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償いの書(46)

2011年04月25日 | 償いの書
償いの書(46)

 筒井さんと賃貸の契約を交わし、それでも、ぼくらはその後、数回会った。

 単純にぼくは彼女に興味を持ち、向こうも同じような感情を有していたらしい。ある時、こう言われる。
「近藤に女性を奪われた、と島本さんは言ってたね」と。

「それは、結論から言えば間違いです。彼らはぼくが高校生のときに付き合っていました。それは似合いの二人でした。でも、彼らは一時的に別れて、ぼくと付き合うようになった。ぼくらの付き合いも6、7年あり、うまくいってると思ってたけど、そうではなかったのかもしれない。ぼくらが別れた後、彼らは結婚し、子どもが生まれた」

「あなたも結婚した」
「そうです。ぼくは何も奪っていないし、喪失感があるとしたら、ぼくの方で間違いないと思うけど」
「それは、あなた側から見た見方」
「そうですかね?」
「一面的に見過ぎている気がする」
「島本さんは魅力的ですか?」ぼくは、筒井さんと彼の関係の本質をまだ知らない。もしかしたら、ただ、仕事上の関係であるというのは嘘ではないかもしれないと考え始めている。
「まあ、そうかもね。でも、あなたも魅力的だと思うけど」

「ぼくが?」
「本当は、それを信じていて、疑念すら感じていないように思うけど」またもや、言葉にならない「分かっている?」というセリフが続くようだった。
「そんなことは、ありませんよ。さっきも言ったように、喪失感があるのは自分ですから」
「あんなに可愛い奥さんがいるのに」
「それとは、また別の問題です。箱の中身が違うようなものです」
「ひとつは埋まっているけど、ひとつのなかは空っぽ?」

「そうでしょうね」ぼくは、ここで本質的な間違いをしていたのだろうか。ひとつが埋まっていればそれで充分ではなかったのか。ずっと、空っぽの箱を抱えて生きていくこともありえたのではないだろうか。もし、裕紀と再会していなければ。だが、その起こった過去や、起こりえる未来のことを結びつけることなど、ぼくには根本的にできないらしい。

 ぼくらは、話しつかれて、無言の時間が許されそうな、彼女の知っている落ち着いて静かなバーに行く。彼女のグラスの中身はみどり色だった。ぼくのものは適度に炭酸が立っていた。静かな店内にはその炭酸の発泡する音まで聞こえそうだった。ぼくは、トイレに行き彼女が頼んだものの名前を聞きそびれている。しかし、そのまま訊かないままで彼女が飲むのを見ていた。

 ぼくは、まだ裕紀以外にも愛されるのかを試そうとしている。それが、いずれ彼女を傷つけるであろうことを知っている。だが、本能的な部分では、それを自分に許そうとしていた。

 そして、ぼくはそれを許した。結婚して、いや、付き合い始めてからぼくは他の女性を知らないでいた。だが、女性は裕紀だけではなかったことを知る。しかし、それゆえに裕紀の放つ魅力が最高なものなのだとも感じた。ぼくには彼女以外はありえなかった。こうしたことを経験しなければ、その感情の地へたどり着けなかった自分を悲しいものだと感じた。

「誰のこと、考えてるの?」と、筒井由布子という女性は言った。ぼくは、もちろん、裕紀のことを考えていた。だが、その名前を出すほど無作法ではなかったが、名前を出さなくても多分、気付かれていたのだろう。

「とくに、誰のことも」
「わたしも、大人だから、いちいち告げ口するようなことはしない。島本君にも」
 ぼくは、彼の存在のことを忘れていた。こうして、ぼくは軽蔑している人間の後釜に居座った。そして、自分も軽蔑されるべき人間であることを認めた。どちらの存在にも大した差はないのではないか、とはっきりと認めざるを得なかった。
「ぼくの前には彼がぶら下がっているような状態が続くのでしょうかね?」と、質問する相手が間違っていることに気付かないまま、ぼくはその言葉を暗い中に発する。
「自分次第だと思うけど」
「しかし、彼とあなたが遠慮なしにぼくの前に表れた」
「あなたの小さな世界を壊してしまうように」
「きっと、壊されませんけど」ぼくは、つまらない意地を張る。この世界はぼくにとって重要なものなのだ。裕紀のいない世界などあってはいけないのだと感じている。だが、行動はまったく反対のことをしている。
「さあ、その世界に帰りなさい」

 ぼくは、彼女の高級な部屋を後にして、自分の身の丈に合った地下鉄に乗り、裕紀がいつも通っているスーパーの消えた照明と無造作に置かれた段ボールを横目に、自分の世界に戻った。
 裕紀は、テレビを前にうとうとしていたのだろうか、眠そうな顔をしていた。
「遅かったね」
「ちょっと」

「あんまり、付き合いばっかりしていると太るよ。ラグビー選手のころから離れてしまうよ」と、彼女は笑顔でそう言った。
「シャワー浴びるね」ぼくは、自分の今日を洗い流そうとしている。そして、裏切りを信じていない彼女の存在を身近に感じ、心苦しかった。それも、やはりぼくの側からだけ見た意見だった。

 だが、こころのなかでぼくは他の女性にも愛されるのだと実感していた。だが、最終的にぼくが選ぶのは、いつも裕紀なのだった。それは、ただずるいという一言で解決されるような意見だが、紛れもなくその日のぼくの感情だった。