまい、お土産で膨らんだ不恰好なバックを右手に持ち、左手で空いた缶を握った。

 改札を抜け、別の地下鉄に乗った。仕事の成果で自分はきちんと評価され、その判断を与えられたことに満足している。だが、満足のいかない部分もあった。島本さんは、あの雪代を幸せにしているのだろうか? 彼女の様子は、それらを度外視して輝いていた。だが、それが彼女が望んでいる状態なのかは分からない。ぼくを捨ててまで(ぼくは捨てられたのだろうか?)見つけようとした場所なのだろうか。

 そう考えていたが間もなくぼくは自宅に着く。見慣れたドアの色。勝手をしっているポストの番号。レバーを握り、ぼくは部屋に入る。そこには見慣れた裕紀の顔があった。ぼくのさまざまな葛藤を知らない裕紀の表情。ぼくは、でもとても安堵している自分がいることを発見する。ぼくの社会から、彼女を追放してしまってはいけないのだ。無知な10代の自分には戻ってはいけないのだ。ぼくは、そこで感じ取る。
「どうだった、お仕事?」
「きちんと評価された」
「良かったね。疲れた?」
「まあ。変わったことなかった?」
「とくには。少し休むといいよ」

 ぼくらは、あの高校生のときと当然ながら会話の中味は変わってきている。もっと、精神的な部分が重要視されている。ぼくはバックを開き、荷物を取り出す。
「これは、お土産。こっちはクリーニング」
「ありがとう。懐かしいひとに会った?」ぼくは、そこでなぜだか過敏になる。
「両親とかだけど、そんなに自由な時間もなかったからね」
「そう」彼女は、ぼくと雪代の関係を心配しているのだろうか。それを感じさせてしまう自分を罪深いものとして、ぼくは認定する。
 ぼくはテーブルに座り、裕紀のいつもの表情を見つめる。たった数日なのに、ぼくはそれを忘れてしまいそうになる。もっと鮮烈なものが自分に起こってしまったのだろうか。ぼくは、再確認するように彼女の顔を見つめる。
「どうかした? 変な味」
「違うよ。裕紀の顔って、どんなだったかなと思って」
「忘れちゃった?」

「忘れてないよ。新鮮だよ」ぼくらは、お互いがこの世界に存在することを知って、15年ほどが経っていた。それが短いものなのか、長いものなのか、またその記憶が永続するものなのか判断しようとしていた。しかし、瞬間、そのときの瞬間の積み重ねしかぼくに実感させるものはなかった。
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