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物語の連鎖
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償いの書(38)

2011年04月02日 | 償いの書
償いの書(38)

 またもや、ぼくらは日常の生活に戻る。

 仕事に行き、多少は疲れて帰り、夜はテレビで音楽のビデオを見たり、サッカーをテレビ観戦したりした。それが日常の流れだった。彼女は手の込んだ料理をこしらえ、ときには簡単なつまみを作って、ふたりでくつろいでお酒を飲んだ。ぼくは、仕事を忘れるかのように夏目漱石の三部作を読み、彼女はクラシックの音楽のCDをオーディオに入れた。目をつぶって姿勢を整えたまま彼女は音楽に耳を澄ましていた。ときには上田さんや智美と会い、日常のことを瞬間だが忘れ、むかしの自分に戻った。

 音楽は彼女を癒すらしく、聴いた後にふたたび目を開いた時には疲れが取れている様子だった。ぼくはサッカーやラグビーの放つ熱を通して、自分を解放していった。スリリングな場面を見逃さないかのように食い入って見た。ぼくがサッカーのコーチをしていたときに教えていた子たちの何人かは、高校や大学にいってもそれを続け、ある子は与えられた能力を生かし、ある子は裏方に徹する能力があるのか、過去の自分と同じように幼少の子にスポーツの楽しさを惜しみなく伝えた。ぼくは、それらの情報を友人の松田から聞いた。彼の子どもも大きくなりスポーツをする楽しみを知ったそうだ。そういう存在があることをぼくは単純にだがうらやましかった。

 そのうちのひとりが全国大会に出るために東京に来ていた。ぼくは、寒いスタンドのなかでその試合を観戦していた。ぼくが知っていたのは12歳ぐらいまでの男の子のはずだった。会ったこともない裕紀だったが、肩入れの仕方はぼく以上だった。ぼくが知っていた少し意気地のなかった少年はどこかに消え、自分の肉体や思考をコントロールし、チームメートを鼓舞する18歳の少年がそこにいた。ぼくは、自分が大人になる喜びをそこに感じ続けていた。このような経験も自分はできるのだった。そして、過去に自分を応援してくれた何人かにいまさらながら感謝の気持ちが芽生えた。いや、蘇ったのだ。

 その子のいるぼくの地元の高校は勝利し、次の試合もあった。ぼくはその後、声をかけようと思ったが若い女の子たちに囲まれ、彼に近づくのは困難だった。

「ひろし君の存在もむかしはあのようだった」裕紀は、思い出したかのように言った。
「あんなに人気なんかないよ」
「いや、あったよ。わたしの知っているひろし君が離れていってしまうようで怖かったよ」
「そう」ぼくは、そのことを思い出そうとしているが、もう思い出せなかった。あんなに人気なんかあることが自分自身で信じられなかった。

 ぼくは、それでもメモに書いた電話番号を渡し、暇なら連絡をください、と言って彼の手に握らせた。
「あ、近藤さん、します」と言って、彼はそこから消えた。勝利者の喜びと神々しさが彼の周りにあった。
 その日の夕方に連絡があり、翌日会うことにした。試合は、その次の日にあった。

「近藤さん、久し振りです。結婚したんですね」彼は礼儀正しく挨拶をして、横にいる裕紀に目を向けそう言った。
「ま、この通り」と言って、彼女の名前を教えた。彼女もにこやかに笑って、彼のことを見つめた。宿舎で食事を終えたとのことだが、その年代の胃袋は際限がないらしく(自分も経験したので分かる)彼のために焼き鳥屋に入った。ぼくと裕紀は少しお酒を飲んだが、ただ唖然として彼の食事を眺めている時間が多かった。明日の試合の抱負を訊いたが、彼は自信にみなぎった様子で、試合のシュミレーションが自分の頭のなかで構築され、ただそれを展開するだけのようだった。ぼくも、それを信じ、裕紀もまた似た感情をもった。

「明日も応援に行くね」と、裕紀はまだ注文をするらしい彼の食欲を見守った。

 しかし、無邪気な自信が嫌いなスポーツの神は、彼を当然のように見放した。試合は5-0で負けた。ぼくは自分のことのように悔しがったが、失敗でしか学べないことを彼にも知って欲しかったのも疑いのない事実だった。彼は、東京を去る前に電話をくれ、応援してくれたのに負けてしまった不甲斐なさと、昨日の食事のお礼を伝えた。
「奥さんにもよろしく伝えてください」とも彼は言った。ぼくは、ぼくの存在が裕紀を含めたものであることを知るようになっていく。

 その後もテレビで全国大会の試合を見続けた。彼は、自分の過去の反映だったのかもしれない。ぼくは、その全国大会にも出られなかった。ただ、名声が欲しかっただけかもしれないが、報いとしてのプレゼントも自分は必要としていたのだ。
「残念だったね」と、裕紀は言った。「だが、彼のような子に会えて、嬉しかった。ひろし君がわたしの知らないところでも尊敬されていたみたいだし」

「ぼくは、ただ自分の運動不足を解消しようとしただけだよ」と、真実のような嘘のような言葉を吐いた。彼女はそれには答えなかった。ただ、軽く微笑みぼくの手を握った。

「そういえば、手の痺れはどうした?」そのような症状を言っていた彼女のことを思い出したぼくは、そう言葉をつなげた。
「あれ以来、なくなった」と言ったので、ぼくはそれを信じた。言葉は重くも軽くもないものだった。それで、そのときは良かったのだ。
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