朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ピダムの正体

2010年05月28日 | 善徳女王
その正体が明かされるのはもう少し先のことかと思っていたが、視聴者には意外にあっさりと伝えられてしまった。

毗曇(ピダム)はなんとミシルの子供だったわけである。(もちろんドラマ上の設定で史実ではない)

「善徳女王」の初回で子供を抱いたミシルが真智王に認知を迫り、断られて赤子を宮殿に置き去りにするシーンがあるが、あの赤ちゃんが実はピダムだったわけだ。

設定上は一応、真智王とミシルの子ということなので、真智王が廃位されなければピダムは真骨(シンゴル)にあたる身分だったということになる。

そして真智王の子供ということであればチョンミョンの旦那であったヨンス(龍春)とは兄弟関係になり、ということはチョンミョンは義理の姉で、その妹のトンマンは・・・えーと、どうなるんだった?ややこしいな。

新羅人名の「宗」は麻呂や丸と同じらしい

2010年05月25日 | 風の国

麻盧(マロ)が麻呂になったというのはまだ理解できるとしても、麻盧が「宗」になったというのはどういうことか。

もう一度、東洋文庫版「三国史記」の脚注から引用しておこう。

『麻盧は新羅人名語尾の宗となり、日本では麻呂となった。』

つまり、新羅人の名前の語尾に使われる「宗」は、日本で言う麻呂や丸と同義ということである。ドラマ「善徳女王」では、世宗(セジョン)、夏宗(ハジョン)、宝宗(ポジョン)の3人の名前の語尾に「宗」の字が使われているが、彼らの名前はいうなれば蘭丸とか歌丸のようなニュアンスということか。

しかし、どうもすっきりしない。
「宗」の字は日本では「ソウ・シュウ」あるいは「むね」と読む。朝鮮半島でどのように読むかよくわからないが、「マロ」には程遠いような気がするのだが。

ところが、宗=マロに近い読み方をしていたという証拠が見つかった。 以前古本で購入した「三国遺事」(朝日新聞社刊)の中のこれまた脚注の一箇所である。(写真)

『原宗=新羅の第23代法興王の諱(いみな)である。原宗は・・・』に続く部分の発音表記。これはおそらく「マラ」と読むものではないか。とするなら、麻盧(マロ)が「宗」に転化していたとしてもおかしくはない。(ちなみに法興王とは「善徳女王」で言うところのチヌン大帝(真興王)の先代である。)

漢和辞典によれば「宗」の字には「かしら」という意味もあるので、その点からも確かに「丸」と同義と考えておかしくないのかもしれない。

ところで、「三国遺事」などでは花郎(ファラン)の名前の記載が、例えば薛原郎、閼川郎などのように「郎」の字がつけられていることがある。この場合の「郎」は尊称としての意味合いだと考えられるが、もしかすると太郎、次郎の由来はこの辺にあるのかもしれない・・・なんてのは考えすぎか。


マロは宗になり麻呂になったという話

2010年05月23日 | 風の国

ドラマ「風の国」で幼少時からムヒュル(のちの大武神王)の無二の親友であり、最終回直前には壮絶な最期を迎える将軍マロ(麻盧)。(決して某お笑い芸人ではない)

マロは「三国史記」にもその名前が残っており、実在した人物だと考えられるわけだが、その記述は実にシンプルだ。

ときは西暦21年、大武神王がプヨ(扶餘)を討伐するため出兵した途中の話である。沸流(ピリュ)、北溟(ほくめい)、赤谷(せきこく)という3つの場所でそれぞれ新しい家臣を得る。 沸流水のほとりでは負鼎(ふてい)氏(ドラマには出てこない)、北溟では怪由(クェユ:チャムグンさまですな)、そして赤谷に現れたのが麻盧(マロ)である。

『また別の人がいて、
 私は赤谷の住人で、麻盧といいます。なにとぞ〔自慢の〕長い矛(ほこ)をもって、先導させてください。
と願いでた。王はこの願いでもまた許した。

(「三国史記」 東洋文庫版より)

これがマロの登場シーンなのだが、実はマロに関する記述はこれだけである。幼馴染であるとか、ムヒュルと一緒にフギョンとなり修行したとか、あらゆるエピソードはすべてドラマの脚本だったわけだ。(まあ、そんなもんですかいな)

それはそれとして、東洋文庫版の脚注によれば、負鼎氏、怪由麻盧の三人は個人の名前というよりは「地神の化身」であり、史実としてとらえるならば「各地域の共同体が、高句麗軍にしたがって扶餘と戦ったことを伝える伝承」ということらしい。

この脚注は極めて興味深い内容であり、続いて次のような記述がある。

『高句麗の国家形成の伝承では、三代までの各王が、それぞれ三名の家臣を獲得している。これらの伝承の成立期には、高句麗王が直属の家臣団を作るのに努力していた時期のものであろう。

朱蒙ではご存知オイ、マリ、ヒョッポ、そしてユリ王の家臣といえば、ユリが折れた剣をもって朱蒙に会いにいったときの屋智・句鄒・都祖である。句鄒(クチュ)は「風の国」 では大輔(テボ)を務めていた。

この内容だけでも相当面白いのだが、脚注はさらにこう続く。

『麻盧は新羅人名語尾の宗となり、日本では麻呂となった。

つまり、麻呂の語源はもともと麻盧だというのである。びっくりではないか?

東洋文庫版の訳注をされているのは歴史学者の井上秀雄氏。ぜひとも詳しい話を聞いてみたいものだが、残念ながら氏は2008年に亡くなられている。

ここからは推測になるが、高句麗の麻盧は確かに実在した人物で、しかもかなり名を馳せた親分肌の人物であったのではないか。その伝承が日本にも伝わり、勇敢な男子にマロという名前をあやかるケースが増え、長い間にマロ→麻呂→丸と転化していったのではないだろうか。

ところで、麻盧→麻呂はわかりやすいが、麻盧→宗とはどういうことか。
長くなりそうなので続きは次回。


牛若丸と「風の国」のマロとの意外な接点とは?

2010年05月21日 | 風の国
昨年だったと思うが、小栗旬くんの主役で「TAJOMARU(多襄丸)」という映画が放映されていた。物語は芥川龍之介の原作ということらしいが、多襄丸の「丸」というのは、もともとは親分とか頭(かしら)という意味らしい。牛若丸の「丸」も同じである。

そして、この「丸」はその昔の「麻呂」と同じことである。縦書きで「麻呂」を続けて書くうちに漢字一文字で「麿」とも書くようになった。

麻呂(まろ)といえば、「風の国」で主人公ムヒュルの無二の親友であったマロ(麻盧)が思い出されるのだが、驚くべきことに、なんとこの二つの言葉は決して無関係ではなかったようなのである。

さらに、「善徳女王」に出てくる世宗(セジョン)、夏宗(ハジョン)、宝宗(ポジョン)。
彼らもまたマロ(麻盧)と無関係ではないのだ・・・と言っても何のことやらわからないかもしれないが、これもまた本当のことらしい。

それはいったいどういうことなのか?

と、期待を持たせておいて次回に続く。

「善徳女王」 第30話

2010年05月20日 | 善徳女王
たまには単純にドラマの感想など・・・

・しばらく顔を見せなかったサブキャラたちが動き出し、新たな展開が始まりそうな予感が。

・ドラマの後半はピダムの役割が重要になっていくのではないか。すでにユシンの影が薄くなっているような感じもするし。(おいおい)

・トンマンとソファの再会。ひさびさに号泣してしまった。途中、再会できずにソファが殺されてしまうのではないかとヒヤヒヤものだったが、さすがに脚本家もそこまで冷徹ではなかったか。

・しかし、冷静になって考えてみると、真平王も王妃もソファが鶏林に戻ってきているのは知っていることだし、一時期ソファと一緒に捕えられていたチュクパン、コドもソファがトンマンの育ての親だということは知っていたはず。どうしてトンマンにそのことを話していないのだ?

・ドラマ「善徳女王」の面白さは、ミステリー小説を読んでいるのに近いものがあるような感じがする。ただ、ミステリー小説の場合は、読者にずっと謎として伏せられてきたものが最後に解き明かされるということなのだが、このドラマの場合は、主として視聴者が最初から知っている秘密を主人公やその周囲の人たちが知っていく過程に面白みがある。

・ドラマ前半ではトンマンの正体、本人すら知らなかった王女の身分が明らかにされていくところがスリリングであったわけだ。

・一方で、うまく視聴者を騙している部分もある。砂漠で死んだと思われていたチルスク、ソファが実は生きていたというのは、ミステリー小説によくありそうな設定、展開である。

・そして、前回の日食。ピダムをだまし、ユシンもアルチョンも丸め込み、見事ミシルに日食は起こらないと思わせたトンマンだが、実は一番だまされていたのは視聴者だったわけである。

善徳女王と天文台(瞻星台)

2010年05月17日 | 善徳女王
トンマンがウォルチョン大師を説得する材料として使ったのが天文台である。
それまで一部の権力者しか知ることのできなかった天体の秘儀を、広く民(たみ)に公開しようという趣旨のモニュメントなわけだが、この天文台(瞻星台:チョムソンデ)は実在するもので韓国では有名な観光スポットのようである。

7 世紀中頃に築造された、東洋に現存する最も古い天文台


643年の建造物ということだから、まさに善徳女王の治世に造られたもの。
砂漠時代のトンマンが星や天文に深い関心・興味を持っていたというのはこの辺の布石ともいえるわけである。

瞻星台には興味深いポイントがいくつかある。
・27層からなる花崗岩→善徳女王が新羅第27代王であったこと
・南側の窓を基準とすると上に12層、下に12層→1年が12ヶ月であること
・27層に使われた石は362個→これに上下の石を合わせると太陰暦一年の日数(364日)

写真はWikipediaから拝借。

日食が多すぎるのはなぜ?

2010年05月12日 | 考察ノート

「日本書紀」、「続日本紀」に記録されている日食。しかし、その数があまりにも多い。というか頻繁に起こりすぎていて現実味がない。おそらく事実ではないのだろう。

実は「続日本紀」のあとの、「日本後紀」、「続日本後紀」に至っても状況は同じである。「続日本紀」ほどではないにせよ、延々と日食の記録が残されている。

これらが、すべては事実でないのだとしたら(おそらくそのほとんどは事実ではないと思われるが)、一体どういうわけで「日有蝕之」の記録がこれほどまでに多いのだろうか。

いまのところその理由はよくわからないのだが少し気になるポイントが。
「日本書紀」と「続日本紀」にある日食の記録のうち、年に2回日食があるものだけをピックアップし、さらにその近辺に起こった出来事を並べてみる。

680
693

694 藤原京遷都
         697 文武天皇即位   
698
706
707 元明天皇即位
709
710 平城京遷都
711
715 元正天皇即位
768
         770 光仁天皇即位
771

(注:紺色・太字が日食の起こった年、グレーの文字は参考)

 

なんとなく意味がありそうな気もするが、ちょっと苦しいか。

ちなみに日本書紀に初めて記録された628年(推古天皇36年)3月2日の日食は事実のようであり、実はこの日食からまもなく推古天皇は亡くなるのである(628年4月15日)。


「続日本紀」における日食の記述

2010年05月11日 | 考察ノート

「日本書紀」の完成は720年であり、その内容は持統天皇の治世までを扱う。
これに続くものとしてその名も「続日本紀」という歴史書があるのだが、こちらも念のため調べてみたらさらに不可解なことになってきた。

とりあえず、その異常さを理解してもらうため敢えて全部列記しておこう。

『続日本紀』巻一文武二年(六九八)七月己未朔◆秋七月己末朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻一文武二年(六九八)十一月丁巳朔◆十一月丁巳朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻一文武三年(六九九)十一月辛亥朔◆十一月辛亥朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻二大宝元年(七〇一)四月甲辰朔◆夏四月甲辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻二大宝二年(七〇二)九月乙丑朔◆九月乙丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻三慶雲元年(七〇四)二月丙辰朔◆二月丙辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻三慶雲三年(七〇六)六月癸酉朔◆六月癸酉朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻三慶雲三年(七〇六)十二月辛未朔◆十二月辛未朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻三慶雲四年(七〇七)六月丁夘朔◆六月丁夘朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻四慶雲四年(七〇七)十二月乙丑朔◆十二月乙丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻四和銅元年(七〇八)十一月己
未朔◆十一月己未朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻四和銅二年(七〇九)四月丁亥朔◆夏四月丁亥朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻四和銅二年(七〇九)十月癸未朔◆冬十月癸未朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻五和銅三年(七一〇)四月辛巳朔◆夏四月辛巳朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻五和銅三年(七一〇)十月戊寅朔◆冬十月戊寅朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻五和銅四年(七一一)四月丙子朔◆夏四月丙子朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻五和銅四年(七一一)九月癸酉朔◆九月癸酉朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻六和銅六年(七一三)二月甲午朔◆二月甲午朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻六和銅七年(七一四)二月己丑朔◆二月己丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻六霊亀元年(七一五)七月庚辰朔◆秋七月庚辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻七霊亀元年(七一五)十二月己酉朔◆十二月己酉朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻七霊亀二年(七一六)閏十一月癸夘朔◆閏十一月癸夘朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻七養老元年(七一七)十一月丁酉朔◆十一月丁酉朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻八養老二年(七一八)五月甲午朔◆五月甲午朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻八養老三年(七一九)五月己丑朔◆五月己丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻八養老四年(七二〇)九月庚戌朔◆九月庚戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻九養老六年(七二二)三月壬寅朔◆三月壬寅朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻九神亀元年(七二四)七月戊午朔◆秋七月戊午朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻九神亀二年(七二五)十二月庚戌朔◆十二月庚戌朔。日有蝕之
『続日本紀』巻十神亀四年(七二七)五月壬申朔◆五月壬申朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十神亀五年(七二八)四月丁夘朔◆夏四月丁夘朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十天平元年(七二九)十月戊午朔◆冬十月戊午朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十天平二年(七三〇)九月壬子朔◆九月壬子朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十一天平三年(七三一)二月庚辰朔◆二月庚辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十一天平四年(七三二)二月甲戌朔◆二月甲戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十一天平五年(七三三)七月乙丑朔◆秋七月乙丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十一天平六年(七三四)十二月戊子朔◆十二月戊子朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十二天平七年(七三五)閏十一月壬午朔◆閏十一月壬午朔。日有蝕之
『続日本紀』巻十二天平八年(七三六)五月庚辰朔◆五月庚辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十二天平九年(七三七)五月甲戌朔◆五月甲戌朔。日有蝕之。請僧六百人于宮中。令讀大般若經焉。
『続日本紀』巻十三天平十年(七三八)九月丙申朔◆九月丙申朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十三天平十一年(七三九)九月庚寅朔◆九月庚寅朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十四天平十三年(七四一)三月壬午朔◆三月壬午朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十四天平十四年(七四二)七月癸夘朔◆秋七月癸夘朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十五天平十五年(七四三)七月戊戌朔◆秋七月戊戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十七天平十九年(七四七)十月癸夘朔◆冬十月癸夘朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十七天平勝宝元年(七四九)三月乙丑朔◆三月乙丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十八天平勝宝三年(七五一)八月辛亥朔◆八月辛亥朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十八天平勝宝四年(七五二)十二月癸酉朔◆十二月癸酉朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻十九天平勝宝八歳(七五六)十月辛巳朔◆冬十月辛巳朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿二天平宝字三年(七五九)三月丁夘朔◆三月丁夘朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿三天空宝字四年(七六〇)七月戊子朔◆秋七月戊子朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿三天平宝字五年(七六一)七月癸未朔◆秋七月癸未朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(七六二)正月辛巳《二》◆辛巳。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿六天平神護元年(七六五)十月己未朔◆冬十月己未朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿七天平神護元年(七六六)十月癸未朔◆冬十月癸未朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿八神護景雲元年(七六七)三月庚戌朔◆三月庚戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)三月乙巳朔◆三月乙巳朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)八月壬寅朔◆八月壬寅朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅神護景雲三年(七六九)八月丙申朔◆八月丙申朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅宝亀元年(七七〇)八月庚寅朔◆八月庚寅朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅一宝亀二年(七七一)十二月癸丑朔◆十二月癸丑朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅二宝亀三年(七七一)六月庚戌朔◆六月庚戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅二宝亀四年(七七三)六月乙巳朔◆六月乙巳朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅三宝亀六年(七七五)十月辛酉朔◆冬十月辛酉朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅四宝亀七年(七七六)四月戊午朔◆夏四月戊午朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅四宝亀八年(七七七)二月壬子《三十》◆壬子晦。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅五宝亀九年(七七八)八月甲戌朔◆八月甲戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅五宝亀十年(七七九)七月戊辰朔◆秋七月戊辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻卅七延暦二年(七八三)十一月甲戌朔◆十一月甲戌朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻■延暦八年(七八九)正月甲辰朔◆延暦八年春正月甲辰朔。日有蝕之。
『続日本紀』巻■延暦十年(七九一)六月庚寅朔◆六月庚寅朔。日有蝕之。



ここはひとつ、松田優作風に大声で叫んでみて欲しい。

なんじゃ、こりゃ~!?

ほぼ毎年、日食が起きていることになる。
そして、709年4月から711年4月にかけては、性懲りも無く半年サイクルで日食が起きていることになっているのだ。

しつこいようだがその間にある710年は平城京遷都の年である。

これはいったいどういうことなのか。

そういえば694年といえば藤原京に遷都した年じゃないか。うーむ。


「日本書紀」における日食の記述 その2

2010年05月10日 | 考察ノート
日本書紀における日食の記述からの続き

日本書記の記録によれば693年と694年の3月、6月にそれぞれ日食が起こったということなのだが、どうにも納得がいかない。そんなに頻繁に日食が起きるだろうか。

もちろん日食といっても皆既日食とは限らず、部分日食ということもあるわけだが、それにしても6ヶ月ごとに4回続くということがありうるのだろうか。

2年連続して起きるということは実際にある。
例えば、247年3月、248年6月には北部九州で続けて皆既日食が起きており、これが卑弥呼の死と関係しているのではないかという有力な説もあるくらいだ。(卑弥呼は「日の巫女」であり、太陽が消えてなくなるという異常事態の責任を取らされたというのは十分考えられる話だ。)

しかし、さすがに2年のうちに4回はおかしいのではないか・・・と思って調べていたらこんな便利なページが見つかった。

NASAによる681~700年の皆既・金冠日食


この図によればこの期間に日本で日食が起きているのは700年5月だけ、しかもその中心は東北地方である。693、694年だけでなく、681、691、696年の日食も実際には起きていなかったということか?

ところで、今年は平城京遷都1300年記念ということで京の都は大いに盛り上がっているが、平城京遷都は710年のことであり、つまり4回の日食というのはその16、7年前ということになる。この頃であればすでに平城京への遷都は決定事項だったかもしれないし、大極殿の建築にも取り掛かっていたのかもしれない。(4回の日食で平城京への遷都を暗示した、というのはあまりにこじつけか。)

さらに不思議なのは、693~694年頃といえばすでに日本書紀の編修が始まっていた時期ということだ。(日本書紀の編修の開始は天武天皇10年(681年)とされる)

その当時なら過去の不確かな記録とは違って、現在進行形の事象を正確に記録にとることができたはずなのである。日食は事実でないのだとしたら、「日有蝕之」とは何を意味しているのだろうか。

「善徳女王」でのありえない日食の設定

2010年05月07日 | 善徳女王

第28話より ウォルチョン大師とトンマンが語る場面

大明暦の新しい算術に
正光暦の歳差法を足した結果
一日ほど 誤差があるかと思います
格物(かくぶつ)の測定は単に確率的なものですので
誤差は必ず出てきます

では、7日後の満月の日
または その翌日になりますね?

はい その二日のうち必ず
どちらかに日食が起きるでしょう

満月の翌日に日食・・・

ありえへん!(impossible!)
(ケンドーコバヤシ風に読んで欲しい)

一応、念のため。
日食と言うのは早い話が、太陽の前を月が通り過ぎる事象である。地球から見て太陽と月が同じ方向にあるということ。
一方で、満月というのは地球から見て太陽と月が180度逆にある状態である。だから月食は満月にしか起こらないが、日食が満月の日付近に起こるはずがない。

ちなみに、前々回ぐらいからウォルチョン大師が口にしている格物(かくぶつ)とは?

【大辞泉】
《「礼記」大学から》物事の道理を窮めただす意で、理想的な政治を行うための第一段階。以下、致知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下に至る。

こちらもご参考に。