朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

日本書記における翹岐(ぎょうき) その1

2011年11月09日 | 階伯(ケベク)

まだ日本での放送は未定だと思うが、整理上都合がよいので「階伯(ケベク)」というカテゴリーを新たに設けた。

その「階伯(ケベク)」のキャスティングを見て驚いたのは、キョギ、つまり翹岐(ぎょうき)が含まれていたことである。翹岐という人物は、たしか朝鮮半島の史書には現れない人だったと思う。(僕の記憶が確かなら)唯一、「日本書紀」にその名が記録されている人物である。

素性としては、ドラマ「階伯(ケベク)」の設定によれば、百済の武王と側室サテク妃との間に生まれた息子ということらしい。武王の嫡男である義慈王とは腹違いの兄弟ということになり、王位に就いた義慈王から追い出され済州島に流されたというのは先日の記事にも書いたとおり。

翹岐とその姉妹たちが島流しにされたというのは、百済から訪れた弔問団の一行が語っていることだが、これは「日本書記」皇極元年(642)2月2日の記録である。

ところが、同月24日、途中の経過は何も語られず、突然、翹岐は日本に現れる。

庚戌(かのえいぬのひ:24日)に、翹岐を召して、阿曇山背連(あづみのやましろのむらじ)の家に安置(はべ)らしむ。

そして4月になると朝廷に顔を出すのだが、その二日後には時の最有力者である蘇我蝦夷の畝傍の自宅に招かれて歓待されるのである。

夏四月(うづき)の丙戌(ひのえいぬ)の朔癸巳(みづのとみのひ:8日)に、大使(こんつかひ)翹岐、其の従者(ともびと)を将(ゐ)て朝(みかど)に拝(をがみ)す。

乙未(きのとのひつじのひ:10日)に、蘇我大臣(そがのおほおみ)、畝傍(うねび)の家にして、百済の翹岐等を喚(よ)ぶ。親(みづか)ら対(むか)ひて物語す。仍(よ)りて良馬(よきうま)一匹(ひとつ)、鉄(ねりかね)二十鋌(はたち)を賜ふ。唯(ただ)し塞上(さいじょう)をのみ喚(よ)ばず。

蘇我蝦夷がわざわざ翹岐を自宅に呼び、自ら相対して話を聞かせてやったということ。そしておみやげに馬一頭と鉄の材料となる鉄鋌を渡したというくらいだから、破格の待遇であったことがわかる。

「塞上だけは呼ばれなかった」とあるが、この塞上という人物は、義慈王の息子で日本に人質としてやってきていた璋(扶余)の弟と考えられている。翹岐にとっては甥っ子ということになる。

(続く)


21世紀東アジアの動乱?

2011年11月05日 | タイムマシン

「2020年代に北朝鮮は存在しない」という結構衝撃的な(?)ニュースがあがっていた。

「2020年代に北朝鮮は存在しない」 露研究機関が報告書

ロシアの研究機関が政府に提出した報告書の中に記載されていたものだが、記事によれば、

「金正日総書記から正恩氏への権力委譲が崩壊を促進する」と分析。また20年代には「(南北は)統一へ向けた実質的な段階に入っており、北朝鮮は現在のような形態では存在していない」と結論づけた。

とのことで、早い話がこの先10年から20年内に北朝鮮という国家は消滅するという予測のようである。

北朝鮮という国は、この時代にあって専制君主を貫くという特殊な形態であり、核開発でテロ国家指定されたりと、近隣国にとってはなかなかにやっかいな存在である。

わが国にとっては拉致被害者の問題もあり、早急な解決が望まれると同時に、そんな危険な国がなくなってしまうのは大いに結構と思う人も多いかもしれない。

しかし、外交や国家間のパワーバランスというのは、なかなか一筋縄ではいかない部分がある。

引き続き記事の中身を見ると、混乱した北朝鮮では分裂、権力争いが起こり、その結果「韓国統制下で臨時政府樹立」→→「経済の韓国への吸収」という道を進むと考えられるわけだから、もしかしたら将来的には朝鮮半島に「大韓民国」を上回る経済大国が出現ということになるかもしれないわけだ。

当然、日本も無関係ではいられない。そうなったら日本の立場、世界における役割はどう変わるのか。
7世紀に高句麗・百済が滅び統一新羅が成立した時と同じぐらいのインパクトがこの先生じるかもしれないわけである。

 

ところで、YouTubeに興味深い動画が。

History map of East Asia for 2000 years (東アジアの勢力図の変遷)

2000年前から現在に至るまでの東アジアの領土、国境の変遷をアニメ化したものである。すべてが正確な事実とは認めにくいだろうが、おおまかな流れをつかむのには参考になりそうである。


「ヨンゲソムン」におけるコタソ

2011年11月02日 | ヨンゲソムン

ドラマ「ヨンゲソムン」第76話に登場したキム・チュンチュの娘、古陁炤(コタソ)。

百済に城を攻略され、命乞いをしようとするダメ夫の城主プムソク(品釈)に代わって王族としてのプライドを見せ、すぐに首を切れと迫る場面は見ごたえがある。

 

百済の将軍(ケベク?)から「生きたいのか?」と問われ、返答しようとするプムソクをさえぎってコタソがこう答える。

冗談は おやめください

戦場に臨む武将は 命乞いなどしません

からかうのはやめて 首を切ってください

続きはドラマでどうぞ。

(「ヨンゲソムン」は全100話のドラマなので簡単に見てくださいとはいい難いが、第76話は善徳女王も登場するし、キムユシンの妹焼き殺し未遂事件など見所満載なのである)


キム・チュンチュの初婚の相手

2011年11月01日 | 善徳女王

ソンファ姫の周辺を調査しているうちに、またもや新たな事実が発覚したので。

わかりやすいように図にしてみたが、結論から言えば、ドラマ「善徳女王」の中にも挿入された金春秋(キム・チュンチュ)と宝宗(ポジョン)の娘との結婚は、真平王の孫同士の結婚ということである。

真平王-チョンミョンーチュンチュの流れは問題ないと思う。

真平王の王妃は摩耶夫人であるが、その他多数のお妃さまの中に宝明宮主という人物がいる。父親は仇珍、母親は只召太后ということだが、只召太后という人は真興王(チヌン大帝)の母親にあたる人で、つまり真平王の曾祖母(そうそぼ)=ひいおばあちゃんでもある。

その宝明宮主と真平王の間にできた娘が良明公主
この良明公主はミシルの息子である宝宗(ポジョン)との間に宝良、宝羅という二人の娘をもうけている。このうちの一人がチュンチュの元に嫁入りしたというわけだ。

そしてチュンチュとの間にできた娘の名前が古陁炤(コタソ)であり、百済から大耶城を攻められたときの城主の妻で二人揃って殺害されたことは以前にも書いたとおり

ちなみに、チュンチュに嫁入りした宝宗の娘の名前は、「善徳女王」のキャスティングでは宝良(ポリャン)となっているが、「花郎世紀」によれば宝羅の方ということらしい。この辺にも混乱があるようだ。

 

とまあ、とにかく、この時代の新羅の親族関係が相当に入り組んでいることはこれまでにも何度か言及してきているのだが、ようやくわかってきたことがひとつ。

この時代の王族の血縁関係は、現代人の考える血縁関係とは相当に温度差があるということ。
単に王の血をひく子供である、孫であるというだけではそれほどありがたみがないというか、正統な身分の王妃との間に生まれないと重要視されないというか。その象徴が骨品制なのだろう。

たとえば、チュンチュはどこからどうみても真平王の孫なのであって、血縁だけ見たら何の問題もなく王位を継ぐ資格があるように思える。しかし、父親の龍樹(ヨンス)が廃位された真智帝の息子ということで聖骨(ソンゴル)から真骨(チンゴル)の身分に格下げになってしまったのである。

血縁より制度が優先する社会というわけだ。

そのように考えていくと、キム・ソヒョン(ユシンの父)が血縁的にはチヌン大帝の孫にあたるにも係わらず、父方の武力(ムリョク)が伽耶一族だったために身分的には低い立場にあったというのも理解できる気がする。(ソヒョンとマンミョンが親の反対を振り切って駆け落ちしたのは歴史的事実なのである)