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リマインドと想起の不一致(12)

2016年02月25日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(12)

 風邪で体調をくずして、ひじりが学校を休んでいる。見舞いも看病の権利もぼくは有していない。急に無関係の間柄になったようにも思えた。

「心配しないで」という用件だけを言う短い電話をひじりがくれた。ぼくは自分と別個の存在に、それほど気にかけない性分であることを自ずから訂正する。軌道修正というほどに大げさなものではない。ペットを飼ったこともない自分は、愛情のかけ方という事柄に対しても不馴れであった。

 その前後に神社の前を友だちと自転車で通りかかった時にひじりの回復をお願いしたい気持ちにかられたが、実際は素通りしただけだった。でも、ほんの一瞬、心の中でひじりの名を呼んだ。

 その無心のうめきに効果があったのか分からないが、翌日からひじりは以前のように元気になって登校した。ぼくは昼休みにゆっくり話したが、昨日の咄嗟の行為のことは黙っていた。なにより、現実に見えるひじりだけがいれば、それで充分だったのだ。見えない何かに瞬時に頼ろうとしたにせよ、見えるひじりの姿がすべての面で圧倒して、大差をつけて上回っていたのだから。

 下校時にひじりの手を握る。彼女は時折り、苦しそうにせきこんだ。ひじりの身体を許可もなく通り過ぎたウィルスを一方的に恐れる必要もない。ぼくは彼女の存在を表すすべてを受け入れる気でいた。

 病気とは無関係なところで友だちと話していて、この年頃の通過儀礼から逸れない体験をしたやつも数名でてくることを再確認する。ぼくは愛の達成としてのそのゴールになぜか抵抗感があった。そもそも、履行する場所はどこで? きっかけやタイミングは? 失敗する可能性はどれぐらいあるのか? だが、当然の希求として一体になる誘惑を完全に捨て去った訳でもない。

 ぼくらはいつもの帰り道を歩く。彼女の歩幅、彼女の歩く速度、彼女の肩のなだらかなラインらを、ぼくは歴史の盲目的に投げ込まれる必須の年号と同じように、いや、それ以上にその些細なものたちを記憶に能動的に刻み付けようとしていた。

 帰り際、彼女が手を振っている。ポストに夕刊が突っ込まれていた。自分の家と同じ新聞らしかった。同じというものがあればあるほど単純に嬉しくなった。だが、他者であるからこそ好意が生まれるのであり、さらに持続されるのであり、完成されていくものに思われた。

 他者がひとつになる。その時期は高校生になってからだろうか。彼女の最初の体験は、みずみずしく、神々しく、美しさの極限までいってほしかった。それに見合う女性なのだから。唯一無二の。



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