朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ウィジャ(義慈王)の息子たち その1

2012年10月03日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」第25話から26話にかけて顕在化する太子擁立の動き。ヨン王妃の息子である(テ)と、木妃(ウンゴ)の息子である(ヒョ)との対立である。

Wikipediaによれば、義慈王には6人の王子がいたとされる。
孝、泰、隆、演、豊(豊璋)、勇(百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。

庶子41人というところが好色漢のウィジャらしいところだが(←それはドラマの設定である)、まあ、当時はそれぐらい普通だったのだろう。しかしながら、史実はかなり複雑で混乱が見られる。

「三国史記」百済本紀によれば、義慈王4年(644)の記録として、
王子のを太子とし、大赦した。

ということで、泰でも孝でもない(ユン)が太子になったとある。ドラマの中では、先だって唐へ留学していた王子が隆だとされているが、隆は「王の実の子ではない(直系ではない)」ということらしい。この点は史実との関係がよくわからない。

一方で、義慈王20年(660)の記録にはこのようにある。(唐軍に攻め込まれ、百済滅亡間近の記述)
〔王は〕太子のとともに、北方の辺境の村に逃げた。〔蘇〕定方はその城を囲んだ。王の次男のは自立して王となり、多くの人々を率いて〔王城を〕固守した。太子の子の文思(ぶんし)が、王子のに、
 王と太子とが〔王城を〕を出たのに、叔父〔の泰〕が、かってに王となった。もし、唐軍が〔王城の周囲を〕といて退却したならば、私たちはどうして無事でいられましょうか。
といい、ついに近臣を率いて、〔城壁に〕縄をおろし、それにすがって〔城を〕出た。人々も皆これに従ったので、泰は〔これを〕止めることができなかった。〔蘇〕定方は、士官に命じ、ひめがきを乗りこえて、唐の軍旗を立てさせた。〔王子の〕泰は困窮して、城門を開き、命ごいをした。そこで、王および太子の孝は諸城とともにすべて〔唐軍に〕降服した。〔蘇〕定方は、王および太子の孝、王子の泰・隆・演および大臣・将軍八十八人、百姓一万二千八百七人を〔唐の〕都に送った。

というわけで、百済滅亡の時点では、太子が孝、そして泰・隆・演が王子として本国にいたということになる。

一方で、こと豊璋と(善光、禅広)は人質として日本に滞在していたのである(ウィジャが即位する前から)。

『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。

三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入りて質(むかはり)とす。

豊璋は、のち百済復興のため、中大兄皇子に送られて本国に戻るが、白村江の戦い(663年)で倭国・百済連合軍が大敗すると高句麗へ逃亡し、その後高句麗の滅亡とともに唐に送られ流刑にされたとも言われている。

一方、善光はそのまま日本に残り百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜与され、貴族として日本に定着した。そのひ孫の敬福はのちに陸奥の国司に任じられ、陸奥国にて黄金を産出し、東大寺大仏の建立に大いに貢献したのである。

 (続く)


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