朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「日本書紀」における日食の記述 2020年版

2020年07月13日 | 考察ノート

なんと約8年ぶりの新規投稿である。
この間にいろいろと環境が変わってしまったが(特にかの国との関係など)、若干コンセプトを変更して復活しようと企んでいる次第である。

今回は、約10年前に書いた記事のアップデート情報。

「日本書紀」における日食の記述

一瞬だけ見えた金環日食

日本書紀には合計11回の日食の記述があるが、どうやら必ずしも実際に観測できたものではないらしい。計算によって日食が起きる日を記録しているようだ・・・というところまでが以前の結論。

しかし、計算の結果はあまり正確ではなかったようだと推定していたのだが、今般驚くべき事実が発覚した。

 

NASAのデータを使って検証を行ってみた。(日付は太陽暦に換算したもの)

https://eclipse.gsfc.nasa.gov/SEcat5/SE0601-0700.html

 
628年4月10日 ●(9)
636年2月12日 ×
637年4月1日 ●(9)
680年11月27日 ●(9)
681年11月16日 ●(2)
691年10月27日 ▲
693年4月11日 ▲
693年10月5日 ●(2)
694年3月31日 ▲
694年9月25日 ▲
696年8月4日 ▲
 
●は実際に日食が起こり日本で観測されたもの
( )内の数字は10を完全な日食とした場合の食分、9以上は皆既日食とされる
▲は日食は起こったが日本では観測できない範囲のもの(時差により日がずれる場合を含む)
×は日食が起きていないもの
 
 
つまり、一つの例外を除いて地球上のどこかで日食は起こっているのである。
これは計算の精度としてはかなりのものだ。
 
この時期(7世紀後半)、日食が起こる日を推算する技術が「確実に」存在したということにほかならない。
 

軟禁されたチュンチュ

2012年10月11日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」第26話から27話にかけて。

百済の立太子問題に口を挟んだキム・チュンチュ(金春秋)はウィジャ(義慈王)の激昂をかい、しばらく宮殿内に軟禁されることになる。
その後、刺客(ムングン)によって救出され、逃げる途中、ケベクにつかまりそうになるのだが、なんとそこにはキム・ユシンが1万の軍を率いて迎えに来ていたのであった・・・

そもそもチュンチュが唐の使いの一人としてウィジャのところへ訪ねてきたところとか、あるいは以前、ウィジャが同盟を結ぶため新羅を訪問したところなどは、ほとんどドラマ上のフィクションであって、「三国史記」などにはこれに該当する記述はない。
しかし、チュンチュが軟禁されたことに関しては似たような事実がある。

善徳女王11年(642)、百済に大耶城を攻略され、その際に実の娘を亡くした金春秋は、復讐のため援軍を得ようとして高句麗に向かう。
しかし、時の高句麗王(宝蔵王)は出兵の条件として領土返還を求める。

 竹嶺はむかしわが国の領土であった。あなたがもし竹嶺の西北地域を返還するならば、出兵してもよろしい。
といった。春秋はこれに答えて、
 私は君命によって援軍を依頼しにきました。大王が〔わが国の〕国難を救う善隣友好の意志がなく、ただ武威でもって使者をおびやかし、土地を奪おうとなさるなら、私には死があるだけで、その他のことは考えていません。
といった。高蔵王はその言葉が〔不遜であるといって〕怒り、彼を別館に〔閉じ込めた〕。春秋はひそかに人を介して〔このことを〕本国の王に報告した。王は大将軍の金ユシンに命じて、決死の勇士一万人を率いて高句麗に赴かせた。ユシンの軍が漢江を越え、高句麗の南部国境に入ろうとした。高句麗王はこの報告を聞いて、春秋を釈放し、帰国させた。
〔この年、〕金ユシンを押梁州の軍主とした。

キム・ユシンが1万の軍を率いてという点はドラマの描写とまったく同じであるが、向かった先は高句麗であるし、なにより大耶城が攻略されたあとの出来事なわけである。

(工事中)


「ケベク」実在した人物たち ウンゴ

2012年10月05日 | 階伯(ケベク)

「ケベク」実在した人物たちシリーズの(おそらく)最終回。

ドラマ「ケベク」のキャストの中で、史実上実在した人物かどうかを判断する簡単な方法は、Wikipediaの該当のページを見ればとてもわかりやすい。名前に括弧書きで漢字名が付してある場合は、(基本的に)歴史書に記述があるということなのである。

しかし、ウンゴ(恩古)に関してだけは、どの史料を参照しているのかずっと不明だった。
「三国史記」百済本紀には王妃の名前まで記載されていないし(だから善花のような謎が出てくる)、「三国遺事」には百済に関する記述がとても少ないのだ。

ここへきてようやく判明したのだが、なんとその名は「日本書記」に記されていたのであった。

斉明天皇6年(660)10月条の記事中に、百済の滅亡時の記録がある。

百済の王(こきし)義慈、其の妻(め)恩古(おんこ)、其の子隆(りう)等、其の臣(まつへきみ)佐平千福・国弁成・孫登等、凡(すべ)て五十余(いそたりあまり)、秋七月十三日に、蘇将軍の為に捉(かす)ゐられて、唐国(もろこしのくに)に送去(おく)らる。

しかし、ウィジャとウンゴの子が隆とは・・・
ますますわけがわからないではないか。


ウィジャ(義慈王)の息子たち その2

2012年10月04日 | 階伯(ケベク)

ウィジャ(義慈王)の息子6人のうち2人は人質として日本にいたということらしいのだが、そのほかに「塞上(さいじょう)」という名前の人物が日本書紀に現れる。この塞上に関してはどうも混乱があるようでわかりにくい。そして、豊(豊璋)の弟である勇(百済王善光)についても不可思議な点があるのだ。

「日本書紀」皇極天皇元年(642)2月の記事に、前年に亡くなった武王の弔問に訪れていた使いによる報告があるのだが、ここに塞上の名が現れる。

百済国の主(こきし)、臣(やつかれ)に謂(かた)りて言ひしく、『塞上(さいじょう)恒(つね)に作悪(あしきわざ)す。還使(かへるつかひ)いに付(さづ)けたまはむと請(まう)すとも、天朝(すめらみこと)許したまはじ』といひき

ここで、「百済国の主」とは義慈王(ウィジャ)のことなので、つまり塞上とは、豊璋と同様に日本に滞在していた人質と考えられるわけだが、岩波文庫の注釈によると上の文章は、

百済王の弟で日本に来ている塞上はいつも悪いことをしている。そこで(百済に帰すために)帰国する使に付けて帰して下さるようにと申し上げても、天皇はお許しになるまい

ということで、塞上は義慈王(ウィジャ)の弟とされている。

同年4月には、蘇我蝦夷が畝傍の自宅に翹岐(キョギ)たちを招待するのだが、この際に、
唯(ただ)し塞上をのみ喚(よ)ばず。

とある。つまり、明記されていないが、翹岐(キョギ)のほかに豊(豊璋)も同席していたのではないかと推測されるのだが、翹岐(キョギ)にとっては自分を追い出した義慈王(ウィジャ)の息子である。何事も起こらなかったのだろうか。

また、白雉元年(650)2月15日条には、
百済の君(せしむ)豊璋・其の弟(いろど)塞上・忠勝

とあるので、塞上は豊璋の弟のようにも思えるのだが、そこに列記されている忠勝について、
斉明6年(660)10月条では、
王子豊璋及び妻子と、其の叔父忠勝等とを送る

とあるので、忠勝が義慈王(ウィジャ)の兄弟ということになるはずなだのが・・・どうにもこの辺の関係がよくわからない。

一方で、のちに百済王の氏姓を賜与された勇(善光)であるが、Wikipediaの百済王氏の項目を見てみるとその生涯は(601年 - 687年)とされている。

しかし、義慈王(ウィジャ)の生年が599年なのだから、どう考えてもウィジャの息子とは考えられず、むしろ弟ではないかということになる・・・う~ん、どうもよくわからないな。


ウィジャ(義慈王)の息子たち その1

2012年10月03日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」第25話から26話にかけて顕在化する太子擁立の動き。ヨン王妃の息子である(テ)と、木妃(ウンゴ)の息子である(ヒョ)との対立である。

Wikipediaによれば、義慈王には6人の王子がいたとされる。
孝、泰、隆、演、豊(豊璋)、勇(百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。

庶子41人というところが好色漢のウィジャらしいところだが(←それはドラマの設定である)、まあ、当時はそれぐらい普通だったのだろう。しかしながら、史実はかなり複雑で混乱が見られる。

「三国史記」百済本紀によれば、義慈王4年(644)の記録として、
王子のを太子とし、大赦した。

ということで、泰でも孝でもない(ユン)が太子になったとある。ドラマの中では、先だって唐へ留学していた王子が隆だとされているが、隆は「王の実の子ではない(直系ではない)」ということらしい。この点は史実との関係がよくわからない。

一方で、義慈王20年(660)の記録にはこのようにある。(唐軍に攻め込まれ、百済滅亡間近の記述)
〔王は〕太子のとともに、北方の辺境の村に逃げた。〔蘇〕定方はその城を囲んだ。王の次男のは自立して王となり、多くの人々を率いて〔王城を〕固守した。太子の子の文思(ぶんし)が、王子のに、
 王と太子とが〔王城を〕を出たのに、叔父〔の泰〕が、かってに王となった。もし、唐軍が〔王城の周囲を〕といて退却したならば、私たちはどうして無事でいられましょうか。
といい、ついに近臣を率いて、〔城壁に〕縄をおろし、それにすがって〔城を〕出た。人々も皆これに従ったので、泰は〔これを〕止めることができなかった。〔蘇〕定方は、士官に命じ、ひめがきを乗りこえて、唐の軍旗を立てさせた。〔王子の〕泰は困窮して、城門を開き、命ごいをした。そこで、王および太子の孝は諸城とともにすべて〔唐軍に〕降服した。〔蘇〕定方は、王および太子の孝、王子の泰・隆・演および大臣・将軍八十八人、百姓一万二千八百七人を〔唐の〕都に送った。

というわけで、百済滅亡の時点では、太子が孝、そして泰・隆・演が王子として本国にいたということになる。

一方で、こと豊璋と(善光、禅広)は人質として日本に滞在していたのである(ウィジャが即位する前から)。

『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。

三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入りて質(むかはり)とす。

豊璋は、のち百済復興のため、中大兄皇子に送られて本国に戻るが、白村江の戦い(663年)で倭国・百済連合軍が大敗すると高句麗へ逃亡し、その後高句麗の滅亡とともに唐に送られ流刑にされたとも言われている。

一方、善光はそのまま日本に残り百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜与され、貴族として日本に定着した。そのひ孫の敬福はのちに陸奥の国司に任じられ、陸奥国にて黄金を産出し、東大寺大仏の建立に大いに貢献したのである。

 (続く)


「外交」について考えてみる

2012年09月26日 | 考察ノート

当方は歴史の専門家というわけではないし、ましてや政治に関してはまったくの素人である。
しかし、韓国歴史ドラマを観ているうちに、少なくとも「外交」というのがどういうものか、どれほど難しいものかといったことは、それなりに理解してきたように思う。

近代以前において・・・つまりは「飛行機」というものが発明される前の時代(ましてや通信ネットワークなど存在しなかった時代)には、やはり、海に隔たれた国というのは、それだけで防衛上有利だったといえる。

大陸にある国々は、常に隣国との関係に最大限の注意を払わなければならなかったわけである。

大国との力関係、周囲に存在する諸国との軋轢。
同盟するのか、敵対するのか、あるいは見せかけの友好関係を築くのか。
そこにはさまざまな選択肢がある。

プライドだとか、義理人情が通用する世界でもない。
私情も義憤もときには捨てなければならない。
屈辱に耐え忍ばなければならないときもある。

すべては、最終的に国益にかなうかどうかなのである。
そこに必要なのは冷徹な損得勘定のみ。

たとえば、ドラマ「朱蒙」において。
・高句麗建国後、弱体化したプヨが生き残るため、宿敵であるチュモンの同盟の申し出を受け入れたテソ。
・そして、後には国力を強めた高句麗に対抗するため、長年の宿敵であった漢(ヤンジョン)とまで同盟を結ぶことにしたクムワ王。

たとえば7世紀の東アジア。
徹底的に唐に対抗する高句麗(ヨンゲソムン)、その高句麗と一定の距離を置きながらも連携し表向きは唐に従う振りをする百済(義慈王)。一方で唐に対し土下座外交といってもよいほど擦り寄った姿勢をみせたのが新羅の金春秋(キム・チュンチュ)である。しかし、結局のところ三国統一を成し遂げたのは新羅であり、それゆえ武烈王(金春秋)は太宗の称号を得ることになったのだ。

何が良いか悪いかという単純な話ではない。
歴史上勝ち残らなければ、結局は負けという冷酷な現実である。

 

まったく個人的な意見(極論)であるが、日本の政治家はみな「朱蒙」か「善徳女王」あたりを観て勉強した方がいいのではないかと思ったりもする。


出土のガラス玉、古代ローマ帝国製か…広島

2012年09月12日 | 最近のニュースから

広島県の3世紀前半の遺跡から出土したガラス玉を調査した結果、その組成からローマ帝国産であることが判明したという興味深いニュースが上がっている。

出土のガラス玉、古代ローマ帝国製か…広島

 

少し前には5世紀の古墳からローマガラスが出土したというニュースもあったが、3世紀前半ということは卑弥呼の生存時期に重なるわけで、実に興味深い。

いずれにせよ、この時代においても大陸をまたがる広範囲の文化交流はあったというわけで、この程度のことはもう歴史の常識として認識しておくべきであろう。


砂宅智積とは・・・?

2012年08月23日 | 階伯(ケベク)

前の記事でコトバンクの沙宅紹明の項目を引用しておいたのだが、その中に大佐平の砂宅智積という人物名がある。字は異なるが砂宅もサテクであることに変わりは無い。

「日本書記」の本文を「沙宅」で検索した際には彼の名前はヒットしなかったのだが、それもそのはず。「智積」という名前だけで通用する超重要な人物だったのである。うっかり見逃すところだった。

まず百済側の史料だが、1948年に忠清南道扶余郡扶余邑で砂宅智積に関する石碑が発見されており、現在は国立扶餘博物館に展示されている。(砂宅智積碑

砂宅智積は百済末期に大佐平を歴任したということだが、その時期は義慈王(ウィジャ)の頃とされている。

さて、「日本書記」では、翹岐(キョギ)や岐味(キミ)の亡命に関する記事がある皇極天皇元年(642年)2月の記録に「智積」の記述がある。大佐平ということだから、砂宅智積と同一人物と考えて間違いないだろう。

百済の弔使(とぶらひ)の人(ともびと)等言はく、「去年(いにしとし)の十一月(しもつき)に、大佐平智積卒(みう)せぬ。

「卒せぬ」とは、「亡くなった」という意味である。
そして、1行おいてこう続くわけだ。

今年の正月(むつき)に、国の主(こきし)の母(おも)薨(みう)せぬ。又(また)弟王子(だいおうじ)、児翹岐(ぎょうき)及びその母妹(おもはらから)の女子四人(えはしとよたり)、内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、高き名有る人四十余(よそたりあまり)、嶋(せま)に放たれぬ」といふ。

 

ところが、どういうわけか同年7月の条に死んだはずの智積が日本に現れる。

乙亥(22日)に、使人大佐平智積等に朝(みかど)饗(あへ)たまふ。乃ち健児(ちからひと)に命(ことおほ)せて、翹岐が前に相撲(すまひと)らしむ。智積等、宴畢(とよのあかりをは)りて退(まかりい)でて、翹岐が門(かど)を拝(をがみ)す

大宴会が終わって朝廷を退出し、その帰りがてら翹岐の家の門のところで敬礼していった、ということであるから翹岐との深い関係がうかがえるわけなのだが。

歴史研究家の小林恵子氏の説によれば、この智積=中臣鎌足であり、翹岐=中大兄皇子、つまり後の天智天皇ということになる。この二人がタッグを組んで時の権力者である蘇我一族を転覆させたのが乙巳の変(645年)ということになるらしい。

まあ世の中には、翹岐こそが鎌足であるとか、あるいは義慈王の息子で人質として日本に滞在していた豊璋こそが鎌足の正体だとかいろんな説があるし、「蹴鞠」というキーワードだけでキム・ユシンとキム・チュンチュの関係になぞらえる某大学教授もいるぐらいなので(あまりに短絡だ)、安易な判断は避けねばと思うが、それにしても、同じサテク一族と思われる沙宅紹明が鎌足の死後その碑文を作ったという事実は、何らかの関連をうかがわせるわけである。

この話は長くなるのでまた別の機会に。


「日本書記」におけるサテク家の人々

2012年08月22日 | 階伯(ケベク)

起死回生の策略でサテク一族を失脚させることに成功した武王とウィジャたち(第18話)。
ドラマではもうこの先サテク家の人々は登場しないのであろうか。

ところで、以前の記事で「サテク一族が百済において有力な貴族であったことは歴史的事実のようである」と書いたのだが、「日本書記」にもサテク(沙宅)家の一員だったと思われる人物の記録がいくつかある。

その中でも一番有名なのは、百済滅亡後、日本に亡命した沙宅紹明と思われるが、コトバンク(kotobank)の記述がわかりやすいので以下に転用しておく。

さたくしょうめい【沙宅紹明】
 
?‐673(天武2)
百済滅亡時に日本へ亡命したもと百済貴族。官位は佐平。沙宅は沙吒,紹明は昭明とも書く。百済の柰祇城主大佐平砂宅智積(ちしやく),大佐平砂宅千福らの近親か。渡来して天智朝の法官大輔(法官は式部省の前身)となり,671年(天智10)1月に大錦下の冠位を授けられた。聡明で文学に秀で,大友皇子の賓客となり,藤原鎌足が死ぬとその碑文を製したという。673年閏6月に死んで特に外小紫の冠位と本国の大佐平の官位を与えられた。・・・

鎌足の碑文を製作したというのがなにやら怪しい雰囲気ぷんぷんであるが・・・(鎌足の出自を百済と関連付ける説もある)

日本書記における記述は以下のとおり。

『日本書紀』巻二七天智天皇一〇年(671)正月是月◆是月。以大錦下授佐平余自信。沙宅紹明。〈法官大輔。〉

『日本書紀』巻二九天武天皇二年(六七三)閏六月庚寅《六》◆閏六月乙酉朔庚寅。大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智。時稱秀才於是。天皇驚之。降恩以贈外小紫位。重賜本國大佐平位。

百済における官職の最高位「大佐平」を授かったというぐらいだから、相当に出世した人物といえる。(日本に来て百済の官位を受けるというのもヘンな話だが)

 

そのほかの沙宅氏。

●沙宅己婁

ドラマ「薯童謡」(ソドンヨ)に登場するサテッキル(沙宅己樓)のことか?

『日本書紀』巻十九欽明天皇四年(五四三)
十二月◆十二月。百濟聖明王。復以前詔普示群臣曰。天皇詔勅如是。當復何如。上佐平沙宅己婁。中佐平木州麻那。下佐平木尹貴。徳率鼻利莫古。徳率東城道天。徳率木州昧淳。徳率國雖多。奈率燕比善那等。同議曰。臣等禀性愚闇。都無智略。詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事。國國旱岐等。倶謀同計。抗表述志。又河内直移那斯。麻都等猶住安羅。任那恐難建之。故亦并表乞移本處也。聖明王曰。群臣所議。甚稱寡人之心。

十二月に、百済の聖明王、復前の詔を以て、普く郡臣に示せて曰はく、「天皇の詔勅、是の如し。当復如何にせむ」といふ。上佐平沙宅己婁・・・(中略)・・・、同議りて曰はく、「臣等、稟性愚に闇くして、都て智略無し。任那を建てよと詔したまふ。早に勅を奉るべし。・・・(以下略)

 

●沙宅千福

『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)
十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福國。弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引■向天子天子恩勅。見前放著。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。

十一月一日に、将軍蘇定方等が為に捉ゐられたる百済の王より以下、太子隆等、諸の王子十三人、大佐平沙宅千福・国弁成より以下三十七人、あはせて五十許の人、朝堂に奉進る。急に引て天子にゆく。天子恩勅みて、見前にして放着したまふ。十九日に、賜労ふ。二十四日に、東京より発つ。

 

●沙宅孫登

『日本書紀』巻二七天智天皇一〇年(六七一)
十一月
唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。

唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知嶋に泊りて、相謂りて曰わく、今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人。驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ。

 

●沙宅萬首

『日本書紀』巻三〇持統五年(六九一)
十二月戊戌朔己亥。賜醫博士務大參徳自珍。咒禁博士木素丁武。沙宅萬首銀人廿両。

十二月の戊戌の朔己亥に、医博士務大参徳自珍・呪禁博士木素丁武・沙宅万首に、銀、人ごとに二十両賜ふ。

 

●沙宅萬福

『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)
七月壬午《十一》◆壬午。武藏國入間郡人正六位上勳五等物部直廣成等六人賜姓入間宿祢。」授女孺无位沙宅萬福從五位下。」日向國獻白龜。
 


牡丹図 ケベク第20話

2012年08月20日 | 階伯(ケベク)

視察のため王に新羅行きを相談するウィジャたち。

フンス:この春、シルラで地震があったことは王様もご存知かと。被災した民に食料を与え、倒れた家を建て直すと約束致します。

善徳女王2年(633)2月、王都に地震があった。

しかし、ドラマ中で「昨年チルスクとソップムが反乱を起こしたように・・・」とのセリフがあることから、ウィジャたちがシルラを訪問したのはチルスクとソップムの乱(631年5月)の翌年、つまり632年ということになる(地震の前)。この辺り、相変わらずだが史実との整合性に欠ける。

 

●牡丹図

唐の皇帝から善徳女王の即位記念に贈られたとされる。
ドラマ内では独特な解釈がされていたが、「三国史記」における記述は以下のとおり。

前王の時代に、唐からもらった牡丹の花の図とその種とを徳曼にみせた。すると、得曼は、
(以下八字欠、文意不明)
といった。王は笑って、
おまえはどうして(二十二字欠、文意不明)
〔といった。徳曼は、〕
・・・・・・この花はたいへんあでやかであるのに、この図には蜂も蝶も描いていません。〔このことから〕この牡丹は、きっと香りのない花で〔あろうと思いま〕す。
〔と答えた。〕この種を植えると、はたして徳曼のいうとおりであった。その先のことを識る〔能力〕は、このようであった。

同じ話が「三国遺事」にもある。

唐の太宗が紅・紫・白の三色で描いた牡丹の絵と、その種子を三升送ってきたときのことである。(徳曼は)王の描いた花を見て「この花にはたぶん香りがないだろう」といい、その種子を庭に播いたところ、花が咲いてから落ちるまで、はたして香りがなかった。
(中略)
(王が在世していた)当時、臣下たちが王に、「どうして花と蛙の二つの出来事がおわかりでしたか」とうかがうと、王がいうには、「花を描きながら蝶がないことから、香りがないのがわかる。これは唐の王が私に配偶者がいないのを戯れたのである。」