朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

日本に古くから伝わるモンスター

2011年10月04日 | 史跡探訪

神奈川県相模原市の中央部、東京都町田市との県境近いところに淵野辺(ふちのべ)という街がある。
一般には青山学院大学の相模原キャンパスがある場所と言った方がとおりが良いかもしれない。

その青学のキャンパスがあるのは駅の北口(方角的には東)なのだが、反対側の駅南口に降りて正面をまっすぐに数分程度歩くと、鹿沼公園という市民の憩い場がある。

上の写真がその鹿沼公園を上から見たもの。
公園の真ん中には大きな池があるのだが、何かの形に似ていないだろうか。

実は、これ、人の足型を模して作られているのである。なぜか?
それは池のほとりにある案内板を読んでみればすぐわかる。

むかし、でいらぼっちという巨人が富士山を背負って相模野に
やってきました。
あまり重いので大山に腰をおろし一息入れてでかけようとしま
したが、富士山に根が生えたようで持ち上がりませんでした。
その時踏ん張った足跡が、ここ鹿沼と三百メートル東にあった
菖蒲沼といわれています。
でいらぼっちというのは大太郎法師のなまったものといわれ、
このような巨人伝説は全国的に分布しています。

日本各地に古くから伝わる大男の伝説だ。
神奈川県の民話では次のように伝えられている。

でいだらぼっち

ちなみに、ジブリの映画「もののけ姫」のなかでは森をつかさどる「シシ神」の夜の姿がデイダラボッチとして描かれていた。物語の終盤で首を切断され、天空を覆い隠すほどに巨大化して森や山を死滅させかけた唐草模様の「もののけ」である。

一般には、ダイダラボッチ、デイダラボッチと呼ばれることが多いのではないかと思うが、実は地域によって少しずつ名称が異なる。Webで少し調べてみただけでもこんなにある。

でえだらぼう、ダイダラボッチ、ダイダラボウ、ダンダラボッチ、太坊(タイボウ)、ダダ坊、デイラボー、デェラボッチ、ダイラボウ、デーデーボ、ダダボウシ、でんでんぼめ、でいたらぼっち、でいらぼう、だいたらぼうし、だだ星さま、だいだぼうし、ダイダラボッチャ

そこで、ふと素朴な疑問が生じる。
どうしてこれほどバラエティに富むのか?

日本中に似たような説話が伝わるにもかかわらず、その名称がこれほど異なるという事実から、どんなことが想像できるだろう?

そして、ダイになったりデイやデエになったりするというところから、ある法則が思い出されるのだが・・・


夏至の翌日 「大山」山頂に沈む夕陽@寒川神社

2010年06月22日 | 史跡探訪
実を言うと夏至・冬至の日の前後一両日は、太陽が沈むポイントはそれほど変わらないのである。

昨日と逆で、午前中は曇りがちだったが、午後から晴れてきた本日。だめもとで再度、寒川神社に足を運んだ。
夕方4時から仕事が入っていたのだが早めに切り上げ、横浜町田のインターから東名高速で海老名ICへ。意外と早く現地に到着した。

昨日と違って太陽はくっきり見えていたが、「大山」の山頂付近に黒い雲がかかってしまっている。何せ雨振(あふり)山の異名も持つ山のことだ。

辛抱強く日没を待ったが、ちょうど沈みかけたところで雲がかかってきてしまった。
それでも目を凝らしていると、最後の閃光だけちらっと見えた。
その瞬間の写真である。

ちなみに撮影した場所は、「寒川神社前」交差点南側の「福光サイクル」のすぐ横。

夏至の日 「大山」山頂に陽は沈む・・・はずだったが

2010年06月21日 | 史跡探訪
梅雨の合間に珍しく朝から晴れ。
ようやく今年こそは!・・・と期待していたのだが、夕方に近づくにつれ西の空が曇ってきてしまった。

写真は日没の小一時間前ぐらい。寒川神社参集殿の駐車場の脇から写したもの。
(右下に見えるのが「大山」)

この時点ではまだ何とか太陽がはっきり見えていたが、肝心の日没のタイミングではまったく見えなくなってしまった。残念!

何の話かよくわからない方は、こちらをご参考に。

聖なる暦 寒川神社

春分の日 富士山頂に沈む夕日

春分の日 富士山頂に沈む夕日

2010年03月21日 | 史跡探訪
本日は春分の日。以前ネタとして書いた神奈川県高座郡寒川町の寒川神社へ日没を観測しに行ってきた。

聖なる暦 寒川神社

例年だとこの時期は春霞で遠景がボンヤリしてしまうことが多いのだが、昨夜の強風で大気のホコリも吹き飛ばされたようで、夕方近くには富士山のシルエットがくっきりと見えていた。

寒川神社の敷地は結構広いが、西側に隣接する末社の宮山神社がそもそもの観測ポイント(上記リンク先参照)だったのではないかという気がする。周囲が木々に覆われているので断定はできないが、宮山神社の拝殿は大山(おおやま)山頂に向けて建てられているのではないだろうか。

写真は、宮山神社の西側数十メートルの場所(「そば処 八福茶屋」の近く)からデジカメで撮ったもの。富士山に日が沈みかけた直後である。

以前(数年前)来たときにはなかったが現在は圏央道の工事中。橋桁が邪魔で少々残念な写真になってしまった。

ちなみに撮影したポイントはここ

聖なる暦 寒川神社

2010年02月19日 | 史跡探訪
暦(こよみ)の話が出たついで・・・のついでに。

ミシルの時代、正確に月食や日食を予測する技術が本当にあったのかどうかは疑問だが、いずれにせよ古代社会において暦は重要だったわけである。

ドラマ「善徳女王」第14話で、隋からきた使節団に真平王が暦本を求め、使節団が猛烈に拒絶する場面があるが、あれは言ってみれば隋の国家機密を教えろと言っているのに等しいのだ。

さて、前回のネタに少し戻るのだが、夏至や冬至の日を判別するための観測地点を見つけた場合、時の権力者、為政者にとって、その情報は自分だけが握っておきたいものである。広く一般に公開するようなものではない。

その場所にはわかりやすいように大きな岩を置いてみたり、特徴的な木を植えたりということをしたのだろうが、一般人が近寄らない、あるいは近寄りがたいような工夫をするわけである。

そういった場所は、時間の経過とともに禁足地だとか、神聖なる場所などとして認識されていくのだが、さらに時代を下ってそこに建物が造られるようになるとこれが(一部の)神社の起源となっていく。こういう例は全国に無数に見つかるはずである。

神奈川県高座郡寒川町に相模国一之宮として名高い「寒川神社」がある。明確な創祀年代は不明とされるが、史料によっては5世紀に奉幣、8世紀に社殿建立との記録もあるようで、いずれにせよ伝統ある格式高い神社である。

(ちなみに「高座郡」というのは律令制で「郡」制がしかれたときからの由緒ある地名で、かつては現在の湘南から相模原に至るまでの広範な地域を範囲としていたが、現在は寒川町があるのみである)

この寒川神社からは丹沢山系のシンボルでもある大山(おおやま)、そして霊峰富士が望めるのだが、実は、夏至の日には大山山頂に日が沈み、そして春分・秋分の日には富士山の山頂に日が沈むのを観測できるポイントでもあるのだ。これは偶然などではありえない。明らかに必然の地として選ばれたのである。

相模国一宮・寒川神社

東京にもあるストーンサークル

2010年02月17日 | 史跡探訪
暦(こよみ)の話が出たついでに。

まだカレンダーというものが無かった時代に、人々がどのようにして季節の推移を計っていたかというと、その基準(ものさし)となるのは間違いなく太陽と月である。

お月様が30日ごと(正確には29.5日ごと)に丸くなったり欠けたりするというのはすぐわかることで、だからその周期をひとつの単位としたのが太陰暦である。一月(ひとつき)の「月」はやはりmoonなのであってこれはわかりやすい。

一年という単位については太陽である。もっとも昼の長い日(夏至)と短い日(冬至)をどうやって認識するかが一番重要なのだが、その方法としては夏至・冬至の日に太陽が昇る(あるいは沈む)方向に目印があればよい。

たとえば、付近の山々のうちで山頂がとがっているなどわかりやすいものを選んで、夏至や冬至の日にその山頂に太陽が昇る(あるいは沈む)観測地点を見つければよいのである。

こういったことはすでに縄文時代から行われていることで、縄文時代の遺跡・遺構を調べてみると近くに特徴的な山があり、夏至の日や冬至の日の観測地点であることが多い。

東京都内にストーンサークルがあるということを知る人はあまりいないのではないかと思うが、かなり小規模のものながら実在する。

田端環状積石遺構

小田急京王相模原線の多摩境駅から歩いてわずかのところ。写真は2004年当時のものだが、現在は埋め戻して公園として整備されているようだ。

そしてこの場所からは冬至の日、丹沢山系の中でもその容姿が一番目立つ蛭が岳の山頂に沈む夕陽が観測できるのである。

田端環状積石遺構からの日没