7世紀の東アジアにおいて唐と新羅の連合軍が百済、高句麗を滅ぼしたのは歴史的事実であるが、当初この話を聞いたときには、どうして唐がわざわざ離れた新羅と組んだのかが不思議でしかたがなかった。
しかし、これは「遠交近攻」といって兵法ではごくあたり前の戦略なのである。
考えてみれば、近くの相手と組んで遠くを攻める場合には、もし近くの相手が突如裏切るようなことでもあれば、一気に危機的な状況に陥ることになる。「遠交近攻」の場合はいわゆる挟み撃ちであるわけだから、万が一という場合にも自軍のリスクは少ないわけである。
そこでふと思い出したのがオセロ・ゲームである。
両端を取ったものがその間の敵のコマをすべて味方にできるというのは、まさに「遠交近攻」の考え方ではないか。つまり、オセロ・ゲームも将棋や囲碁と同様に、その由来は戦(いくさ)における戦略を学ぶためのものだったのではないのだろうか。
ところで、大陸側に立って東アジアの地勢を考えてみた場合、海の向こうではあるがオセロのカド(端)にあたるのが日本列島だったともいえる。つまり、高句麗・百済・新羅の三国と大国の唐が覇権を争う中で、いかにして日本(倭)の支援を取り付けるか(カドを抑えるか)というのは、各国にとって死活問題だったとも言えるわけだ。
そうすると、7世紀の日本に各国からの使者が頻繁に訪れている状況もごくあたり前のこととして理解できるようになる。
645年のクーデター「乙巳の変」の当日は、朝廷において「三国の調の儀式」が行われる予定であった。「三国の調」とは、すなわち三韓(新羅、百済、高句麗)からの貢物を献上する場だったわけだが、日本(倭)がそのような立場にいられたのも上のような状況を考えてみれば非常に理解しやすい。