償いの書(42)
裕紀の存在がぼくをこの世界に繋ぎとめているんだな、と感じることがあった。
夜中に目を覚ますと、彼女の小さな寝息がきこえる。ぼくはそれを聞くこともなく生活しなければならないかもしれなかった。休日に何の目的もなく散歩をしている。それも、ぼくはずっとひとりでするのかもしれなかった。だが、他愛もない会話をして、それが無駄に時間をやり過ごしたという失望感を自分に与えることはなかった。ぼくらには意思の疎通があり、共同体という一体感もあった。
彼女は何日か、友人や叔母さんと旅行に行き、家を空けることがあった。ぼくは、数日はさまざまな用事や、普段できなかったことを片付けたり、職場の同僚と仕事の終わりに飲んだりして時間の経過を忘れたが、何日かすると、微かだが喪失感のようなものも感じた。ぼくは、眠る前に誰かと話したい欲望を感じ、それは、もちろん誰でも良いわけではなかった。裕紀であるべきだったのだ。
ベッドの中で眠れぬままごろごろしていると、自分の過去に起こったことが映像となって自分の前にあらわれた。そうなると、やはりぼくには裕紀の前の時代もあった。スポーツ選手として名を馳せた時代と裕紀に再会する前の時間が、そのような油断とも呼べるふとした瞬間にぼくに迫ってくる。記憶をその時間に戻すように迫ってくるのだ。ぼくは、それに抵抗しない。自分の意思より、記憶に刻み付けられたものの方が強い力を持っていた。
ぼくは、自分の動かない核のようなものを掴みきれないでいる19歳ぐらいだったのだろうか? ある海辺にいる。そこには最愛のひとりであった雪代がいた。彼女の髪は、どのコマーシャルよりぼくに印象付けるべき風に揺れていた。彼女も20代の前半で、子どもをもつなどと考えられないほどフレッシュで生きいきとしていた。ぼくは、彼女から大人として認められたいという欲望があり、また、このまま彼女の優しい庇護を受けたいという矛盾した気持ちを持っている。賢い発言をしたいと思いながら、自分が会話をリードする必要もあまりなかった。その微妙な立場が、とても居心地がよく、その揺れる彼女の髪が、そのぼくのこころの象徴のように映像として映っている。
ぼくらにも衝突はあったし、口喧嘩もしたはずだが、それはすべて忘却という言葉で片付けられそうだった。もっと、感情のぶつかりの仕方のない結果だとしたら、もっと、もっと、それをしても良かったのではないかとも思っている。
彼女は、いつの日かぼくから離れようとしている。ぼくは、嫌われていくという事態を無視しようとしたが、そこには焦りと失望があり、どこまでもこころに残り、また反対に目をつぶろうとした。直視したくない当然の気持ちがあったが、いまでは彼女はぼくのことをちっとも憎んでいなかったということを書き換えられた事実にしようとしている。当人と話すことがない分、ぼくは塗り替えられた記憶を、新しい記憶として、そのまどろみの中で新しく入れられたコーヒーの匂いや味のように昨日の同じものを忘れていく。
ぼくはそれを手放し、裕紀と会った。ぼくをこの世界に喰い止めたのは、コンビニエンス・ストアで裕紀の姿を確認したからなのだ。ぼくにそれが例えばなかったら、自暴自棄になり、また無力な失われた記憶をもつ人間として悲観した人生を、こころのなかに残していたかもしれない。
ぼくは、いつの間にかまどろみ、気付くと朝になっている。支度の慌ただしさの中、ぼくは夜のひとときに蘇った記憶を思い出すことはなかったが、手すりにつかまった電車のなかで、昨日のことがまた同じようにふたたび訪れた。
ぼくは家にいる。テーブルで大学の勉強をしている。鍵が開き、東京からもどった雪代がドアからすり抜けて入ってくる。彼女のその時の笑顔と安堵が混じったような顔をぼくは、地下鉄の車内のガラスに写っているかのように身近に感じる。
「ひとりで淋しかった?」
「もちろんだよ」
「もう少しでこっちに戻ってくるよ」と、雪代は言って、ぼくはペンを指から話して抱き疲れるままにした。彼女の髪がぼくの頬に触れた。
一日をこうしたさまざまな記憶という誘惑と戦い、ぼくは仕事を終える。いつもの道をさまざまな考えを道連れにして、歩いて帰った。ドアを開けると、料理の匂いがした。
裕紀はスリッパをかすかに引き擦り、こっちに近寄ってきた。ぼくは愛用のバックを靴箱の上に置き、彼女が飛び掛ってきて抱き疲れるままにした。
「ごめんね、淋しかった?」
「うん、もちろんだよ」
彼女はぼくの手を引っ張り、玄関から上げた。いくつかの品はテーブルに並び、最後の仕上げのように冷蔵庫からビールを出していたその後姿があった。ぼくは手を洗い、洗面所の照明をつけて、自分の顔をたんねんに見た。ぼくは、あれから10年という月日が経っているのを知る。タオルで手を拭い、経過した年齢がそのタオルで消えるかのように顔を拭った。
ぼくは、テーブルの前に陣取り、裕紀の後姿を見た。この世界、この現在を刻々と失いつつある世界に繋ぎとめるのは裕紀かもしれず、残された記憶もまた、ぼくをこの楽しさと悲しさの入り混じった世界に繋ぎとめているらしい。
裕紀の存在がぼくをこの世界に繋ぎとめているんだな、と感じることがあった。
夜中に目を覚ますと、彼女の小さな寝息がきこえる。ぼくはそれを聞くこともなく生活しなければならないかもしれなかった。休日に何の目的もなく散歩をしている。それも、ぼくはずっとひとりでするのかもしれなかった。だが、他愛もない会話をして、それが無駄に時間をやり過ごしたという失望感を自分に与えることはなかった。ぼくらには意思の疎通があり、共同体という一体感もあった。
彼女は何日か、友人や叔母さんと旅行に行き、家を空けることがあった。ぼくは、数日はさまざまな用事や、普段できなかったことを片付けたり、職場の同僚と仕事の終わりに飲んだりして時間の経過を忘れたが、何日かすると、微かだが喪失感のようなものも感じた。ぼくは、眠る前に誰かと話したい欲望を感じ、それは、もちろん誰でも良いわけではなかった。裕紀であるべきだったのだ。
ベッドの中で眠れぬままごろごろしていると、自分の過去に起こったことが映像となって自分の前にあらわれた。そうなると、やはりぼくには裕紀の前の時代もあった。スポーツ選手として名を馳せた時代と裕紀に再会する前の時間が、そのような油断とも呼べるふとした瞬間にぼくに迫ってくる。記憶をその時間に戻すように迫ってくるのだ。ぼくは、それに抵抗しない。自分の意思より、記憶に刻み付けられたものの方が強い力を持っていた。
ぼくは、自分の動かない核のようなものを掴みきれないでいる19歳ぐらいだったのだろうか? ある海辺にいる。そこには最愛のひとりであった雪代がいた。彼女の髪は、どのコマーシャルよりぼくに印象付けるべき風に揺れていた。彼女も20代の前半で、子どもをもつなどと考えられないほどフレッシュで生きいきとしていた。ぼくは、彼女から大人として認められたいという欲望があり、また、このまま彼女の優しい庇護を受けたいという矛盾した気持ちを持っている。賢い発言をしたいと思いながら、自分が会話をリードする必要もあまりなかった。その微妙な立場が、とても居心地がよく、その揺れる彼女の髪が、そのぼくのこころの象徴のように映像として映っている。
ぼくらにも衝突はあったし、口喧嘩もしたはずだが、それはすべて忘却という言葉で片付けられそうだった。もっと、感情のぶつかりの仕方のない結果だとしたら、もっと、もっと、それをしても良かったのではないかとも思っている。
彼女は、いつの日かぼくから離れようとしている。ぼくは、嫌われていくという事態を無視しようとしたが、そこには焦りと失望があり、どこまでもこころに残り、また反対に目をつぶろうとした。直視したくない当然の気持ちがあったが、いまでは彼女はぼくのことをちっとも憎んでいなかったということを書き換えられた事実にしようとしている。当人と話すことがない分、ぼくは塗り替えられた記憶を、新しい記憶として、そのまどろみの中で新しく入れられたコーヒーの匂いや味のように昨日の同じものを忘れていく。
ぼくはそれを手放し、裕紀と会った。ぼくをこの世界に喰い止めたのは、コンビニエンス・ストアで裕紀の姿を確認したからなのだ。ぼくにそれが例えばなかったら、自暴自棄になり、また無力な失われた記憶をもつ人間として悲観した人生を、こころのなかに残していたかもしれない。
ぼくは、いつの間にかまどろみ、気付くと朝になっている。支度の慌ただしさの中、ぼくは夜のひとときに蘇った記憶を思い出すことはなかったが、手すりにつかまった電車のなかで、昨日のことがまた同じようにふたたび訪れた。
ぼくは家にいる。テーブルで大学の勉強をしている。鍵が開き、東京からもどった雪代がドアからすり抜けて入ってくる。彼女のその時の笑顔と安堵が混じったような顔をぼくは、地下鉄の車内のガラスに写っているかのように身近に感じる。
「ひとりで淋しかった?」
「もちろんだよ」
「もう少しでこっちに戻ってくるよ」と、雪代は言って、ぼくはペンを指から話して抱き疲れるままにした。彼女の髪がぼくの頬に触れた。
一日をこうしたさまざまな記憶という誘惑と戦い、ぼくは仕事を終える。いつもの道をさまざまな考えを道連れにして、歩いて帰った。ドアを開けると、料理の匂いがした。
裕紀はスリッパをかすかに引き擦り、こっちに近寄ってきた。ぼくは愛用のバックを靴箱の上に置き、彼女が飛び掛ってきて抱き疲れるままにした。
「ごめんね、淋しかった?」
「うん、もちろんだよ」
彼女はぼくの手を引っ張り、玄関から上げた。いくつかの品はテーブルに並び、最後の仕上げのように冷蔵庫からビールを出していたその後姿があった。ぼくは手を洗い、洗面所の照明をつけて、自分の顔をたんねんに見た。ぼくは、あれから10年という月日が経っているのを知る。タオルで手を拭い、経過した年齢がそのタオルで消えるかのように顔を拭った。
ぼくは、テーブルの前に陣取り、裕紀の後姿を見た。この世界、この現在を刻々と失いつつある世界に繋ぎとめるのは裕紀かもしれず、残された記憶もまた、ぼくをこの楽しさと悲しさの入り混じった世界に繋ぎとめているらしい。