朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

唐服姿のキム・チュンチュ

2010年02月20日 | ヨンゲソムン
高句麗に行ってはヨン・ゲソムンに捕らえられ、日本に渡っては人質にされと、苦労の耐えないキム・チュンチュ(金春秋)だが、性懲りもなく唐へ渡ってイ・セミンに同盟を直訴するのであった。(「ヨンゲソムン」第92話)

そのキム・チュンチュは、謁見の際になんと唐の官服に身を包み、歩き方も唐風を装って登場し、イ・セミンを驚かせる。

臣下の国の者が
主(あるじ)の国の官服を着るのは当然でございます
また 唐の人々の歩き方を習得することで
我が新羅がどれほど唐を慕い
礼と敬意を尽くしているか示したかったのです

(中略)

ひとまず・・・私の息子を人質としてここに来させます
さらに我が新羅の朝廷はすべての官職と官服・・・
政事に伴う手続きや儀式を唐の制度にならいます
徹底的に唐の臣民となります

興味深いことに「日本書記」には、新羅からやってきた使者が唐の服を着ていたため、追い返したという記録がある。

『日本書紀』巻二五白雉二年(六五一)是歳。新羅貢調使知万沙■等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。

ことし、新羅の貢調使である知万沙■(ちまささん)たちが、唐の国の服を着て、筑紫に宿泊した。朝廷は、身勝手に(唐の)風俗を真似るさまに立腹し、せめて追い返した。

■は異体字
恣移俗」の部分は、言ってみれば、先日のオリンピック開会式での国母選手のようなことを想像してみればわかりやすいかもしれない。

聖なる暦 寒川神社

2010年02月19日 | 史跡探訪
暦(こよみ)の話が出たついで・・・のついでに。

ミシルの時代、正確に月食や日食を予測する技術が本当にあったのかどうかは疑問だが、いずれにせよ古代社会において暦は重要だったわけである。

ドラマ「善徳女王」第14話で、隋からきた使節団に真平王が暦本を求め、使節団が猛烈に拒絶する場面があるが、あれは言ってみれば隋の国家機密を教えろと言っているのに等しいのだ。

さて、前回のネタに少し戻るのだが、夏至や冬至の日を判別するための観測地点を見つけた場合、時の権力者、為政者にとって、その情報は自分だけが握っておきたいものである。広く一般に公開するようなものではない。

その場所にはわかりやすいように大きな岩を置いてみたり、特徴的な木を植えたりということをしたのだろうが、一般人が近寄らない、あるいは近寄りがたいような工夫をするわけである。

そういった場所は、時間の経過とともに禁足地だとか、神聖なる場所などとして認識されていくのだが、さらに時代を下ってそこに建物が造られるようになるとこれが(一部の)神社の起源となっていく。こういう例は全国に無数に見つかるはずである。

神奈川県高座郡寒川町に相模国一之宮として名高い「寒川神社」がある。明確な創祀年代は不明とされるが、史料によっては5世紀に奉幣、8世紀に社殿建立との記録もあるようで、いずれにせよ伝統ある格式高い神社である。

(ちなみに「高座郡」というのは律令制で「郡」制がしかれたときからの由緒ある地名で、かつては現在の湘南から相模原に至るまでの広範な地域を範囲としていたが、現在は寒川町があるのみである)

この寒川神社からは丹沢山系のシンボルでもある大山(おおやま)、そして霊峰富士が望めるのだが、実は、夏至の日には大山山頂に日が沈み、そして春分・秋分の日には富士山の山頂に日が沈むのを観測できるポイントでもあるのだ。これは偶然などではありえない。明らかに必然の地として選ばれたのである。

相模国一宮・寒川神社

東京にもあるストーンサークル

2010年02月17日 | 史跡探訪
暦(こよみ)の話が出たついでに。

まだカレンダーというものが無かった時代に、人々がどのようにして季節の推移を計っていたかというと、その基準(ものさし)となるのは間違いなく太陽と月である。

お月様が30日ごと(正確には29.5日ごと)に丸くなったり欠けたりするというのはすぐわかることで、だからその周期をひとつの単位としたのが太陰暦である。一月(ひとつき)の「月」はやはりmoonなのであってこれはわかりやすい。

一年という単位については太陽である。もっとも昼の長い日(夏至)と短い日(冬至)をどうやって認識するかが一番重要なのだが、その方法としては夏至・冬至の日に太陽が昇る(あるいは沈む)方向に目印があればよい。

たとえば、付近の山々のうちで山頂がとがっているなどわかりやすいものを選んで、夏至や冬至の日にその山頂に太陽が昇る(あるいは沈む)観測地点を見つければよいのである。

こういったことはすでに縄文時代から行われていることで、縄文時代の遺跡・遺構を調べてみると近くに特徴的な山があり、夏至の日や冬至の日の観測地点であることが多い。

東京都内にストーンサークルがあるということを知る人はあまりいないのではないかと思うが、かなり小規模のものながら実在する。

田端環状積石遺構

小田急京王相模原線の多摩境駅から歩いてわずかのところ。写真は2004年当時のものだが、現在は埋め戻して公園として整備されているようだ。

そしてこの場所からは冬至の日、丹沢山系の中でもその容姿が一番目立つ蛭が岳の山頂に沈む夕陽が観測できるのである。

田端環状積石遺構からの日没



サダハムの梅

2010年02月12日 | 善徳女王
ドラマ「善徳女王」が面白い。

ストーリーの作りこみ、展開の早さの面白さもあるが、ミシル役の女優さんの悪役ぶりが見事である。片方の眉をぴくりと吊り上げる独特の表情、菩薩のように優しく微笑んだかと思えば次の瞬間には鬼のような形相に変貌して部下を怒鳴り散らす。さすがのトンマンも怖がるわけだ。

しかし、ドラマ「善徳女王」は基本的にエンターテイメント重視のドラマである。史実をベースにしているとはいえ、史実に無関係な設定・脚色があまりにも多いので、ドラマを題材にして歴史の闇に切り込もうというこのブログの趣旨(本人も時々忘れかけているが・・・)にはあまりそぐわないのである。

ドラマでは数話前から「サダハムの梅」というキーワードを巡って話が進んできたが、結局のところ「サダハムの梅」の正体は(こよみ)だった(第16話)。

「暦」の重要性・重大性は現代人の感覚からはわかりづらいかもしれない。「暦」と言っても単なるカレンダーを意味するのではなく、太陽・月・星の運行や天気・天候のような自然現象など様々な自然科学を統合した集大成であり、当事の英知を結集して作り上げられたものなのである。

古代社会においては暦を知るものが権力の座につくことができたのであり、王権を担保する必要条件だったとも言えるかもしれない。

たとえば現代ではコンピュータを使って日食や月食の起こる日、時間を正確に予測することができるが、ミシルの時代においてそれを可能にするのはまさに神業としか言えない最先端の知識・技術だった。それを知るのはほんの一握りの人たちだけだったのである。

ミシルがいかにして権力の中枢に入り込むことが出来たのか、というのはまあそういうわけなのだが、詳しくは今後のストーリーで明らかにされるだろう。

ところで、ミシルの初恋の相手(ドラマ上の設定)とされるサダハムは歴史書(「三国史記」)にも記録のある人物で、漢字で書くと「斯多含」である。(Wikipediaにも記述があるのでご興味ある方はどうぞ)

一方で、実はミシルは「三国史記」にも「三国遺事」にもその名前は現れない。一般に偽書と呼ばれる史書にしか記述のない人物なので、そのような人物と国王(善徳女王)を対立させるようなドラマはけしからんというのが韓国のお偉いさんの印象らしい。

金春秋(キム・チュンチュ)の爆弾発言

2010年02月03日 | ヨンゲソムン

第79話から80話にかけ数年の月日が過ぎたようで、少年だった男生(ナムセン)は立派な若者へ、ゲソムンの嫁もイ・セミンも一気に老け込んだようだが、どうもスッキリしない。

ヨンゲソムンのクーデターが642年、ドラマではまだ始まってもいない安市城の戦いが645年だからその間3年も無いはずなのである。少々時代考証(というか演出)が甘くないだろうか・・・と、軽いツッコミを入れておいて。

それはさておき、第80話も重要なネタ満載である。

●日本へ行くというキム・チュンチュ

キム・ユシンやフムスンが止めるのも聞かず、後方支援を取り付けるため日本に向かうと宣言するキム・チュンチュなのだが、その中にとてつもなく重要な台詞がある。

日本は滅亡した伽耶の子孫が国の礎を築いた所です
今は百済が王族を派遣し勢力を持っていますが
考えようによっては我々とも利害関係がある


●日本の大殿(テジョン)の描写

日本の国王(?)に謁見するチュンニ。で、国王陛下ってだれ?
時代で言えば皇極天皇の治世のはずなのだが、男性ということは蘇我入鹿か。
もっともドラマでも名前が明らかにされていないぐらいだから、この辺はあまり深く考えても仕方が無い。

それにしても、驚いたことにヨン・テジョはやはり日本に来ていた!
ヨンゲソムンの父親が日本にやってきたという話は日本側の史料には記述がないと思うが、三国史記か何かにはそういう描写があるのだろうか。
それとも単にドラマ上の話?

中大兄皇子と中臣鎌足の共通の師匠に南淵請安という渡来系の人物がいる(中大兄皇子と中臣鎌足は、請安の塾に通いながら蘇我氏打倒の計画を練ったとされる)。
淵=ヨンであるが、これはちょっとムリがあるか。 


●プヨ・プン王子とは

日本の国王との会談をすませたチュンニがトヘ大師(高句麗出身の僧侶:タムジン大善師の弟子)と話をする場面があるが、その際トヘ大師の横に座っていたのが百済の王子である。

「こちらは百済からお越しのプヨ・プン王子です」

漢字で書くと「扶餘豊」だが扶余豊璋もしくは単に余豊璋とも書かれる。(「扶余」は百済の歴代王の姓であり、朱蒙の出自である「プヨ」のことでもある)

豊璋は義慈王(百済第31代王)の息子であり、日本書紀にも人質として日本に滞在していたことが記録されている。


●ヨンゲソムンとソンヘの会話

日本へ行った使者はどうなっただろうか
チュンニのことだ

チュンニ殿は日本の言葉も操ると聞きました
それに天下を周遊し見識も備えています
心配無用です

じき日本で
三韓による外交戦争が始まる 

実に意味深である。


「ヨンゲソムン」 第79話

2010年02月02日 | ヨンゲソムン
デイダラボッチの話を続けたいところではあるのだが、本日放送分の「ヨンゲソムン」第79話でまたしても気になる部分が。

●ヨンゲソムンとチュンニの会話から

高句麗と唐だけでなく列国まで・・・この度の戦に参戦するらしい
外交戦が勝負を決めるはずだ

ごもっともです
日本と薛延陀(ソリョンタ)がその中枢を担うでしょう

そのとおりだ
唐はや奚(ヘ)や靺鞨(マルガル)、契丹(コラン)を味方につける気だが・・・
その力は恐れるに足りぬ
薛延陀(ソリョンタ)だけが突厥(トルグォル)と対等な力を持つ
この件はお前に委ねる

はい 大莫離支
まずは日本に立ち寄ろうかと
日本が我々の後方を援護してくれます
薛延陀(ソリョンタ)は常に唐と対立しており
20万を超える騎馬兵がいます
彼らを引き寄せれば大きな力になります

日本は三韓を天秤にかけ様子をうかがっている
適切に対応するように


つまり、唐と高句麗の戦いは、二国間だけの争いというわけではなく、東アジアにおける世界大戦というか国際紛争の様相を呈していたというわけである。そして、そこにはわが国も決して無関係ではなかった。

イ・セミンが高句麗遠征を行ったのは644年。ヨンゲソムンのクーデターが642年だから、上の会話は643年前後の描写ということになる。

この時期に日本で実権を握っていたのは蘇我入鹿だ。 興味深いことに日本書記642年、643年の条には高句麗からの使者に関する記述がある。これがチュンニだとしたら面白いが、そもそもチュンニは実在の人物?

『日本書紀』巻24皇極天皇元年(642)
二月壬辰《六》壬辰。高麗使人泊難波津。
二月丁未《廿一》丁未。遣諸大夫於難波郡。検高麗國所貢金銀等并其獻物。使人貢獻既訖而諮云。去年六月。弟王子薨。秋九月。大臣伊梨柯須彌殺大王。并殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流。金流。爲大臣。
二月戊申《廿二》戊申。饗高麗。百濟於難波郡。詔大臣曰。以津守連大海可使於高麗。以國謄吉士水鷄可使於百濟。〈水鷄。此云倶比那。〉以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。
二月辛亥《廿五》辛亥。饗高麗。百濟客。
二月癸丑《廿七》癸丑。高麗使人。百濟使人並罷歸。
八月己亥《十六》己亥。高麗使人罷歸。

『日本書紀』巻二四皇極天皇二年(643)
六月辛卯《十三》六月己卯朔辛卯。筑紫大宰馳騨奏曰。高麗遣使來朝。羣卿聞而相謂之曰。高麗自己亥年不朝而今年朝也。

大耶城からジブリにつながる話?

2010年02月01日 | 考察ノート
ドラマ「ヨンゲソムン」も終盤にはいり、目の離せない展開になってきた。「ソンドク女王」が登場したり、成長したボヒやムニがこの先どのような運命をたどるかなど、見どころ満載でブログのネタにもことかかないのだが、仕事が結構忙しくなってきてしまったのでなかなか時間もとりにくい。

そんなことはさておいて、今回は意外なネタで。

新羅に侵攻を始めた百済が真っ先にターゲットにしたのは「大耶城」だった。キム・チュンチュの娘とその婿(だめだめな城主)が捕らえられ殺害された城である。「大耶城」があったのは現在の韓国で言うところの「慶尚南道陜川郡」という場所なのだが、ここはむかし「多羅」という国があったところでもある。少し前にも言及した伽耶諸国の時代のことだ。

この多羅国には日本と切っても切れない深い関係があった・・・と個人的には推測しているのだが、話は予想もつかないようなところへつながっていくのである。(前置きが長い!)

高句麗のことを「大高句麗」、伽耶のことを「大伽耶」とも呼んだように多羅を「大多羅」と呼んだことは十分に考えられるのだが、この場合「大多羅」とはどのように読むのか。

現地の読みに近い表現であれば「デタラ」もしくは「データラ」。ただし伽耶(カヤ)が大伽耶になるとデガヤと読むように「デダラ」、「デーダラ」の方が一般的かもしれない。(このあたりで感のいい人は何かに気づくだろう)

これを日本語で読むとどうなるかというと、おそらく「だいたら」、「だいだら」・・・

すると、日本各地に古くから伝わる大男の伝説が思い出されるではないか。思い出してほしい。ジブリ映画「もののけ姫」にも登場したあの巨大な妖怪「デイダラボッチ」のことである。(映画では森をつかさどるシシ神が変身した姿)

「デイダラボッチ」は地域によって少しづつ呼び名が異なり、ちょっと調べてみただけでもこれぐらいある。

でえだらぼう、ダイダラボッチ、ダイダラボウ、ダンダラボッチ、太坊(タイボウ)、ダダ坊、デイラボー、デェラボッチ、ダイラボウ、デーデーボ、ダダボウシ、でんでんぼめ、でいたらぼっち、でいらぼう、だいたらぼうし、だだ星さま、だいだぼうし、ダイダラボッチャ

これだけバリエーションがあるということから、そもそもの由来はかなり古い時代にあるということが容易に想像される。そして、さらに重要なのは、デイダラボッチの伝説が製鉄と関わっているケースがかなりあるということである。

(続く)