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償いの書(44)

2011年04月23日 | 償いの書
償いの書(44)

 午後のひととき、ぼんやりとなるような時間に、ある女性からの電話ということで、ぼくにつなげられた。
「近藤さん?」ぼくは、その声をきいても誰だか思い出せない。人間の印象を声や口調で記憶付けているのだなと理解する午後のひとときだった。
「どちらさまでしたっけ? お会いしましたでしょうか?」
「この前、島本さんの横にいた」

「ああ、ごめんなさい。顔を見れば直ぐに分かったと思いますが、声の印象があまり残っていなくて」ぼくは言い訳のような言葉をつなぐ。お客さんを相手に商売をするものとして失格である。「それで、ご用件は?」
「あることを相談しようと思っていたら、それなら近藤に訊けよ、と彼が言ったもんだから」
 彼とは、島本さんのようだった。ぼくは、ペンを探して握り、メモを取った。
「そうなんですか?」

「彼のことを軽蔑している?」不意に別の質問がきた。
「そんなことは、もちろんないです」
「近藤さんは、嘘が下手なんだね」
「まあ、少しは」

「やっと、正直になった」電話の向こうで彼女は笑った。そのひとの名前は筒井と言った。「男のひとは、いつでも正直であるべきよ」と、確信をもって彼女は言った。そうしないと、誰かから決定的に信頼を得られないだろうと宣言しているようだった。
「そうします。ところで、用件というか相談の中身は?」

「そう、焦んなくてもきちんと言うから。わたしも信頼に値するのか、このような会話から判断している」
「そうですよね。島本さんはそれでも、ぼくの名前を出した」
「彼は、不動産を扱っているから、どっかにコネぐらいはあるんだろうと言ってた。近藤さんがね」
「まあ、それは」

「わたしは画廊をもっていて、そこのビルから立ち退きをくらった。そこで、新しい場所を探している」
 ぼくは、画廊という文字が直ぐに頭に浮かばなかった。しかし、この前の美術館にいた彼女を思い出し、そのイメージから連想され、きちんと結びついた。そして、資料のなかに丁度、手ごろな物件がいくつかあるのを思い出していた。
「いくつか、ありますね。場所なんかの希望があったら、紹介できますよ」
「一緒に見て回るの?」
「もちろん、鍵も必要ですし」

「そう、希望と金額なんかを、また連絡する。担当は、近藤さんでいいの?」
「ぼくで構わないです。実際にあとで細かい資料のやり取りは別のものがするかもしれませんが…」
 そこで、電話が切れた。ぼくは、彼女の声が自分にインプットされたことを確認し、名前や連絡先をメモに書きとめた。そして、会うことも考えることもしたくなかった島本さんと少なからず縁ができたことを皮肉に感じた。さらに、その向こうにいる雪代のことも考えた。島本さんは、ぼくのことを雪代に話すのだろうか? その内容はどういうものなのだろうか? ぼくは、午後のぼんやりとした時間が終わる前にその空想を楽しんでいた。

「仕事の話でした?」取り次いだ同僚は、ぼくの空想を振り払うかのように言葉をかけてきた。
「昔の知り合いの友人が、画廊を探しているんだって」
「画廊。あの絵の画廊?」

「そう、あれ、あそこ使えそうだよな」と、ぼくは資料を取り出し、いくつかの写真を眺めた。

 ぼくは、家に帰り、今日の経緯を裕紀に話した。彼女は単純に驚き、ぼくのことを不思議そうな目で見た。島本さんからの信頼を勝ち得ている人間。だが、反対にぼくは彼のことを少なからず軽蔑していた。その間にいるぼくのことをいぶかしげな表情で見た。だが、これは生き様の問題ではなく、ただの商売の話だった。ぼくは自分の会社のビルや管理している物件を誰かに貸さなければならない。そこから、収入が上がるのだ。だが、なぜ、ぼくはこうも言い訳を必要としているのだろう。

 裕紀が片づけをしている間、ぼくは雪代の洋服屋のことを思い出している。彼女は数年、モデルをして地元に戻って貯金したお金でそのお店を開いた。彼女の念願が叶った瞬間だった。ぼくは、その彼女の歴史の1ページに加わっていたことに対して自尊心があった。島本さんが関係のあるその別の女性に、また違った場所を提供しようとしている。彼女と島本さんの関係はどのようなものなのだろうか。ぼくは、仕事としてもそのことに関与する自分がいて良いのか判断を棚にあげていた。

 裕紀と再会してから彼女を悲しませるようなことは一切したくなかった。ぼくと雪代との関係が微塵もないということを、ぼくは彼女に知って欲しかった。彼女は片づけを終え、ぼくの横のソファに座った。彼女のぬくもりを感じ、だが、頭の中では雪代の洋服屋をもった喜びの日を消し去れずにいた。

 ぼくは、ずるかったのだろうか。会えないひとに対して、強い郷愁が残ることがあった。ぼくは眠る前までその日のことがずっと残っていた。

 ベッドに入り、「島本さんを軽蔑している?」というセリフがずっと自分に迫って来た。彼女は、ぼくの返事を伝えてしまうのだろうか。それとも、それは些細な会話の一部として見捨ててしまうのだろうか。だが、ひとのこころの中など依然としてぼくには謎だった。


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