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当人相応の要求(17)

2007年05月17日 | 当人相応の要求
当人相応の要求(17)

例えば、こうである。
別にどこといって、目的地がある訳でもないが、スピードを出す楽しみ。
彼に、スピードの世界を教えてくれたのは、小学生時代の友人。その子が、熱心に語っていたので覚えてしまったある人の名前。
ニキ・ラウダ。
顔にやけどを負った後なので、それは76年以降ということなのか。あの頃の、レーシング・カーの美しさ。研ぎ澄まされていく過程と機能美。まだ、公害などが騒がれる前の時代だったのだろうか。フェラーリという名前が象徴する悪びれたイメージ。模範生ではないこと。
時代は、外国車に夢中になる子供が増えてきた頃でもあった。小学生の彼も、親に連れられて、日本の車にはない設計された形と音を見に行く。将来は、自分も。
しかし、自分が運転する何年も前のことだった。
その後。高校生になった彼は学校をさぼるようになり、映画館に入る。ただ、時間を潰すために費やすはずだったのに、そこでも思いがけなくスピードにぶつかる。
ライト・スタッフ。宇宙飛行士を養成する映画。自分もそういう一員になりたいと彼は、単純に思った。そして、2国間の(当然のようにアメリカとソ連との関係)競争がある。地球は青かったという有名な言葉。ガガーリンという名前の響き。未開の土地を経験する人類。片や、負けることがらが嫌いな国民。エリートを拾い集め、よそで出来ることは自分の国でもという不文律。
さらに、ライト・スタッフでも影のように、また逆に光のようになる主役の人間がいる。チャック・イェーガー。この人物も人類が経験しなかった事柄を超える。音速の壁。それは、50年も前の話。鳥のように飛べる機械は、人やものを一瞬にして打ち落とす道具にもなる。
スピードを出すこと。空という地面との接触のないところで。また、路面との摩擦を受けて、それでも爆音とともにスピードに夢中になる面々。当然のように、単純な思考経路だが、危険と隣り合わせすることも往々にある。
誰も命など落としたいとは思ってもいないのだろう。
核となるエンジンというものが出来上がる。そこには、工業国になる、ものを作り出す国家としての日本も見え隠れする。
世界的に、日本車が走るようになる。その小回りのきく、燃費の良い、故障しないものを作り出す国民性。あっと、驚くような画期的なものは作れないとしても、必要不可欠という言葉とイメージで、隙間に挟まっていくものたち。世界は、その神秘さもない代わりに、そこにあるということが当たり前になって受け入れていく。
世界は、走ろうとしている。国家間も情報という伝達器具を使い、縮まろうとしている。
鈴鹿という言葉がイメージするもの。その付属物としての容姿のきれいな女性たち。
生け贄を求める世界。
ガガーリンという人。27歳にして、宇宙を廻って帰ってきた経験。環境の犠牲者。1968年、宇宙の思い出とともに、この地上での生活を終える。翌年になる。1969年7月、負けることが嫌いな国家も、遅れながらも月面に到達することで面目を保つ。スピードをまったく感じさせない月面での動きで。
しかし、住む場所、生きる地域をかえない人類は、狭い道を回転する。モナコで、その言葉とともに思い出す、やはり車で亡くなった王妃とともに。また、汚れた世界に生きるのは不向きのようなウエールズを代表するいつも泣き顔のような女性。カミラという女性を離さなかった男性の傍らから逃げるように。場所はパリで。
そう考えると、車というのは、本当に便利で、人間の役に立つものなのだろうか? ただ、奪い去ってしまうものなのではないのだろうか。
やけどなどを起こしながらもタフに生きられる人物。世界を廻り、車に乗って、英雄に祭り上げられる行為。
1994年。アイルトン・セナという人物がいたが、その紳士的な風貌の人物は、あっという間に帰らぬ人になる。音速の向こう側の住人にでもなるのだろうか。


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