朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

BS朝日で「淵蓋蘇文」

2009年09月30日 | ヨンゲソムン
BS FUJIでは「風の国」に続いて「善徳女王」を放送することになったわけだが、BS朝日ではなんとあと「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」を放送することになったらしい。10月9日からということなのでもう間もなくである。

韓流アワー 「淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)」

平日の午後3時からなので昼間働いている者にとってはちょっと微妙な時間帯である。録画して観るしかないか。

それにしたって朱蒙を凌ぐ全100話である。HDDレコーダーがあっという間にいっぱいになってしまいそうだ。

ところで、淵蓋蘇文は、泉蓋蘇文とも書かれたりするが、その姓である「淵(泉)」は水に関連した言葉で、当時の読みでは「イリ」に近い音だったとされる。それを日本側で聞き取って当て字をしたのが、日本書紀に記述のある「伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)」になったというわけだ。(「蓋蘇文」はおそらく「グァスムン」のような音がなまってカスミと聞こえたのだろう。聞き方によってはガシュモンとなってもおかしくはないわけだ。)

「善徳女王」

2009年09月22日 | 善徳女王
BS FUJIの「風の国」の放送も残りあとわずかとなった。「風の国」が終わったあとは、同じ枠で「善徳女王」が放送されることになったようだ。

善徳女王とは、新羅27代の王にして初の女帝。その在位は632年から647年である。

数日前に事前特番が放送されていたので観たのだが、そのストーリーはというと。

双子の姉妹のかたわれとして生まれたトンマン(後の善徳女王)が、双子は不吉だという理由で追放され、一般市民として自らの身分を知らずに育っていくということらしいのだが・・・・・・えーと、それってどこかで聞いたような話なんですが。

どうやら相変わらずフィクションの部分がかなり多そうな気配である。もっとも、エンターテイメントのドラマなのだからそれはある程度致し方ない。

しかし、善徳女王の時代は東アジア全体が激しい動乱の最中にあった時代でもある。歴史的に掘り下げれば実に興味深い事実が浮き彫りになるはずなのだ。

641年 百済で内乱、武王亡くなり妃・王子らは島流しに
642年 高句麗でクーデター、淵蓋蘇文が傀儡政権を樹立
645年 (日本)でクーデター(乙巳の変)、蘇我入鹿暗殺される
647年 新羅 親唐派であった善徳女王の退位を求める反乱

こういった流れ・時代背景が描写されていれば相当に面白いドラマだと思うのだが。

ところで、後にトンマンを補佐する役割となるキム・ユシン(金庾信)は要注意人物である。(決して悪人という意味ではない)

「日本書紀」によれば天智天皇7年(668)に中臣鎌足が金庾信に船一隻を贈っているという事実がある。鎌足と金庾信にいったいどういうつながりがあるのか。おそらくドラマ中でその事実が明らかにされることはないと思うが、注意して見てみる価値はあるかもしれない。

乙相賀取文という人物

2009年09月21日 | 考察ノート
666年、若光が進調使として渡来した際に責任者として一行を率いてきたのは「乙相奄鄒」である。この人物についてはよくわからない。 ところが、それより前660年に似たような名前の人物が、やはり高句麗からの使者として来日している。

乙相賀取文」という人物である。おそらく乙相奄鄒の親族と思われるが、「日本書紀」巻二六斉明天皇六年の記録に3回ほどその名前が現れる。

『六年春正月壬寅朔 高麗使人乙相賀取文等一百餘泊于筑紫』
660年正月 高句麗からの使者、乙相賀取文ら百人余りが筑紫に泊まった。

『夏五月辛丑朔戊申 高麗使人乙相賀取文等到難波舘』
660年5月8日 高句麗からの使者、乙相賀取文らが難波の館(ムロツミ)に到着した。

『秋七月庚子朔乙卯 高麗使人乙相賀取文等罷歸』
660年7月16日 高句麗の使節である乙相賀取文等が日本から罷り帰った。

100人もの従者を引き連れてやってきたというわけだから、それだけでもタダモノではないことがわかる。正月に筑紫(九州)に宿泊、5月には難波(大阪)に到着して二か月強の滞在の後、帰っていったということなのだが、いったいその間、何をしていたのか。その点についてはまったく記述がない。

もっとも、660年は百済が滅んだ年でもあるので、そこへ高句麗の使節団が大勢でやってくるというのは軍事的な目的と考えるほかない。

乙相賀取文は、「オツショウガシュモン」という仮名があてられているようだが、賀取文とは、Gaesomunのことではないのか。つまり、その正体は淵蓋蘇文(ヨンゲソムン:Yeon Gaesomun)ということになる。

淵蓋蘇文は、日本書紀では伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)という名前で登場するが、いくつかの変名を持っているという説も多数あり。

もし、乙相賀取文=淵蓋蘇文が成り立つのであれば、その同族と思われる乙相奄鄒と共に来日した若光は、淵蓋蘇文の息がかかった人物と考えることもできる。

出世明神としての高麗神社

2009年09月20日 | タイムマシン
埼玉県日高市にある高麗神社は、8世紀初頭に設置された高麗郡の初代郡司を務めた高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)を主祭神とする神社であるが、古くから「出世明神」としても名高い神社である。

その由来が神社社務所の脇に記されている。

出世明神の由来

当社は遠く奈良時代元正天皇の御代高麗郡を統治した高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)をお祀(まつ)りした社で、創建より千三百年を数える関東有数の古社である。
古来、霊験あらたかをもって知られ、高麗郡総鎮守として郡民の崇敬を受けてきた当社は、近代に入り水野錬太郎氏・若槻禮次郎氏・浜口雄幸氏・斎藤実氏・鳩山一郎氏等の著名な政治家が参拝し、その後相次いで総理大臣に就任したことから、出世開運の神として信仰されるようになった。近年では、政界・官界・財界を始め、各界人士の参拝が相次ぎ、特に法曹界では石田和外氏が最高裁判所長官、吉永祐介・北島敬介両氏が検事総長に就任された。

 この中で、総理大臣に就任した鳩山一郎氏とは、いまさら言うまでもないが、先ごろ首相になったばかりの鳩山由紀夫氏の祖父である。

鳩山首相が就任してすぐ韓国への訪問について言及したり、あるいは韓国サイドで鳩山首相を歓迎する声が異常に多いというのもそれなりの背景があるわけだ。

ところで、写真は高麗神社入口付近を撮影したものだが、神社名が刻まれている石柱のすぐ横には松の木が立っている。一説に「松」は高句麗を象徴する木であるとのことで、高句麗の古墳には必ず松の木が植えられているという話もある。

「高」と「松」は切っても切れない関係。これは様々なところで目にすることができる。

高来神社と高麗神社

2009年09月15日 | 高麗若光

神奈川県中郡大磯町にある高来神社と埼玉県日高市にある高麗神社は、いずれも高麗王若光に縁の深い神社であるが、高麗神社はともかくとして、高来神社側では公式に高句麗や若光との関連を認めていない節がある。

しかし、この2つの神社を結びつける興味深い事実がある。

★Wikipediaによる高麗神社の所在地

北緯35度53分54.9秒
東経139度19分22.1秒

★Google Earthで測定した高来神社の所在地(拝殿)

北緯35度19分19.1秒
東経139度19分28.8秒

おわかりだろうか。この2つの神社は、ほぼ南北の関係に位置するということである。「ほぼ」と言ったが、この程度の差はわずかなものであり、奇跡的な位置関係と言っても良い。 (その誤差は、60キロ以上離れている2点間において百数十メートル程度。)

わかる人にはわかるはずだが、これは偶然ではありえない。

(図はおおよその位置をしるしたもので多少誤差があります)

ところで、若光が渡来したときの日本書紀の記録では、その名が玄武若光となっていた。玄武とは、高松塚古墳の壁画などでも有名な四神のうち北の方位を守る神である。これもまた何か象徴的に思える。


朱蒙の子孫が日本に実在する?

2009年09月14日 | 高麗若光
高麗王若光の死後、その直系子孫は代々高麗神社の宮司を務めることになったらしいのだが、現在60代目にあたる宮司さんも若光の直系ということだそうである。この間およそ1300年。相当な名家であることは間違いない。

ところで、若光は高句麗の王族の一人という情報しか伝えられていないが、もしかしたら高句麗を建国した朱蒙(チュモン)や大武神王(ムヒュル)、あるいは広開土王の血をひく子孫と考えられなくもない。

もしこれが事実なら、朱蒙の子孫が現代の日本に実在するということになるわけだ。

「朱蒙」や「風の国」といったドラマは、「所詮お隣の国の物語」という印象を持つ人も多いのではないかと思う。しかし、実はどこかで日本の歴史につながっている。学校の教科書では語られない、意外な事実がいくつもある。

このサイトの目的はそれを明らかにすることでもある。

高麗神社(埼玉県日高市)

2009年09月12日 | 高麗若光
高麗神社(こまじんじゃ)
所在地 埼玉県日高市大字新堀

高麗神社は、高句麗国(こうくりこく)の王族高麗王若光(こまこきしじゃっこう)を祀(まつ)る社である。高句麗人は中国大陸の松花江(しょうかこう)流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年間君臨していた。その後、唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍の攻撃にあい668年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀(れいき)2年(716)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。
高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。

昭和57年3月 日高市

以上、高麗神社境内にあった日高市による説明書きを記した。

武蔵国高麗郡の創設

2009年09月11日 | 高麗若光

大磯にやってきた若光がどのような暮らしをしていたのか詳しくはわからない。しかし、おそらくは、大陸から持ち込んだ先進技術を伝え、地元の人たちにとっては救世主のような役割を果たしたのだと思う。高来神社の言い伝えに残る「権現様」という呼称がそれを予測させる。

若光は、母国の名前を掲げ日本では「高麗若光」と名乗ることになる。そして、時代は流れ8世紀に入る。

「続日本紀」巻三大宝三年 四月の項に次のような記述がある。

『乙未 從五位下高麗若光賜王姓』
703年4月4日 從五位下の位(くらい)にある高麗若光に王(こきし)の姓が与えられた。

以降、若光は「高麗王(こまのこきし)若光」となる。百済からの亡命貴族達に「百済王(くだらのこにきし)」という姓が与えられたように、もと王族であることのお墨付きをもらったようなものかもしれない。

「従五位下」というのは官位を示すものであり、「従五位」は「正五位」の下、「正六位」の上にランクされる。近代以前の日本における位階制度では、「従五位下」以上の位階を持つ者が「貴族」とされたということなので、ギリギリ貴族の範囲内ということか。

しかし、若光はきわめて優秀な人物だったと思われる。引き続き「続日本紀」巻七霊亀二年 五月の記述から。

『辛夘 以駿河 甲斐 相摸 上総 下総 常陸 下野七國高麗人千七百九十九人 遷于武藏國 始置高麗郡焉』
716年5月16日 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を設置した。

高句麗から亡命していたのは若光らだけではなかった。1,799人という妙に具体的な人数の高句麗人が一箇所に集められ「武蔵国高麗郡」が設置されるのである。このとき高麗郡の首長(郡司)となったのが若光なのだ。

高麗郡は、現在の埼玉県日高市、飯能市の一部を領域としていた。その首長というからには、現在で言えば県知事ぐらいに相当するのではないか。

若光はリーダーとして高麗郡の開発に務め、730年にその生涯を閉じる。日本に渡って来てから64年。当時としてはかなり長生きだったように思われるが、それでも逆算すれば日本にやってきた当初はかなり若かったということになるのだろう。

滅亡近い高句麗の未来を託された、一人の若者だったのかもしれない。


日本に帰化した若光

2009年09月10日 | 高麗若光
666年に進調使の一員として日本にやってきた若光。
しかし、その2年後に母国、高句麗は唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、彼は二度と母国の土を踏むことはなかった。

外交が目的であるから、当初、若光達が日本にやってきたのは、その当時日本の中心地である飛鳥であったことは間違いない。帰る国を失った彼はその後日本で暮らすことになるのだが、しかし、そのまま飛鳥地方に住み着いたのではなかった。
彼は船で太平洋を東に進み、東国の相模湾から現在でいう大磯町に上陸したのである。

高句麗より先、660年に百済が滅ぼされており、百済からの亡命貴族達がすでに多数日本にやってきていた。かつての敵国同士が同じ地域で暮らすのを避けようという配慮があったのか。あるいは、もともと関東には早くから高句麗の文化が伝わっていたという事情があったためか。

(※北陸(越)から長野、山梨を経て関東平野には古くから高句麗(騎馬民族)の文化が伝えられていた。長野県に多数見つかる高句麗式の墳墓、山梨に残るコマ(巨摩)の地名などは決して偶然ではない)


ちなみに渡来人と帰化人は混同しやすいがその意味合いは異なる。
「渡来」とは言葉通りただやってきたというだけだが、「帰化」はその国の文化に従属することである。
若光は、最初日本に「渡来」したが、結局「帰化」せざるを得なかったということだ。