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償いの書(45)

2011年04月24日 | 償いの書
償いの書(45)

 ぼくは、筒井という女性と何度か連絡を取り合い、いくつかの候補を選定し、その鍵をもって出掛けることになった。鏡の前で身だしなみに気を付け、そう悪くもないという自分の確約を取り、職場から出た。駐車場で車に乗り込み、いくつかのルートを頭のなかで作った。そのうちのひとつを選び、車を走らせた。

 それでも、彼女の人となりというものが、まだ分からずにいた。訊くべき相手がいたとしたら、島本さんだったが、彼と話したいとも思っていなかった。そこには、かすかな嫉妬のようなものも含まれていたのかもしれない。彼は、ぼくが以前に大好きだった女性と結婚していた。彼女のちいさな子どもの父親でもあった。ぼくは手に入らなかったものを、それゆえに妬み、空想した。そういう自分がいることも、また嫌になり、極力、忘れようとした。だが、そう簡単にいかないのも、また事実だった。

 待ち合わせの場所に彼女がいた。ぼくは路肩に車を止め、横に彼女を乗せた。

「ありがとう、一番お勧めのものから見せて」
 ぼくは、また頭の中でルートをこしらえ、それを実行した。彼女の身体から、いままで嗅いだこともないような香水の匂いがした。ぼくは、裕紀が化粧するさいの瓶のいくつかを想像した。だが、それらとは、まったく別のものが存在していることをその時に知った。

「島本さんは、たまに東京に来るんですかね?」
 ぼくらの共通の話題には彼を持ち出さないわけにはいかなかった。それが楽しいことでもないのだが、もしかしたら、雪代のいくつかの情報を得られるかもしれないという期待もあった。
「たまにね、彼は世界のあちこちにも買い付けに行くんでしょう。知らない?」
「そうなんですか」ぼくは、なぜか、知らないことにした。なにも知らなければ、もっと新たな情報が得られるとでも思ったのだろうか。
「わたしも、洋服を誰かに着てもらう仕事もしている」
「画廊だけじゃなく?」

「あれは、死んだ父の遺産。その管理を任されている」
「そういうことなんですね」分からないながらも、そう返事をした。自分の父がぼくに遺産を残すようなことは、多分、なかった。そして、そういう身分のひとがいることも知っているが、自分は父の毎日の労働も神聖であると判断していた。むろん、裕福なひとが裕福なだけで軽んじられる必要もないが、ぼくも毎日のきちんとした労働を続けるしか方法はなかった。

「わたしは、それを無くすことを求められていない。新しい才能を発掘するよう、いくらかのお金が毎年、動いている」彼女は、言葉の最後に音にはならないが「分かる?」という表情を付け加えることによって、会話を完成させようとしていた。ぼくには、分かることもあり、理解できないこともあった。だが、ここは、先ずは場所を紹介しなければならないのだ、とそのことに専念するよう自分を縛り付けた。

 駐車場に車を止め、一つ目を紹介した。シャッターを開け、太陽の日射しを取り入れると、中は空だったが、そこにあるべき未来をイメージすることができるようだった。ぼくは、また雪代の店を想像している。何度も前を通りかかり、彼女を迎えにもいった。子育てから手が離れた彼女はそこでいまも働いているのだろうかと、動いている姿を作り上げた。

「ここで、いいじゃない」
「そうですか?」
「そう思って最初にここに来たんでしょう?」
「そうですけど、もういくつかあるので見てもらってからの方が」
「そうしたい?」
「まあ、筒井さん次第ですけど」
「じゃあ、そうする。連れてって」
 ぼくらは、また車に乗り、あと2軒だが廻った。しかし、彼女の頭のなかでは最初のところと決まっていたようで、それは儀礼的なものだった。ぼくは鍵を開け、中を紹介し、またそれが終わると閉めた。いつも、していることだが、彼女の波長が不思議なもので、ぼくは自分のペースで仕事を勧められていない印象があった。

「多分、最初のところにすると思うけど、悩んでもいい。それと、少し相談に乗ってくれる?」
 筒井さんは悩んでいる様子もなかった。相談も必要ないようだった。自分で自分のことは解決できるような気がしている。だが、責任もあるのでぼくは頷くしかなかった。また、彼女と島本さんの間柄にも興味があった。糾弾する立場にもないが、その関係への憧れもあったのかもしれない。そして、いくつかの面をもつ彼女に興味が膨らんでいくことも正直な気持ちだった。

 ぼくは、彼女と待ち合わせした場所まで戻り、彼女は車から降りた。

「明日、仕事が終わってから相談に乗ってくれる?」と最後に彼女は言った。ぼくは仕事の成果以外にも、何かを求めていたのか、また、求められていたのかという微妙な立場に自分を置いた。それは、悪くない感情だったが、裕紀のことも心配した。

 正直な気持ちになれば、裕紀がぼくを愛しているのは事実だが、それ以外の女性はぼくに関心があるのだろうかと余計な気持ちをもった。ぼくは、ラグビー部時代の歓声のまぼろしをそこで聞く。誰もが、ぼくの走る姿を応援していた。ぼくはタックルや敵の猛追を逃れ、その歓声を独り占めにする。それを正当化させようとしているずるい自分もいた。こうして、ぼくは、自分の人生にスパイスと称して、なにかを振りかけようとしていた。


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