ドラマ「善徳女王」にはまったく出てこないが、キム・ユシンには二人の妹(宝姫、文姫)がいて歴史上も重要な役割を果たす。妹の文姫の方はキム・チュンチュの王妃となり、後の文武王を産むのである。
文姫がチュンチュのもとへ嫁ぐことになったのは、どうやらユシンの策略だったようである。
ユシンとチュンチュが蹴鞠を興じている最中に、ユシンがチュンチュの衣の紐を(意図的に)踏んづけてしまい、破れた衣服を縫い合わせるため妹たちに会わせた、という有名なエピソードが「三国史記」に記録されている。
この際、どういうわけか姉の方は遠慮して出てこず、妹が衣服を繕うのだが、その妹を見たチュンチュが一目ぼれして結ばれることになったらしい。
しかし、実は話はそう簡単ではなく、二人は付き合うことになったものの正式に婚姻をあげる前に文姫が子を身ごもってしまい、これを知ったユシンはなんと妹を焼き殺そうとするのである。(写真はドラマ「ヨンゲソムン」の一場面)
現代人の感覚とは異なり、当時嫁入り前の娘(しかも王族の血を引く)が妊娠するなどということは恥さらし以外のなにものでもなかった。
善徳女王(トンマン)が遊山に出かける日、ユシンは庭に木を積み上げて火をつけるのだが、その煙を目にした善徳女王が事の由来を側近にたずね、ちょうど目の前にいたチュンチュが原因だと知ると「すぐ行って救い出せ」と命令する。その後すぐにチュンチュと文姫は婚礼をあげることになるのだ。(この辺のことは「三国遺事」に記録されている)
どうやら歴史上のチュンチュくんは優柔不断な男だったようである。
ところで、「花郎世紀」の記録によれば、姉の宝姫の方は側室としてチュンチュの妃に迎えられたらしい。妹が正室で姉が側室というのもなにやら不思議だが、このあたりに何らかの秘密がありそうな気もする。(そういう説もある)
この時代、王たる者が複数の妻をもつことはあたり前のことで、以前ネタに書いた大耶城の城主の妻だった古陁炤(コタソ)は、ドラマ「善徳女王」にも登場したポリャン(宝羅:宝宗(ポジョン)の娘)との間に出来た子供である。
いずれにせよ、文姫がチュンチュのところへ嫁いだ事によってユシンは王族の外戚の立場になったわけで、復耶会(ドラマ上の設定だが)を解散しようがしまいが伽耶勢力を守ることは出来たわけなのだ。