『日本書紀』巻25大化3年(647)の条には、キム・チュンチュ(金春秋)が使節として日本を訪れた記録が残されている。
新羅遣上臣大阿飡金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。來獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談咲。
新羅(しらき)、上臣(まかりだろ)大阿飡(だいあさん)金春秋(こむしゅんしう)等(ら)を遣(まだ)して、博士小徳(はかせせうとく)高向黒麻呂(たかむくのくろまろ)・小山中(せうせんちう)中臣連押熊(なかとみのむらじおしくま)を送(おく)りて、来(きた)たりて孔雀(くさく)一隻(ひとつ)・鸚鵡(あうむ)一隻(ひとつ)を献(たてまつ)る。仍(よ)りて春秋を以って質(むかはり)とす。春秋は、姿顔美(かほよ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。
(岩波文庫版による読み下し)
新羅は、大阿飡の官職にあるキム・チュンチュを派遣し、(以前日本から新羅に派遣されていた)高向黒麻呂(高向漢人玄理)と中臣連押熊を送ってよこし、孔雀(くじゃく)、オウムそれぞれ一羽を献上した。この際にチュンチュは人質とされた。チュンチュはイケメンで、誇らしげに話してはよく笑った。
647年といえば正月にピダムの乱が起こり、その渦中に善徳女王(トンマン)が亡くなった年である。「女王ではよく国を治めることができない」といって反乱を起こした一派が粛清されたのちも、再び女王(真徳女王)が擁立された状況にあって、新羅が高句麗・百済に対抗するためには唐の援助だけでなく日本(倭)の支援も必要と判断されたのではないだろうか。
しかし、その翌年(648年)になるとチュンチュは息子を連れ改めて唐に入朝しているので、日本では期待するほどの支援が得られなかったのかもしれない。当時日本は乙巳の変(645年)以後の改革事業の渦中(「大化の改新」)にあった。
キム・チュンチュが日本を訪れたことは朝鮮半島側の史書には記録されていない。
韓国の学会などはその事実を認めていないかもしれないが、後に王となる人物が一時的にせよ人質として派遣されるなどということは国としてのプライドに関わる問題だろう。正史に記録がないから事実がないとも言い切れないのではないかと思う。
『日本書紀』にはこのほかにもキム・チュンチュに関する記事がいくつか記録されている。
■『日本書紀』巻26斉明天皇6年(660)7月
高麗沙門道顯日本世記曰。七月云云。春秋智借大將軍蘇定方之手。使撃百濟亡之。
(チュンチュは唐の大将軍である蘇定方の手を借り、百済を挟み撃ちにして滅ぼした。)
其注云。新羅春秋智不得願於内臣盖金故。亦使於唐捨俗衣冠。請媚於天子。投禍於隣國。而搆斯意行者也。
■『日本書紀』巻26斉明天皇6年(660)9月
或本云。今年七月十日。大唐蘇定方率船師軍于尾資之津。新羅王春秋智率兵馬軍于怒受利之山。夾撃百濟。相戰三日。陷我王城。
■『日本書紀』巻27天智天皇即位前紀斉明天皇7年(661)12月
釋道顯云。言春秋之志正于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚。苦急。故爾也。
■『日本書紀』巻30持統3年(689)5月
若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。
ドラマ善徳女王で、月夜や金庾信たち伽耶人が田比曇(ピダム)によって疑いをかけられ、善徳女王(徳曼)が春秋を伴って自ら月夜の元へ出向いた場面がありますよね。その場面で善徳女王は春秋に月夜を説得しなさい、と春秋を月夜の元に置いて帰っちゃうんですよね。
この場面を見たとき私が思い出したのが、金春秋が647年に倭国へやって来て人質として一年くらい滞在したことです。
ドラマで、置いて帰られた金春秋は見事、月夜たちを味方に付けて善徳女王の元へ帰ってきます。つまりは善徳女王は月夜たちからの信頼を勝ち取ったのだと思います。その為に王族で重要人物であるはずの金春秋を託し、こちらの信頼を示したのだと思います。
これが金春秋が倭国の人質になった実態だったのかもしれないと思いました。あえて重要人物を他国の人質とし、信頼を示し、逆に信頼させる、つまり他国からの信頼を得る、これは一か八かの外交戦略だと思います。
残念ながら高句麗でも倭国でも上手くいかなかったのかもしれませんが、唐へ行き高句麗へ行き更には海を越えて倭にまで出向き、統一新羅の礎を築いた金春秋の外交手腕は素晴らしいと思います。