償いの書(43)
裕紀が仕事の関係者からもらった絵画展のチケットを手にして、そこに二人で向かった。天気も良く、仕事から解放されていることを実感しているような良き日だった。さまざまなことを話しながら、到着して、チケットを渡し、半券を戻され、ぼくらは中に入った。声のトーンは落としたが、ぼくらは印象をそれぞれに語った。彼女が留学時代に行った美術館の話もぼくは事前にきいていた。しかし、その広大さに比べて、ぼくらがいるところは高いビルの1フロアーだった。
ぼくらは半分ほど見て、高層ビルから見える下界の景色を無意識に感じ、ベンチに座っていた。前半も楽しかったのだが、後半はどのような展開や見応えのある絵画があるのかをも楽しみにしていた。
ぼくは、そこで後方から肩をたたかれた。
「やっぱり、近藤だったのか? 似ている奴がいるもんだなと思ってた」
そこにいるのは島本さんだった。斜め後ろにはきれいな女性がいた。ぼくは、島本さんに会ったことを驚いていたが、後ろに妻になった雪代がいるかもしれないことに、もっと驚く予感がした。しかし、それは別の女性だった。安堵と怒りの入り混じった気持ちが瞬時に湧いてきた。彼は、一体、こんなところで何をしているのだろう? だが、ぼくは彼を一時は尊敬するほど、憧憬していたのだ。さまざまに沸き起こった感情を表情に出さないようにして、敬意を含めた口調を作った。
「あ、島本さん、お久し振りです」
「紹介しろよ。彼女がその?」
「妻です。裕紀って言います」
「島本です。あ、こっちは仕事の関係者」と、彼は後方を振り返って、また首を戻し、優しくそう言った。その女性は軽く会釈した。その洗練された物腰と服装が、その場所を一瞬にして華やかにした。ぼくの見方が普通ではなかったのかもしれないことを島本さんは感じたらしく、それ以上の言葉を無言で制した。しかし、彼は、「後でお茶でもどうだ」と付け加えた。
「そうですね」という曖昧な言葉を残し、だが、それをはっきりとせぬまま、彼らはそこを立ち去った。
「あの人、誰だっけ? どこかで見たことがあるような…」と、裕紀は困ったような表情をしていた。
「ぼくらの相手の強かったラグビー部の先輩」彼女は、その言葉を聞き、点と点が結んだように、認識したというような表情に変わった。それは、別のある女性が現れることにつながった。
「じゃあ、その?」
「雪代さんの夫」
「なのに?」
「なのに、別のきれいな女性と歩いている」
「知らないのかな?」それは、返事を待っている言葉でもないようだったが、ぼくもそうしたことをするかもしれないという不信感の予感のようなものも彼女にはあるのかもしれなかった。だが、実際には、もうぼくは裕紀と結婚してから、そうした類いの噂も実行もなかった。
「あとで、会うの?」
「どうしよう」
「責めたいな」
「いいよ、止しなよ」
後半の絵画への期待は、もろくも崩れ、ぼくは、ただ、目の前のものがこころに入って来ない状態で、動揺していた。それは、どういうことなのだろう、と深く追求したかった。結論らしきものは、雪代が裏切られているかもしれないという漠然とした不安感だった。
その気持ちが伝染したように裕紀もそわそわしていた。彼女は腕をぼくに絡め、ぼくがそこから逃げてしまうかのように、しっかりと掴まえた。
何の約束もなかったが、エレベーターで一階に降りると、彼らはそこで待っていた。その女性は長い指でタバコを挟み、心地良さそうに白い息を吐いた。
「ちょっとだけでしたら」と、ぼくは先輩を前に言った。現在がどうであろうと、ぼくは彼を尊敬した日々の自分を思い出し、自分へのけじめとしてそう振舞わざるを得なかった。
ぼくらは、となりのビルの地下にあるお店に入った。小さな音でジャズがかかり、薄暗い店内をムードあるものにしていた。
それぞれが注文をしたが、誰も口を開かなかったので、それ以降も会話はすすまなかった。しかし、島本さんの連れの女性が裕紀に年齢や仕事のことを尋ねた。ぼくは、裕紀の口から自分も知っている情報を聞いた。
「若く見えるね」と彼女は言って、そこで口を閉じた。
「オレは、近藤に女性を奪われた」と、冗談のような口調で島本さんは言った。そんなことをするのだろうかという不可解な表情で、連れの女性はぼくを見た。ぼくは、どうでも良かったが裕紀のことを考えると言っては欲しくない言葉だったのは事実だ。
「それは、違うと思いますけど」
「ま、嘘だけどね。傷ついた?」その言葉はぼくになのか、それとも、裕紀に言ったのかは分からなかった。
それからも、会話は楽しいものになるべく用意はされず、ただ、むなしい時間が過ぎ去った。
ぼくら二人は、彼らを店内に残して、また陽光の下に出た。
「嫌な気分になったらごめんね」
「別に、いやでもないけど、彼は、もっと凛々しかったような気がしていたけど、違ってたのかな」
「ぼくも同意見だよ。昔は尊敬に値するひとだった」付け加えたかったが、彼はなぜ変わってしまったのだろうという心配をして、もっと雪代の現在も心配した。また、小さな子どもの父親として、彼は適任なのだろうかとも考えた。だが、それはぼくがどうこうする問題ではなかった。
ぼくらはテラスのあるような店に入り、彼女は紅茶を、そして、ぼくは冷えたビールのグラスを掴み、ある一日の期待と結果を見守ろうとした。
裕紀が仕事の関係者からもらった絵画展のチケットを手にして、そこに二人で向かった。天気も良く、仕事から解放されていることを実感しているような良き日だった。さまざまなことを話しながら、到着して、チケットを渡し、半券を戻され、ぼくらは中に入った。声のトーンは落としたが、ぼくらは印象をそれぞれに語った。彼女が留学時代に行った美術館の話もぼくは事前にきいていた。しかし、その広大さに比べて、ぼくらがいるところは高いビルの1フロアーだった。
ぼくらは半分ほど見て、高層ビルから見える下界の景色を無意識に感じ、ベンチに座っていた。前半も楽しかったのだが、後半はどのような展開や見応えのある絵画があるのかをも楽しみにしていた。
ぼくは、そこで後方から肩をたたかれた。
「やっぱり、近藤だったのか? 似ている奴がいるもんだなと思ってた」
そこにいるのは島本さんだった。斜め後ろにはきれいな女性がいた。ぼくは、島本さんに会ったことを驚いていたが、後ろに妻になった雪代がいるかもしれないことに、もっと驚く予感がした。しかし、それは別の女性だった。安堵と怒りの入り混じった気持ちが瞬時に湧いてきた。彼は、一体、こんなところで何をしているのだろう? だが、ぼくは彼を一時は尊敬するほど、憧憬していたのだ。さまざまに沸き起こった感情を表情に出さないようにして、敬意を含めた口調を作った。
「あ、島本さん、お久し振りです」
「紹介しろよ。彼女がその?」
「妻です。裕紀って言います」
「島本です。あ、こっちは仕事の関係者」と、彼は後方を振り返って、また首を戻し、優しくそう言った。その女性は軽く会釈した。その洗練された物腰と服装が、その場所を一瞬にして華やかにした。ぼくの見方が普通ではなかったのかもしれないことを島本さんは感じたらしく、それ以上の言葉を無言で制した。しかし、彼は、「後でお茶でもどうだ」と付け加えた。
「そうですね」という曖昧な言葉を残し、だが、それをはっきりとせぬまま、彼らはそこを立ち去った。
「あの人、誰だっけ? どこかで見たことがあるような…」と、裕紀は困ったような表情をしていた。
「ぼくらの相手の強かったラグビー部の先輩」彼女は、その言葉を聞き、点と点が結んだように、認識したというような表情に変わった。それは、別のある女性が現れることにつながった。
「じゃあ、その?」
「雪代さんの夫」
「なのに?」
「なのに、別のきれいな女性と歩いている」
「知らないのかな?」それは、返事を待っている言葉でもないようだったが、ぼくもそうしたことをするかもしれないという不信感の予感のようなものも彼女にはあるのかもしれなかった。だが、実際には、もうぼくは裕紀と結婚してから、そうした類いの噂も実行もなかった。
「あとで、会うの?」
「どうしよう」
「責めたいな」
「いいよ、止しなよ」
後半の絵画への期待は、もろくも崩れ、ぼくは、ただ、目の前のものがこころに入って来ない状態で、動揺していた。それは、どういうことなのだろう、と深く追求したかった。結論らしきものは、雪代が裏切られているかもしれないという漠然とした不安感だった。
その気持ちが伝染したように裕紀もそわそわしていた。彼女は腕をぼくに絡め、ぼくがそこから逃げてしまうかのように、しっかりと掴まえた。
何の約束もなかったが、エレベーターで一階に降りると、彼らはそこで待っていた。その女性は長い指でタバコを挟み、心地良さそうに白い息を吐いた。
「ちょっとだけでしたら」と、ぼくは先輩を前に言った。現在がどうであろうと、ぼくは彼を尊敬した日々の自分を思い出し、自分へのけじめとしてそう振舞わざるを得なかった。
ぼくらは、となりのビルの地下にあるお店に入った。小さな音でジャズがかかり、薄暗い店内をムードあるものにしていた。
それぞれが注文をしたが、誰も口を開かなかったので、それ以降も会話はすすまなかった。しかし、島本さんの連れの女性が裕紀に年齢や仕事のことを尋ねた。ぼくは、裕紀の口から自分も知っている情報を聞いた。
「若く見えるね」と彼女は言って、そこで口を閉じた。
「オレは、近藤に女性を奪われた」と、冗談のような口調で島本さんは言った。そんなことをするのだろうかという不可解な表情で、連れの女性はぼくを見た。ぼくは、どうでも良かったが裕紀のことを考えると言っては欲しくない言葉だったのは事実だ。
「それは、違うと思いますけど」
「ま、嘘だけどね。傷ついた?」その言葉はぼくになのか、それとも、裕紀に言ったのかは分からなかった。
それからも、会話は楽しいものになるべく用意はされず、ただ、むなしい時間が過ぎ去った。
ぼくら二人は、彼らを店内に残して、また陽光の下に出た。
「嫌な気分になったらごめんね」
「別に、いやでもないけど、彼は、もっと凛々しかったような気がしていたけど、違ってたのかな」
「ぼくも同意見だよ。昔は尊敬に値するひとだった」付け加えたかったが、彼はなぜ変わってしまったのだろうという心配をして、もっと雪代の現在も心配した。また、小さな子どもの父親として、彼は適任なのだろうかとも考えた。だが、それはぼくがどうこうする問題ではなかった。
ぼくらはテラスのあるような店に入り、彼女は紅茶を、そして、ぼくは冷えたビールのグラスを掴み、ある一日の期待と結果を見守ろうとした。
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