朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ソンファ=サテク妃という仮説

2012年07月22日 | ソドンヨ(薯童謡)

弥勒寺(韓国)の2009年の発掘調査で出土した金色の板(gold plate)(=舍利奉安記)には、弥勒寺の建立の由来や仏舎利に関する記述が漢字で彫られていた。

Mireuksa

その内容によれば、弥勒寺の建立には佐平(百済の官職名)沙乇積(サテクチョクトク)の娘であり自らも仏教者として民衆を導いた百済の王妃が大きく関わっており、当時の王(武王)と共に王妃を称える文言が刻まれているわけである。

・・・と、ここまでは前々回の記事に書いたとおり。

しかし、刻まれていた文字を何度も読み返しているうち、どうも不可解というか、すっきりしない部分が出てきた。それは、まさに百済の王妃について記した箇所である。

我百濟王后佐平沙乇積女

この金の板に記録されているのは、602年に建立された弥勒寺に639年仏舎利を収めることとなった経緯というわけだが、金の板を用いているということは、つまり後世に残しておきたいという強い願いが込められているということでもある。

一見するとなんでもないような気もするが、百済人が百済のため百済国内に建立した寺の記録に、なぜわざわざ「百濟王后」という表現を使ったのかということである。「我王后」だけで十分ではないか?

639年ということは百済滅亡(660年)より21年も前であり、まもなく国が無くなるからという事態でもあるまい。

そして、沙乇積という個人名をわざわざ援用している部分もなんだか腑に落ちない。沙乇積が歴史上かなり有名な人物であったというならまだわかるが、おそらく沙乇積の名前はこの金の板に記されていたのが初の発見ではないかと思われる。(少なくとも「三国史記」や「三国遺事」にはその名前は見られない)

武王のことを「大王陛下」とだけ記述している点からも、王妃のことを説明しすぎている感が強いのである。何かウラがあるのではないか?と疑うのも自然なことではないだろうか。

というわけで、以下まったくの推測であるが・・・

つまり、沙乇積の娘であるサテク妃というのは、実は、新羅真平王の娘で武王のもとへ嫁いだソンファ姫その人のことではないかということである。

ここでヒントになったのが、ドラマ「ケベク」でサテク妃に気に入られ、養女として沙乇積の娘となったウンゴ(恩古)のエピソード。これとまったく同じ様に、ソンファは縁組して沙乇積の娘として百済入りしたということは考えられないだろうか。

新羅から百済へ嫁ぐということは王の意向とはいえやはり百済国内で反対する者は多かっただろうと思う。そこで百済国内におけるソンファ姫のバックアップが必要だったのである。一旦サテク家の一員となって沙乇積の擁護を得られれば、事情はどうあれ表向きはサテク家の娘が王に嫁いだという既成事実が作られる。そう簡単に反対できるものでもあるまい。(ちなみにサテク一族が百済において有力な貴族であったことは歴史的事実のようである)

そして百済の王妃となったソンファは、仏教を広め民衆を導き、最終的には百済国内で十分な支持を得られる王妃として生涯を送った。だからこそ、「(出身はどうあれ、まさに)我が百済の王妃である沙乇積の娘」という表現として残されたのではないか、と。

「三国遺事」の記録を素直に読んでみれば、弥勒寺建立を懇願したのはソンファ姫であるし、弥勒寺からの出土品に記述されているサテク妃は仏教の擁護者という点でもイメージが重なる。そもそも父親の真平王その人も仏教を広めることには熱心だった。その娘がまた熱心に仏教を広めるというのもわかりやすい話だと思う(善徳女王(トンマン)もまたその生涯には仏教に強く関わったのである)。

 


敢えてソンファ実在説を推してみる

2012年07月13日 | ソドンヨ(薯童謡)

「三国遺事」にソドンヨ説話として語られる百済武王と新羅真平王の三女ソンファのなれそめ。
しかし、ソンファの実在については一般に疑わしいというのが定説となっているようである。

その根拠とされるのは以下の2点。

  • 武王の時代に百済と新羅とは対立関係にあった
  • 両国間に通婚の事例がない

そこで、敢えてこれに異論を唱えてみよう。

まず後者の「両国間に通婚の事例がない」という点に関しては、以前のネタ「ソンファ姫は実在したか?」にも書いているとおりだが、新羅真興王の時代(553年)に百済の王女が新羅に嫁いでいる事例が「三国史記」にもちゃんと記録されている。(身近な史料をちゃんと検証して言っているのだろうか?)

このときの百済側の王は聖王だが、なんとその翌年には加良(伽耶)と組んで(娘が嫁いだ先の)新羅に攻め込むということをやってのけている。(この戦いで聖王は新羅兵に殺される)

真興王15年(554)秋7月、明活城を修繕した。
〔この月、〕百済王明禯(聖王)は加良(から)と連合して管山城を攻撃してきた。軍主の角干の干徳(うとく)や伊飡の耽知(たんち)らがこれを迎え撃ったが、戦いに破れた。〔そこで〕新州軍主の金武力が州兵を率いて救援に向かった。戦闘がはじまると、副将の三年山郡の高干(こうかん)の都刀(ととう)が奇襲攻撃で百済王を殺した。

(金武力(キム・ムリョク)はキム・ソヒョンの父、つまりキム・ユシンの祖父である)

つまり、王女を嫁がせようがしまいが、戦うときには戦うという、非常に厳しい、冷酷な現実が当時はあったわけだ。だから、両国間が対立関係にあるからといって王女が嫁ぐはずがないとも言い切れないのである。

ちなみに、少し時代を遡るが、新羅法興王(真興王の先代)の時代には、加耶国王が花嫁を求めこれに応じたという記録も残っている。

法興王9年(522)春3月、加耶(かや)国王が使者を派遣して、花嫁を求めてきた。王は伊飡(いさん)の比助夫(ひじょふ)の妹を耶に送った。

***

次に、「武王の時代に百済と新羅とは対立関係にあった」という点について。
確かにこれは紛れも無い事実で、600年に即位した武王は、まもなく新羅の阿莫山城(母山城)を攻撃し(602年)、以降数十年に渡り、百済と新羅はたび重なる戦火を交えることになる。

ところがだ!
その前はというと、「三国史記」の記述に頼る限りだが、百済・新羅間の戦は577年まで遡らないと記録が無いのである。(ただし、高句麗・百済間の衝突は598年にある)

真智王2年(577)冬10月、百済が西部国境地帯の州や郡を犯したので、伊飡の世宗(せいそう)に命じて出兵させ、侵入軍を一善郡の北方で撃破し、3千7百人を斬ったり、捕えたりした。

(ちなみに「世宗」とはもちろんミシルの夫セジョンのことである)

つまり、578年から601年に至るまでの二十数年間に限っては、百済・新羅間は実質的に休戦状態だったと考えることもできるわけなのだ。

579年に即位した新羅真平王の初期は、数度にわたり僧侶を派遣して仏教を広めたり、災害にあった民衆を援護するなど、どちらかというと平和主義者というイメージが強い。そもそも、先々代の真興王は晩年には髪をおろして自ら僧侶となるほど仏教に傾倒した人物であり、その影響を強く受けた真平王もまた仏教を広めることに注力していた様子がうかがえる。

一方、百済といえば、598年に威徳王が崩御したのち、恵王(598-599)、法王(599-600)と短期間に王が入れ替わっており、国内が混乱していた状況が推測される。隣国に攻め入っている場合ではなかったということなのかもしれない。

こういった背景において、両国間の停戦協定のような意図も含め、新羅の王女が百済に嫁ぐことがあったとしても、さほど不思議ではないのではないかと思うのだが。

***

ちなみに、前回のネタに書いた弥勒寺の建立はWikipediaによれば602年とされているが、実はこの年はキムチュンチュが生まれた年でもある。(「三国遺事」には661年に59歳でなくなったとある)

チュンチュの母チョンミョンが子を産める年代だったとすれば、年齢的にその妹であるソンファが嫁いでいてもおかしくはないわけである。

さて、それでは義慈王の母はソンファなのかサテク妃なのか?
弥勒寺の仏塔から出土した金の板に記録されている百済王妃が意味するものとは?

この点に関しては大胆な仮説を提唱してみたい。


弥勒寺とサテク妃

2012年07月13日 | 階伯(ケベク)

「三国遺事」の武王とソンファ姫との一件(いわゆる「ソドンヨ」説話)を記録した項目中に、弥勒寺というお寺の建立の由来に関する記述がある。

ある日、王が夫人をつれて獅子寺に参る途中、竜華山の下の大きい池のほとりにくると、弥勒仏三尊が池の中から出てきたので、車を停めて敬礼した。夫人が王にむかって「ここに大きい寺を建ててください。私の願いでございます」というと、王はそれに応じた。知命法師のところへ行って、池を埋め立てることを相談すると、神秘な力で一夜のうちに山を崩して池を埋め平地にしてしまった。弥勒三像と会殿・塔・廊廡(ろうぶ:表御殿に付属した長い建物)を各々三ヵ所に建て、寺名を弥勒寺(国史には王興寺といっている)といった。真平王がいろいろな工人を送ってきて助けてくれた。
(「三国遺事」朝日新聞社版より)

この弥勒寺(Mireuksa)の仏塔から、つい最近(2009年)国宝級の出土品が見つかったということなのだが、金の板(gold plate)に弥勒寺建立の由来を示す文字が刻まれていたということである。

Mireuksa

関連する部分を抜き出してみる。

我百濟王后佐平沙乇積女種善因於曠劫受勝報於今生撫育萬民棟梁三寶故能謹捨淨財造立伽藍以己亥年正月卄九日奉迎舍利

このままではよくわからないので、ラフに英訳されたものをさらにラフに和訳してみると・・・

我が百済の王妃、佐平沙乇積(サテクチョクトク)の娘
生涯を通じて善行を広め
現世で受けたカルマ(業)により
民衆を導いた
仏法の教えをよく擁護し
その浄財で寺院を建立し
639年正月29日に
この仏舎利を奉納した

曠劫:仏語。きわめて長い年月。
棟梁:仏法を守り広める重要な地位。また、その人。
三寶:仏語。仏と、仏の教えである法と、その教えを奉じる僧の三つの宝。仏・法・僧。
伽藍:大きな寺・寺院の建物。
舍利:仏や聖者の遺骨。特に釈迦(しゃか)の遺骨をさし、塔に納めて供養する。仏舎利。

 

つまりサテク妃は仏教を広めることにご熱心だったということらしい。オ・ヨンス演じるドラマ中のサテク妃とはかなりイメージが異なる。

サテク・チョクトク(沙宅積徳)の名前が出てくるので彼もまた間違いなく実在した人物であり、サテク妃の父親であるというのも事実ということになる。

しかしまあ、この出土品は超一級のもので、7世紀当時の記録がそのまま現代によみがえったということでその重要性は計り知れない。「三国史記」や「三国遺事」が12世紀に入って編纂されたもので、改竄の可能性が極めて高いこととは好対照である。

しかし、そうなってくると「三国遺事」に記述されているソンファの願いによる弥勒寺建立という話とは辻褄が合わないわけで、ますますソンファ姫の実在性は疑わしいということになってしまうわけだ。

やはりソンファ姫は架空の人物なのだろうか?


「ケベク」実在した人物たち サテク妃

2012年07月12日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」も中盤にさしかかり、ようやく話の展開が面白くなってきた。
次回はケベクと義兄ムングン(ポリョ)の再会に焦点があたりそうで楽しみである。ウィジャとケベクとの再会以上に盛り上がるのでは?テス・ヨンス兄弟との関係も見逃せない。

さて、ちょっと前まで、ケベク「実在した人物たち」シリーズで何人か歴史書の記述を紹介してきたが、そろそろキョギくんについて検討をくわえたいところである。

が、その前にサテク妃をとりあげておこう。

サテク妃もまた間違いなく実在した人物のはずだが、「三国史記」や「三国遺事」にはその名前が見られない。(だいたい、「三国史記」百済本紀には父親の名前があるぐらいで、母親や王妃の名前はほとんど記録されていない)

とするとほかに何かの史料があるのだろうか。

以前もちょっと書いたのだが、英語版WikipedeiaのQueen Seondeok of Silla(善徳女王)の項目にソンファ姫に関連して以下のような記載がある。
ちょっと気になる内容なのだが・・・

Princess Seonhwa, eventually married King Mu of Baekje and became the mother of King Uija of Baekje. Seonhwa's existence is controversial due to the discovery of evidence that points to King Uija's mother as being Queen Sataek, and not Seonhwa as indicated by historical records.

ソンファ王女は百済の武王のもとに嫁ぎ、義慈王の母となった。ソンファの実在性については、義慈王の母が史実上のソンファではなくサテク妃だったことを示す証拠の発見により議論が分かれている(疑問視されている)。

義慈王(ウィジャ)の母親がソンファではなくサテク妃だったとは!?
そして、それはいかなる証拠なのか?

・・・というわけで次回に続く。


カジャム城攻撃は629年の話?

2012年07月04日 | 階伯(ケベク)

カジャム城攻撃はいつの話?の続き

ドラマ「ケベク」第10話におけるカジャム城攻撃の時期がよくわからない、という話を以前のネタで書いたのだが、その後、いくつかのヒントを元に629年ではないか、ということになった。

***

第8話で、カジャム城攻略の前に、新羅が高句麗のナンビ城を攻略するエピソードがある。
ナンビ城というのは、娘臂(じょうひ)城のことらしい。

「三国史記」にはこのようにある。

高句麗本紀
栄留王12年(629)秋8月、新羅のキムユシンが、東部の辺境に侵入し、娘臂(じょうひ)城を破った。

新羅本紀
真平王51年(629)秋8月、王は大将軍の龍春・舒玄と副将軍のキムユシンとを派遣し、高句麗の娘臂(じょうひ)城を攻めた。(中略)〔かくして、娘臂〕城は陥落した。

(ちなみに龍春はヨンチュン(チョンミョンの旦那の弟)だし、舒玄はユシンの父ソヒョンのことである)

ナンビ城を攻略して士気の高まっている新羅を早めに叩いておこう、という意図のもとにカジャム城を攻撃しようという話になるわけで、時期的にはほとんど同じということ。

ちなみに、このナンビ城の戦いは、キムユシンが初めて名をあげることになった戦である。

***

第10話で、カジャム城潜入に失敗し、新羅の捕虜となったウィジャ。
作戦会議を練るペクチェ陣営ではキョギ王子がこのようにのたまう。

国運をかけた戦(いくさ)なのですよ?
昨年同様カジャム城の攻略に失敗すれば、わがペクチェの威信は、またたくまに地に落ちるのです!

百済本紀
武王29年(628)春2月、出兵して新羅の椵岑城を攻めたが、勝てずに帰った。

とういことは、やはりドラマにおけるカジャム城攻撃は629年ということになる。

***

しかし、居酒屋で働くケベクの少年時代を描いたのが626年だったのだから、ケベクが捕虜として捕えられてからわずか3年しか経過していないということになる。14歳だったケベクはまだ17歳前後ということであり、役者さんの年齢差を考えるとどうにも違和感が残る。

しかも、3年後に再会した弟分の顔がわからないか、ウィジャ?

というわけで、やはり「ドラマはドラマ」ということで。ちゃんちゃん。


「遠交近攻」とオセロ

2012年07月02日 | 考察ノート

7世紀の東アジアにおいて唐と新羅の連合軍が百済、高句麗を滅ぼしたのは歴史的事実であるが、当初この話を聞いたときには、どうして唐がわざわざ離れた新羅と組んだのかが不思議でしかたがなかった。

しかし、これは「遠交近攻」といって兵法ではごくあたり前の戦略なのである。

遠交近攻

考えてみれば、近くの相手と組んで遠くを攻める場合には、もし近くの相手が突如裏切るようなことでもあれば、一気に危機的な状況に陥ることになる。「遠交近攻」の場合はいわゆる挟み撃ちであるわけだから、万が一という場合にも自軍のリスクは少ないわけである。

そこでふと思い出したのがオセロ・ゲームである。
両端を取ったものがその間の敵のコマをすべて味方にできるというのは、まさに「遠交近攻」の考え方ではないか。つまり、オセロ・ゲームも将棋や囲碁と同様に、その由来は戦(いくさ)における戦略を学ぶためのものだったのではないのだろうか。

ところで、大陸側に立って東アジアの地勢を考えてみた場合、海の向こうではあるがオセロのカド(端)にあたるのが日本列島だったともいえる。つまり、高句麗・百済・新羅の三国と大国の唐が覇権を争う中で、いかにして日本(倭)の支援を取り付けるか(カドを抑えるか)というのは、各国にとって死活問題だったとも言えるわけだ。

そうすると、7世紀の日本に各国からの使者が頻繁に訪れている状況もごくあたり前のこととして理解できるようになる。

645年のクーデター「乙巳の変」の当日は、朝廷において「三国の調の儀式」が行われる予定であった。「三国の調」とは、すなわち三韓(新羅、百済、高句麗)からの貢物を献上する場だったわけだが、日本(倭)がそのような立場にいられたのも上のような状況を考えてみれば非常に理解しやすい。