ドラマ「ケベク」第26話から27話にかけて。
百済の立太子問題に口を挟んだキム・チュンチュ(金春秋)はウィジャ(義慈王)の激昂をかい、しばらく宮殿内に軟禁されることになる。
その後、刺客(ムングン)によって救出され、逃げる途中、ケベクにつかまりそうになるのだが、なんとそこにはキム・ユシンが1万の軍を率いて迎えに来ていたのであった・・・
そもそもチュンチュが唐の使いの一人としてウィジャのところへ訪ねてきたところとか、あるいは以前、ウィジャが同盟を結ぶため新羅を訪問したところなどは、ほとんどドラマ上のフィクションであって、「三国史記」などにはこれに該当する記述はない。
しかし、チュンチュが軟禁されたことに関しては似たような事実がある。
善徳女王11年(642)、百済に大耶城を攻略され、その際に実の娘を亡くした金春秋は、復讐のため援軍を得ようとして高句麗に向かう。
しかし、時の高句麗王(宝蔵王)は出兵の条件として領土返還を求める。
竹嶺はむかしわが国の領土であった。あなたがもし竹嶺の西北地域を返還するならば、出兵してもよろしい。
といった。春秋はこれに答えて、
私は君命によって援軍を依頼しにきました。大王が〔わが国の〕国難を救う善隣友好の意志がなく、ただ武威でもって使者をおびやかし、土地を奪おうとなさるなら、私には死があるだけで、その他のことは考えていません。
といった。高蔵王はその言葉が〔不遜であるといって〕怒り、彼を別館に〔閉じ込めた〕。春秋はひそかに人を介して〔このことを〕本国の王に報告した。王は大将軍の金ユシンに命じて、決死の勇士一万人を率いて高句麗に赴かせた。ユシンの軍が漢江を越え、高句麗の南部国境に入ろうとした。高句麗王はこの報告を聞いて、春秋を釈放し、帰国させた。
〔この年、〕金ユシンを押梁州の軍主とした。
キム・ユシンが1万の軍を率いてという点はドラマの描写とまったく同じであるが、向かった先は高句麗であるし、なにより大耶城が攻略されたあとの出来事なわけである。
(工事中)
うちは父方が桓武平氏の末裔らしく、百済には何となく興味がありました(高野新傘が百済系というのは事実か否か分かれているようですが…)
でもこちらのブログにて百済の勉強になりました、大昔ながら百済は日本と縁が深いですね(*゜ロ゜)
それとドラマキャラ的にはサテク王妃が好きでした、悪女ながら凜としてかっこよかったです。