朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「ヨンゲソムン」 第26話

2009年11月16日 | ヨンゲソムン
チン夫人(貴婦人、文帝の側室)のとても印象深い台詞があったので、ここにメモしておく。

国の規律を乱し
この世を滅ぼすのは
戦争だけではない
道徳に背けば
倫理が崩壊し
国の規律が乱れてしまう
官僚の内部も腐敗し
民による暴動を
引き起こすことになる
そこで国は滅亡するのだ
これぞ普遍の原則だ

「ヨンゲソムン」における隋

2009年11月15日 | ヨンゲソムン
ドラマ「ヨンゲソムン」の舞台は主として高句麗と新羅だが、隋の国内事情も緻密に描かれている。Wikipediaの記述などを読むと、比較的歴史書に忠実に作られていることがわかる。

「漢」の滅亡以降、実質的に分裂状態にあった中国を数世紀ぶりに統一したのが「隋」の初代皇帝である文帝(楊堅)。ドラマではすでにおじいちゃんだが、あまりにこどもっぽいというか、皇后に頭のあがらない情けないキャラクター設定となっている。この辺は韓国ドラマだからという印象。

その皇后(独孤皇后)は嫉妬深く、後宮に他の女性を迎えさせないばかりか、結婚の際には自分以外に子供を生ませないよう文帝に約束させている。また政治にもかなり口出ししていたらしい。

文帝には5人の子供がいたが、当初皇太子であった長男の楊勇は色好みで身を崩し廃太子に追い込まれる。結局次男の楊広(晋王)が後を継ぐわけだが、彼が後の煬帝というわけである。ドラマ中ではやたら胡散臭い感じの俳優さんが役を努めているが、歴史的には煬帝は暴君として語られることが多い。結果として彼の代で隋は滅びてしまうのである。

ところで、隋といえば日本とも関係の深い国。
日本が始めて遣隋使を送ったのが607年だが、このときはすでに煬帝の治世。当時の日本で活躍していたのが聖徳太子こと厩戸王子である。

「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」から始まる国書を送ったのはあまりにも有名な話だが、これに激怒したのが煬帝その人だったわけだ。

「ヨンゲソムン」を検証する

2009年11月13日 | ヨンゲソムン

なんだかんだでドラマ「ヨンゲソムン」も25話まで到達した(これでやっと4分の1であるが)。

とりあえず第25話に出てきた諸国の名前をメモしておこう。 これがまた後で重要な話につながっていくのである。

大佛臨国(テブルリム):東ローマ帝国
波斯(パサ)国:ペルシャ
大食(テシク)国:アラビア

さて、この辺でドラマ「ヨンゲソムン」の設定と史実について少し検討してみたい。 もっとも気になるのはヨン・ゲソムンとキム・ユシンの関係。ゲソムンがユシンの家の使用人になったというのはドラマ上の設定と思われるが、二人が歴史上何らかの形で関わっていたのはおそらく事実である。(その検討は今後の課題)

ヨンゲソムンの生い立ちや幼少期についてWikipediaには詳しい記事がないのだが、これまた英語版Wikipediaで調べてみると次のようなネタがある。

Yeon Gaesomun was the first, and oldest son of Yeon Taejo, the Prime minister (막리지, 莫離支) of Goguryeo during the reigns of King Pyeongwon of Goguryeo and King Yeongyang of Goguryeo. It is known that the Yeon family was always of high rank and status in Goguryeo. Yeon's grandfather Yeon Ja-Yu was also a prime minister of Goguryeo. Information about Yeon Gaesomun comes largely from the Samguk Sagi's accounts of King Yeongnyu and King Bojang (Goguryeo vols. 8-10) and its biography of Yeon Gaesomun (vol. 49), surviving tomb engravings belonging to his sons Yeon Namsaeng and Yeon Namsan, and the biographies of those same sons that appear in the New Book of Tang.

ヨン・ゲソムンは高句麗の嬰陽王と栄留王の時代に莫離支であったヨン・テジョの長男である。ゲソムンの家系は高句麗で高い地位とステータスにあったことが知られており、ゲソムンの祖父(Yeon Ja-yu)もまた莫離支であった。ヨン・ゲソムンに関する情報は主として「三国史記」の栄留王と宝臧王の条(高句麗本紀 (巻第20-22) 第8-10)と蓋蘇文伝 (巻第49)に記載があり、またゲソムンの息子たちの現存する墓碑や「新唐書」にも記録がある。

Very little is known of Yeon's early days, until he became the Governor of the Western province (西部), where he oversaw the building of the Cheolli Jangseong, a network of military garrisons to defend the Liaodong area from Tang invaders.

ゲソムンの生い立ちについてはほとんど知られていないが、高句麗西部の高官になったあとは唐の侵入から遼東地域を守るため山城のネットワーク「千里長城」の建築を監督した。

ところで、ドラマの初期で嬰陽王が隋との戦いを始めるため靺鞨の部族を率いて遼西に向ったのは、歴史上は598年のこと。同じ頃、幼少のヨンゲソムンが新羅へ向かうとき自分は8歳であると言っていたので、これに従えばヨンゲソムンは590年ごろの生まれということになる。キム・ユシンの生まれが595年だから5歳ほどお兄さんということか。

一方、Wikipediaによれば生年不詳とされているのだが、不思議なことに同じWikipediaの英語版では603年生まれとなっている。

いずれにしても亡くなったのは665年(とされている)なので、当時としてはそこそこ長生きしたということか。

不思議なことに「日本書紀」天智天皇3年(664年)の条には、淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の遺言に関する記述がある。三国史記など本国の歴史書にそのような記述はまったくないにも関わらずだ。


7世紀朝鮮半島の人物相関図

2009年11月11日 | 考察ノート
どうも人間関係が入り組んでいてわかりにくいので、自分なりに図にしてみた。

なんというか・・・狭い。狭いぞ?近親婚がやたらに多い。

驚いたのは、キムユシンの母であるマンミョン(萬明)と真平王(チンピョン王)が異父兄弟であるという事実。ということは、ユシンとトンマン(善徳女王)は従兄弟同士の関係でもあるわけだ。

マンミョンの母はドラマ「ヨンゲソムン」にも登場している皇太后の萬呼(マノ)夫人。彼女は真興王(チヌン王)の妹(妹の娘という説もあるが)でもあるので、真平王はおじいちゃんの妹を母にしているということになる。

それにしても、マンミョンが王族の直系と確かに言ってはいたが、そこにつながるとはなあ。

であるならば、ユシンもほとんど王族の血をひいていると言っても差し支えないわけである。彼が不幸だったのは(いや、決して不幸ではなかったと思うが)父親のソヒョンが貴族ではあっても本来王族と婚姻できるような身分ではなかったということ。だからソヒョンはマンミョンと駆け落ちするしかなかったのだ。

しかし、そうは言うもののソヒョンは、もともとは伽耶の王族の直系なわけである(金官伽耶の最後の仇衡王(金仇亥)の孫にあたる)。ともすると三国の影に隠れがちだが、朝鮮半島南部においては伽耶の役割も重要なものだった。ユシンは伽耶と新羅双方の王族の血を引くエリート中のエリートでもあったわけだ。

それにしても、これほど近親婚が多いというのは、彼らが(現代の感覚からすれば)異常に血筋にこだわっていたということにほかならない。(彼ら自身が異常だったというわけでは決して無い)

聖骨(ソンゴル)とか真骨(シンゴル)という言葉があること自体からもわかるとおりだが、王族の血は清いものであってそこに外部の血が混ざるのをよしとしないということだ。尊い血を濃く維持するためには、むしろ積極的に近親と婚姻すべきと考えられていたのである。

実はこういう考え方はペルシャの貴族にも共通している。やはり新羅は西アジアの文化に強く影響を受けているのである。そして、実は同時代の日本にも同じような文化があった。

トンマン三姉妹

2009年11月09日 | 考察ノート

(放映中の番組に関するネタバレあり、注意!)

ヨンゲソムン第20話、高句麗でヨン・テジョ(ゲソムンの父)、ヨン・テソ兄弟が語り合う場面で、百済武王と新羅真平王の娘の結婚の話がでてくる。

新羅と百済は舅(しゅうと)と婿の関係だ
なんでもチンピョン王の娘が――
百済の武王に嫁いだらしい
武王は幼名を薯童(ソドン)というようだ

そのようですね
その経緯も興味深いのです
商人に扮した武王が新羅を訪れ――
チンピョン王の次女ソンファ姫を誘惑したとか
しかし 2国の関係はよくありません
婿が舅(しゅうと)の国を脅かしている状態です

これは韓国ドラマを多少でも見ている方ならご存知「薯童謡(ソドンヨ)」のことである。
つまり「薯童謡(ソドンヨ)」の善花(ソンファ)姫はトンマンの妹にあたるわけだ。もっとも上の会話ではソンファ姫は次女となっていて、少し混乱があるようだ。

善徳女王の姉妹関係についてWikipediaには特に記述がないのだが、面白いことに英語版Wikipediaには以下のような記述がある。

Queen Seondeok of Silla

Before she became queen, Seondeok was known as Princess Deokman. She was the eldest of King Jinpyeong's three daughters. The son of her sister Princess Ch'on-myong became a king in his own right while Seondeok's sister, Princess Seonhwa (Sŏnwha) eventually married King Mu of Baekje and became mother of Uija.

善徳女王は王になる前は徳曼(トンマン)として知られていた。彼女は真平王(チンピョン王)の3人の娘の長女だった。次女のチョンミョン(天明)の子供は王位を継ぎ武烈王となり、一方で、三女のソンファ(善花)はのちに百済の武王と結婚し義慈王を生んだ。

というわけで整理するとこうなる。

●トンマン:新羅第27代王 善徳女王
●チョンミョン:新羅第29代 武烈王(金春秋)の母
●ソンファ:百済第30代 武王の王妃、31代 義慈王の母

チョンミョンの旦那は第25代チンジ王(ミシルによって廃位させられた)の息子キム・ヨンスということなので、チョンミョンは父親の叔父の息子(つまり、父親の従兄弟)と結婚したということになる。

そしてチョンミョンの息子である武烈王の王妃となったのがキムユシンの妹(次女)の文姫なわけだ。

さらに、後にその武烈王の娘(智炤夫人)をキムユシンが娶るということなのだが、そうするとユシンは妹の旦那の娘・・・というか早い話が妹の子供(姪っ子)を嫁にしたということか?王族のすることはよくわからないが、いずれにせよかなり歳の離れた奥さんをもらったということなのだろう。

ところでドラマでは「善徳女王」の設定でも「薯童謡(ソドンヨ)」の相関図でも、チョンミョンが長女となっているのだが、これはいったいどういうことだろうか。(双子の場合、後から生まれたほうが長子のはずだが?まあ、この際それは置いておこう)
「善徳女王」にはソンファ姫は出てこないようだし、「薯童謡(ソドンヨ)」にはトンマンの名が現れない。


シルラとローマ

2009年11月07日 | 善徳女王
シルラ(新羅)とローマ(羅馬)。
ちょっと聞いただけではこの2つの地域に関連があるなどということはとうてい信じられないように思える。
しかし、物的証拠があるのだ。 それがローマン・グラス。

由来恒雄氏による『ガラスと文化』(NHKライブラリー)には次のような記述がある。

朝鮮時代の三国時代(4~7世紀中頃)の新羅の古墳を発掘すると、どの古墳からも、きまってローマン・グラスが出土しています。それに対して、高句麗・百済の古墳からは、今日までのところ、どの古墳からも、一点のローマン・グラスも出土していません。ローマン・グラスだけではありません。
新羅古墳から出土する遺物の内容は、高句麗・百済古墳出土の遺物とは、根本的にその位相を異にしています。出土遺物ばかりではありません。古墳の構築法も、新羅古墳と高句麗古墳の構築法との間には、何の関連性もなく、まったく共通性をもっていないのです。

そのほか金製樹木形宝冠や貴族たちが身につける装飾品類も東アジアでは新羅だけに見つかるものが多いという。極めつけは暦(こよみ)。なんとローマ暦を使っていたというのだ。 (当時は日本でも中国と同様に干支暦を使っていた)

ちなみにローマン・グラスに関して言えば日本でもいくつかの遺跡から出土している。代表的なのが大阪府堺市の大仙古墳(「伝」仁徳天皇陵)、奈良県橿原市の新沢千塚古墳(126号墳)。

新羅(シルラ)と西アジア

2009年11月05日 | 善徳女王

養母ソファとともに無事シルラ(新羅)を抜け出したトンマン。(「善徳女王」第3話)
ラクダを連れて砂漠を歩いているからどこかと思ったら、タクラマカン砂漠だって。

タクラマカン砂漠といえば中国の新疆ウイグル自治区にある世界第2位の広さを持つ砂漠。ユーラシア大陸のど真ん中である。いくらなんでも移動しすぎじゃないの?朝鮮半島南部からどれほど離れていると思っているんだ。 おっちょこちょいにもほどがあるぞ>ソファ。

と、激しくツッコミを入れたいところではあるのだが、いやいや、これはあながち嘘とも言えないのである。新羅の文化が高句麗や百済のそれと圧倒的に異なる点として、西アジアの影響をより強く受けていることがあげられる。それにはちゃんと理由があるのだ。

一般に言われるシルクロード(絹の道)とは別にステップロード(草原の道)と呼ばれる交易路があったことが最近知られるようになってきた。これは、モンゴルやカザフスタンなど西アジアの広大な草原地域を経て、最終的にはドナウ川下流から(なんと)ローマにまで至る広域の交易路である。 (重要なポイントはシルクロードと異なり、中国の干渉を受けずに済んだということ)

トンマンの宿に西アジアや中近東の民族、それどころかどう見てもヨーロッパ系の民族が出入りしているのは決して誇張ではないし、トンマンが将来ローマに行きたいと言っているのも無謀な話ではないわけだ。

もっとも、善徳女王が幼少期をタクラマカン砂漠で過ごしたというのはおそらくフィクションだろうし、そもそも双子で生まれたというのはドラマ上の設定のはずである・・・よね?

ちなみにシルラ(シラギ)は「新しい羅」と書くが、はローマ(羅馬)の頭文字と共通なのである。


ヨンゲソムン 第17話

2009年11月03日 | ヨンゲソムン
●京観(キョングァン:戦勝の記念塔)完成の式典に訪れた使者たち

新羅
日本(倭)
突厥(トルグォル)族:モンゴルの遊牧民族
鉄勒(チョルルク):トルコ
象州(サンジュ)国:ベトナム
亀茲(クジャ)国:中央アジア
康(カン)国:ウズベキスタン
吐谷渾(トヨコン):チベット
高昌(コチャン)国:トルキスタン
林邑(イムウプ):ベトナム中部
奚(ヘ):沿海州
室韋(シルウィ):北満州
スプ:東満州
吐蕃(トボン):チベット

日本(倭)の使者が他国に比べチラッとしか映っていなかったのは、BS朝日の編集なのだろう。おそらくオリジナルの映像には高句麗王の前でひざまづく様子があるはず。まあ、日本人として面白く無いというのはわかるが、どういう衣装で描写されているのか見てみたくもある。

おさえておきたいのは、この当時(7世紀初め)高句麗においても周辺諸国との交流は盛んであったということ。中央アジア、西アジアの使者がはるばる高句麗まで訪れてきているというのは注目に値する。高句麗まで来られたのであれば、その先の日本まで足を伸ばすことはわけない。

一方で、百済の使者が招かれていないといことは、当時激しい敵対関係にあったということか。

ドラマ「朱蒙」と東北工程

2009年11月01日 | 朱蒙
ドラマ「朱蒙」が作られた背景には「東北工程」が強く影響している。

といっても、何のことかよくわからないだろう。「東北工程」とは中国語の表現である。「東北」はずばり中国の東北地域、「工程」は英語にすればプロジェクト(project)となる。

簡単に言うと、高句麗、渤海の歴史を中国の歴史として組み入れるという学術的なプロジェクトなわけである。詳しい説明はコチラで。

これに激昂したのが韓国の人たちである。それはそうだろう。自分たちの歴史、特に高句麗や渤海というのは彼らがもっとも誇りに感じ、思い入れのある時代なわけである。それを他国が勝手に自分たちの歴史だと言い始めたのだ。まるでヤンジョン太守のしそうなことではないか。

ドラマ「朱蒙」の制作費に400億ウォン(約50億円)もが投じられ、巨大セットや豪華絢爛な衣装・美術が作られた背景にはそういうことがあるわけである。

(工事中)