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リマインドと想起の不一致(11)

2016年02月24日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(11)

 夕方の公園に鐘の音がする。それを合図に数羽のカラスが飛び立った。

 一冊の小説も読んでいないころの情景だが、いまはこのように背景の描写を演出的にも書けた。ぼくは本を読まなくても暇がつぶせた。暇だという感覚も、そもそも、ぼくに追い付いて来なかった。

 自分の過去を記すのに無数のお手本が必要だったわけだ。人間の経験はそれほど異なっていない。しかしながら、ぼくのこの日の個人的体験は格別で、とくに別個のものだと思い込んでいた。人類にとって未曾有の。

 ぼくらは沈黙を共有する。カラスの鳴き声が時折り、耳に入るが、となりにいるひじりの小さな息遣いの方が、ぼくにとってより重要だった。

 遊んでいた子どもはいなくなり、同時に付き添いの彼らの両親たちも視界から消えた。温かな家庭の食事が待っているのだろう。心配もない世界への鍵がある。

 ぼくらは、何も決めていなかったはずなのに互いの唇を触れ合わす。お手本などどこにもないが、結局は人間は同じことをする。欲求の高まりと呼ぶには、ぼくらは子どもすぎた。だが、何もしないわけにはいかない。行動で好意を示すことも肝心なのだから。

 大人への階段というのは、どこかで登らなければならないのだろう。それにしても、この夕刻の一段は突然で急だった。思いもよらずに数秒で大きな扉が開かれた。

「ありがとう」とぼくは無雑作をよそおって言った。確かにぼくは得たのだ。収支はプラスに傾き、同じように彼女もギブだけやマイナスではなく、プラスの感情になっていてほしかった。

 ひじりは無言でいる。彼女にとって大きな感情の揺れがあった一日だったのだろう。映画の中身で泣き、夕方にぼくの愛情を受け止める。すれっからしの女性のようにこの数分は何事もなく、波風など立たないと平静でいられるわけでもないだろう。ぼくはなぜ急にあえて生身の存在を汚すようなことを書きたくなったのか。自分の青い時期と真正面から打つかるには、ぼくは老いすぎたのだ。

 当事者であることに耐えられる時間は限られている。だが議会の速記者のように時間の流れのすべてをこと細かに記載するのも不可能だ。時の経過で忘れ去られたものもあり、こうして、落第した生徒のようにぼく自身からうまく卒業できない記憶も少なからずあった。

 ぼくらは帰りの電車に乗っている。こころもちひじりは頭をぼくの肩にもたせかけている。一日で変わったのだ。それでも、学校内ではある程度の距離を置くことになる。そこで彼女は泣きもせず、その淡い唇を牛乳びんとリコーダー以外に触れさせないであろう。

 ぼくもブルースハープ以外には近付けない。蛇足ということを知っていたのにみすみす失敗する。



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