償いの書(47)
ぼくは、裕紀には見せなかった自分自身の姿があることを知った。全身全霊で彼女を愛する気持ちを失ってはいないが、それも一先ずはどこかに預けた。苦い後悔のような気持ちを抱き、逆に甘美な時間を有した。天秤にかけるようなことはしなかったはずだが、ただ、自分を浪費する時間も必要だったのだろう。
こう書いても、どれも言い訳だ。ぼくは、裏切ったのであり、彼女はそれを知らなかった。いつも通りの朝を迎え、いつも通りの夜を送った。
それから、本社に帰る用件ができた。ぼくは荷物をまとめ、衣類をバックにしまい、電車に乗った。段々と見慣れた風景に自分も馴染んでいき、郷愁的な気持ちがよみがえった。そこはぼくが多くの時間を過ごした場所であり、たくさんの思い出が原石のまま、置かれた場所であることを知った。まだまだ回顧する年齢には早かったが、気持ちのどこかで昔を振り返って懐かしむのも悪くない時間だとも思っていた。
そして、そこにはまだ雪代がいた。ぼくのこころの中の彼女の存在は日々、減っていく傾向にあるが、それはまったくの無になるわけでもなかった。また無にする必要もなかった。ぼくの思い出のなかには当然、彼女が存在していて、自分の過去を振り返って彼女を登場させないことは不可能だった。ロミオのいないジュリエットみたいなものだ。
ぼくは、駅に着きタクシーに乗る。自分の母校の横を車は通り、その日も体育の時間なのだろうか、多くの生徒たちが若さゆえの躍動を表現していた。ぼくも、こころだけはあの時間に戻っている。だが、ぼくらはもっと苛烈な行動を求められていた。それを望んだのも自分であり、受け入れたのも自分だった。
会社に入り、挨拶を済ませ、会議を終える。会議中のビルの空には、懐かしい空気が漂っていた。ぼくが暮らしている東京とは別の空気だった。裕紀もこれを覚えているだろうかと思い、箱にでも入れて、彼女に見せたかった。また、雪代は当然のこととして、これを毎日見ているのだろうと思った。彼女が東京で仕事をして戻ってきたとき、嬉しさの一部は、この空気感に触れたことなのだろうと、今更ながら気付いた。
その思いは、ぼくと彼女を結びつける。ぼくは、実家に寄った。出張費としてホテル代が出るが、たまに戻ってきて味気ない部屋で過ごすより、自分の家の放つ雰囲気に触れ、また母親の手料理を食べた。
それでも、夜はまた呼び出され、社長と酒を飲んだ。彼も少なからず老い、自分の両親も下降線をくだっていく。ぼくは自分のエネルギーのピークを感じないわけにはいかなかった。そして、楽しみも喜びも今を中心に回っており、そこに裕紀がいる喜びを感じた。
社長は、ぼくの東京での生活と仕事ぶりを訊いた。ぼくは、それを満足げに答え、また彼の息子と義理の娘のはなしを期待通りに話した。
彼は、そこそこに切り上げ、ぼくは反対にだらだらと居座り続けた。地元の料理やお酒が、このように自分を解放するとも思っていなかった。そして、自分の使う言語が、前のように戻ってしまうのも感じている。
ぼくは背後にある雰囲気を感じる。それは期待の報いであり、動揺のはじまりでもある。ゆっくりと後ろを振り返る。数人の女性が快活な声をあげ、店内にはいってきた。そこには、雪代がいた。東京では、このような偶然はありえないのかもしれないが、ぼくらはまだ小さな、それでいて手心のしれた社会に生きているのだろう。
「ひろし君、戻ってるんだ」回りの女性は会話を止め、一瞬だけ空白の時間があった。彼女らはぼくの存在をどう受け止めたのか、知りたかったがそれはできなかった。
雪代たちは、離れたテーブルに座り、ぼくは様子が分からないままでいた。だが、帰るきっかけを失ったのは事実だろう。少しは、会話をした方が良さそうである。
20分ぐらいたったのだろうか、雪代はハンカチを片手にぼくのとなりに座った。
「仕事で? 元気にしてる?」それは聞き覚えのある声だった。ぼくはその声も忘れられなかったことを知る。
「そうだよ。雪代の店のひと?」
「きれいでしょう? ひろし君は病気が出ていない、浮気の?」
「なんか、知っているの?」ぼくは、島本さんの存在を身近に感じた。彼は、なにかを言ったのか?
「知ってるわけないでしょう。こんなに離れているのに? してるの? あの可愛いこを悲しませないでね」
雪代は、彼女の名前を絶対にくちに出さなかった。それをすれば、彼女を高貴なものとして認めてしまう恐れがあるかのようだった。
「してないよ。雪代には悪いけど、過去のものだし、封印した」だが、それは真実とは程遠い。
「悲しませないでね」と、同じことを言った。「長いの? こっちは」
「明日の夕方には帰るよ」
「そう、元気でね。前もって言ってくれれば時間ぐらい作れるのに。会いたくない?」
「そんなことはないけど」
「ふうん、じゃあ、またね」と言い残し、彼女は席を立った。ぼくはお会計を済ませ、彼女らのために何かを頼もうかと考える。だが、ささいな勇気はぼくから消え、ただ、そこを立ち去った。
ぼくの雪代に対する思い出や印象はすこしだけ更新され、その名残惜しさをまた感じている。
ぼくは、裕紀には見せなかった自分自身の姿があることを知った。全身全霊で彼女を愛する気持ちを失ってはいないが、それも一先ずはどこかに預けた。苦い後悔のような気持ちを抱き、逆に甘美な時間を有した。天秤にかけるようなことはしなかったはずだが、ただ、自分を浪費する時間も必要だったのだろう。
こう書いても、どれも言い訳だ。ぼくは、裏切ったのであり、彼女はそれを知らなかった。いつも通りの朝を迎え、いつも通りの夜を送った。
それから、本社に帰る用件ができた。ぼくは荷物をまとめ、衣類をバックにしまい、電車に乗った。段々と見慣れた風景に自分も馴染んでいき、郷愁的な気持ちがよみがえった。そこはぼくが多くの時間を過ごした場所であり、たくさんの思い出が原石のまま、置かれた場所であることを知った。まだまだ回顧する年齢には早かったが、気持ちのどこかで昔を振り返って懐かしむのも悪くない時間だとも思っていた。
そして、そこにはまだ雪代がいた。ぼくのこころの中の彼女の存在は日々、減っていく傾向にあるが、それはまったくの無になるわけでもなかった。また無にする必要もなかった。ぼくの思い出のなかには当然、彼女が存在していて、自分の過去を振り返って彼女を登場させないことは不可能だった。ロミオのいないジュリエットみたいなものだ。
ぼくは、駅に着きタクシーに乗る。自分の母校の横を車は通り、その日も体育の時間なのだろうか、多くの生徒たちが若さゆえの躍動を表現していた。ぼくも、こころだけはあの時間に戻っている。だが、ぼくらはもっと苛烈な行動を求められていた。それを望んだのも自分であり、受け入れたのも自分だった。
会社に入り、挨拶を済ませ、会議を終える。会議中のビルの空には、懐かしい空気が漂っていた。ぼくが暮らしている東京とは別の空気だった。裕紀もこれを覚えているだろうかと思い、箱にでも入れて、彼女に見せたかった。また、雪代は当然のこととして、これを毎日見ているのだろうと思った。彼女が東京で仕事をして戻ってきたとき、嬉しさの一部は、この空気感に触れたことなのだろうと、今更ながら気付いた。
その思いは、ぼくと彼女を結びつける。ぼくは、実家に寄った。出張費としてホテル代が出るが、たまに戻ってきて味気ない部屋で過ごすより、自分の家の放つ雰囲気に触れ、また母親の手料理を食べた。
それでも、夜はまた呼び出され、社長と酒を飲んだ。彼も少なからず老い、自分の両親も下降線をくだっていく。ぼくは自分のエネルギーのピークを感じないわけにはいかなかった。そして、楽しみも喜びも今を中心に回っており、そこに裕紀がいる喜びを感じた。
社長は、ぼくの東京での生活と仕事ぶりを訊いた。ぼくは、それを満足げに答え、また彼の息子と義理の娘のはなしを期待通りに話した。
彼は、そこそこに切り上げ、ぼくは反対にだらだらと居座り続けた。地元の料理やお酒が、このように自分を解放するとも思っていなかった。そして、自分の使う言語が、前のように戻ってしまうのも感じている。
ぼくは背後にある雰囲気を感じる。それは期待の報いであり、動揺のはじまりでもある。ゆっくりと後ろを振り返る。数人の女性が快活な声をあげ、店内にはいってきた。そこには、雪代がいた。東京では、このような偶然はありえないのかもしれないが、ぼくらはまだ小さな、それでいて手心のしれた社会に生きているのだろう。
「ひろし君、戻ってるんだ」回りの女性は会話を止め、一瞬だけ空白の時間があった。彼女らはぼくの存在をどう受け止めたのか、知りたかったがそれはできなかった。
雪代たちは、離れたテーブルに座り、ぼくは様子が分からないままでいた。だが、帰るきっかけを失ったのは事実だろう。少しは、会話をした方が良さそうである。
20分ぐらいたったのだろうか、雪代はハンカチを片手にぼくのとなりに座った。
「仕事で? 元気にしてる?」それは聞き覚えのある声だった。ぼくはその声も忘れられなかったことを知る。
「そうだよ。雪代の店のひと?」
「きれいでしょう? ひろし君は病気が出ていない、浮気の?」
「なんか、知っているの?」ぼくは、島本さんの存在を身近に感じた。彼は、なにかを言ったのか?
「知ってるわけないでしょう。こんなに離れているのに? してるの? あの可愛いこを悲しませないでね」
雪代は、彼女の名前を絶対にくちに出さなかった。それをすれば、彼女を高貴なものとして認めてしまう恐れがあるかのようだった。
「してないよ。雪代には悪いけど、過去のものだし、封印した」だが、それは真実とは程遠い。
「悲しませないでね」と、同じことを言った。「長いの? こっちは」
「明日の夕方には帰るよ」
「そう、元気でね。前もって言ってくれれば時間ぐらい作れるのに。会いたくない?」
「そんなことはないけど」
「ふうん、じゃあ、またね」と言い残し、彼女は席を立った。ぼくはお会計を済ませ、彼女らのために何かを頼もうかと考える。だが、ささいな勇気はぼくから消え、ただ、そこを立ち去った。
ぼくの雪代に対する思い出や印象はすこしだけ更新され、その名残惜しさをまた感じている。
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