朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「ヨンゲソムン」におけるコタソ

2011年11月02日 | ヨンゲソムン

ドラマ「ヨンゲソムン」第76話に登場したキム・チュンチュの娘、古陁炤(コタソ)。

百済に城を攻略され、命乞いをしようとするダメ夫の城主プムソク(品釈)に代わって王族としてのプライドを見せ、すぐに首を切れと迫る場面は見ごたえがある。

 

百済の将軍(ケベク?)から「生きたいのか?」と問われ、返答しようとするプムソクをさえぎってコタソがこう答える。

冗談は おやめください

戦場に臨む武将は 命乞いなどしません

からかうのはやめて 首を切ってください

続きはドラマでどうぞ。

(「ヨンゲソムン」は全100話のドラマなので簡単に見てくださいとはいい難いが、第76話は善徳女王も登場するし、キムユシンの妹焼き殺し未遂事件など見所満載なのである)


キム・ユシンの二人の妹

2011年07月08日 | ヨンゲソムン

ドラマ「善徳女王」にはまったく出てこないが、キム・ユシンには二人の妹(宝姫、文姫)がいて歴史上も重要な役割を果たす。妹の文姫の方はキム・チュンチュの王妃となり、後の文武王を産むのである。

文姫がチュンチュのもとへ嫁ぐことになったのは、どうやらユシンの策略だったようである。
ユシンとチュンチュが蹴鞠を興じている最中に、ユシンがチュンチュの衣の紐を(意図的に)踏んづけてしまい、破れた衣服を縫い合わせるため妹たちに会わせた、という有名なエピソードが「三国史記」に記録されている。

この際、どういうわけか姉の方は遠慮して出てこず、妹が衣服を繕うのだが、その妹を見たチュンチュが一目ぼれして結ばれることになったらしい。

しかし、実は話はそう簡単ではなく、二人は付き合うことになったものの正式に婚姻をあげる前に文姫が子を身ごもってしまい、これを知ったユシンはなんと妹を焼き殺そうとするのである。(写真はドラマ「ヨンゲソムン」の一場面)
現代人の感覚とは異なり、当時嫁入り前の娘(しかも王族の血を引く)が妊娠するなどということは恥さらし以外のなにものでもなかった。

善徳女王(トンマン)が遊山に出かける日、ユシンは庭に木を積み上げて火をつけるのだが、その煙を目にした善徳女王が事の由来を側近にたずね、ちょうど目の前にいたチュンチュが原因だと知ると「すぐ行って救い出せ」と命令する。その後すぐにチュンチュと文姫は婚礼をあげることになるのだ。(この辺のことは「三国遺事」に記録されている)

どうやら歴史上のチュンチュくんは優柔不断な男だったようである。

ところで、「花郎世紀」の記録によれば、姉の宝姫の方は側室としてチュンチュの妃に迎えられたらしい。妹が正室で姉が側室というのもなにやら不思議だが、このあたりに何らかの秘密がありそうな気もする。(そういう説もある)

この時代、王たる者が複数の妻をもつことはあたり前のことで、以前ネタに書いた大耶城の城主の妻だった古陁炤(コタソ)は、ドラマ「善徳女王」にも登場したポリャン(宝羅:宝宗(ポジョン)の娘)との間に出来た子供である。

いずれにせよ、文姫がチュンチュのところへ嫁いだ事によってユシンは王族の外戚の立場になったわけで、復耶会(ドラマ上の設定だが)を解散しようがしまいが伽耶勢力を守ることは出来たわけなのだ。

 


ヨンゲソムンの遺言

2010年03月03日 | ヨンゲソムン

不思議なことに「日本書紀」にはヨンゲソムンの遺言が記録されている。

『日本書紀』巻二七天智天皇三年(六六四)十月是月◆是月。高麗大臣盖金終於其國。遣言於兒等曰。汝等兄弟。和如魚水。勿爭爵位。若不如是。必爲隣咲。

664年10月 高句麗の大臣ヨンゲソムンがその国で亡くなった。子供達に以下のような遺言を残した。

おまえたち兄弟は
魚と水のように和合し(一緒になり)
爵位を争ってはならない
もしそうでなかったら
必ず隣国の笑いものになる

※「咲」は「笑」の古字

ドラマ「ヨンゲソムン」最終回では、ヨンゲソムンの”生没年の具体的な記録は残されていない”というナレーションがあったが、上にあるとおり日本書紀には記録が残っているわけである。(ただし、実際は翌665年のことと解釈されているようだ)

史料によっては没年が666年となっているものもあるようだが、いずれにせよ高句麗滅亡の年(668年)の前には既に亡くなっていたはずなので、ドラマの終盤で唐の将軍イ・ジョクとヨンゲソムンが語り合う場面はあり得ないということになる。


日本書紀にあるナムセンの記述

2010年03月02日 | ヨンゲソムン

ドラマ「ヨンゲソムン」もいよいよ明日で最終回。よくもここまで続けて観てきたものである。「朱蒙」、「風の国」や「善徳女王」などと比較すると、ドラマとして肝心な盛り上がりが決定的に欠けているし、何より壮年期以降のヨンゲソムンの配役・演技には疑問ばかり。韓国では有名な俳優さん(?)なのかもしれないが、どう見てもイ・セミンの方が人間的に優れている印象が強いではないか。

それでもここまで見続けてこられたのは、かなり細かな部分まで史実を忠実になぞっている展開が多かったからである。基本的には「三国史記」、「三国遺事」をベースにしていると思うのだが、途中のナレーションでも語られるように一般には偽書と呼ばれる史書まで参考にして徹底的に史実を復元しているような印象を受けた。

もちろんドラマならではの脚色・演出の部分はあるのだが、歴史的な事件や隋・唐の国内事情などはWikipediaに記述のある内容そのものだったりすることが多く、その点はかなり興味深かった。

さらに、このブログでもちょくちょく引用してきたが、「日本書紀」の中にもドラマとリンクする高句麗の記述が結構ある。 本日(第99話)とおそらく最終回で描かれる内容についてはずばりそのものが記録に残っている。

『日本書紀』巻二七天智天皇六年(六六七)十月◆冬十月。高麗太兄男生出城巡國。於是。城内二弟。聞側助士大夫之惡言。拒而勿入。由是男生奔入大唐謀滅其國。

667年10月 高句麗の大兄(官位の種類)である男生(ナムセン)が城を出て諸国を巡った。このとき、城内に残っていた弟二人が、側近の人たちの悪だくらみを聞き入れ、(ナムセンが戻るのを)拒んだので(ナムセンは)入ることができなかった。このためナムセンは・・・

以下、最終回に続く。


唐服姿のキム・チュンチュ

2010年02月20日 | ヨンゲソムン
高句麗に行ってはヨン・ゲソムンに捕らえられ、日本に渡っては人質にされと、苦労の耐えないキム・チュンチュ(金春秋)だが、性懲りもなく唐へ渡ってイ・セミンに同盟を直訴するのであった。(「ヨンゲソムン」第92話)

そのキム・チュンチュは、謁見の際になんと唐の官服に身を包み、歩き方も唐風を装って登場し、イ・セミンを驚かせる。

臣下の国の者が
主(あるじ)の国の官服を着るのは当然でございます
また 唐の人々の歩き方を習得することで
我が新羅がどれほど唐を慕い
礼と敬意を尽くしているか示したかったのです

(中略)

ひとまず・・・私の息子を人質としてここに来させます
さらに我が新羅の朝廷はすべての官職と官服・・・
政事に伴う手続きや儀式を唐の制度にならいます
徹底的に唐の臣民となります

興味深いことに「日本書記」には、新羅からやってきた使者が唐の服を着ていたため、追い返したという記録がある。

『日本書紀』巻二五白雉二年(六五一)是歳。新羅貢調使知万沙■等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。

ことし、新羅の貢調使である知万沙■(ちまささん)たちが、唐の国の服を着て、筑紫に宿泊した。朝廷は、身勝手に(唐の)風俗を真似るさまに立腹し、せめて追い返した。

■は異体字
恣移俗」の部分は、言ってみれば、先日のオリンピック開会式での国母選手のようなことを想像してみればわかりやすいかもしれない。

金春秋(キム・チュンチュ)の爆弾発言

2010年02月03日 | ヨンゲソムン

第79話から80話にかけ数年の月日が過ぎたようで、少年だった男生(ナムセン)は立派な若者へ、ゲソムンの嫁もイ・セミンも一気に老け込んだようだが、どうもスッキリしない。

ヨンゲソムンのクーデターが642年、ドラマではまだ始まってもいない安市城の戦いが645年だからその間3年も無いはずなのである。少々時代考証(というか演出)が甘くないだろうか・・・と、軽いツッコミを入れておいて。

それはさておき、第80話も重要なネタ満載である。

●日本へ行くというキム・チュンチュ

キム・ユシンやフムスンが止めるのも聞かず、後方支援を取り付けるため日本に向かうと宣言するキム・チュンチュなのだが、その中にとてつもなく重要な台詞がある。

日本は滅亡した伽耶の子孫が国の礎を築いた所です
今は百済が王族を派遣し勢力を持っていますが
考えようによっては我々とも利害関係がある


●日本の大殿(テジョン)の描写

日本の国王(?)に謁見するチュンニ。で、国王陛下ってだれ?
時代で言えば皇極天皇の治世のはずなのだが、男性ということは蘇我入鹿か。
もっともドラマでも名前が明らかにされていないぐらいだから、この辺はあまり深く考えても仕方が無い。

それにしても、驚いたことにヨン・テジョはやはり日本に来ていた!
ヨンゲソムンの父親が日本にやってきたという話は日本側の史料には記述がないと思うが、三国史記か何かにはそういう描写があるのだろうか。
それとも単にドラマ上の話?

中大兄皇子と中臣鎌足の共通の師匠に南淵請安という渡来系の人物がいる(中大兄皇子と中臣鎌足は、請安の塾に通いながら蘇我氏打倒の計画を練ったとされる)。
淵=ヨンであるが、これはちょっとムリがあるか。 


●プヨ・プン王子とは

日本の国王との会談をすませたチュンニがトヘ大師(高句麗出身の僧侶:タムジン大善師の弟子)と話をする場面があるが、その際トヘ大師の横に座っていたのが百済の王子である。

「こちらは百済からお越しのプヨ・プン王子です」

漢字で書くと「扶餘豊」だが扶余豊璋もしくは単に余豊璋とも書かれる。(「扶余」は百済の歴代王の姓であり、朱蒙の出自である「プヨ」のことでもある)

豊璋は義慈王(百済第31代王)の息子であり、日本書紀にも人質として日本に滞在していたことが記録されている。


●ヨンゲソムンとソンヘの会話

日本へ行った使者はどうなっただろうか
チュンニのことだ

チュンニ殿は日本の言葉も操ると聞きました
それに天下を周遊し見識も備えています
心配無用です

じき日本で
三韓による外交戦争が始まる 

実に意味深である。


「ヨンゲソムン」 第79話

2010年02月02日 | ヨンゲソムン
デイダラボッチの話を続けたいところではあるのだが、本日放送分の「ヨンゲソムン」第79話でまたしても気になる部分が。

●ヨンゲソムンとチュンニの会話から

高句麗と唐だけでなく列国まで・・・この度の戦に参戦するらしい
外交戦が勝負を決めるはずだ

ごもっともです
日本と薛延陀(ソリョンタ)がその中枢を担うでしょう

そのとおりだ
唐はや奚(ヘ)や靺鞨(マルガル)、契丹(コラン)を味方につける気だが・・・
その力は恐れるに足りぬ
薛延陀(ソリョンタ)だけが突厥(トルグォル)と対等な力を持つ
この件はお前に委ねる

はい 大莫離支
まずは日本に立ち寄ろうかと
日本が我々の後方を援護してくれます
薛延陀(ソリョンタ)は常に唐と対立しており
20万を超える騎馬兵がいます
彼らを引き寄せれば大きな力になります

日本は三韓を天秤にかけ様子をうかがっている
適切に対応するように


つまり、唐と高句麗の戦いは、二国間だけの争いというわけではなく、東アジアにおける世界大戦というか国際紛争の様相を呈していたというわけである。そして、そこにはわが国も決して無関係ではなかった。

イ・セミンが高句麗遠征を行ったのは644年。ヨンゲソムンのクーデターが642年だから、上の会話は643年前後の描写ということになる。

この時期に日本で実権を握っていたのは蘇我入鹿だ。 興味深いことに日本書記642年、643年の条には高句麗からの使者に関する記述がある。これがチュンニだとしたら面白いが、そもそもチュンニは実在の人物?

『日本書紀』巻24皇極天皇元年(642)
二月壬辰《六》壬辰。高麗使人泊難波津。
二月丁未《廿一》丁未。遣諸大夫於難波郡。検高麗國所貢金銀等并其獻物。使人貢獻既訖而諮云。去年六月。弟王子薨。秋九月。大臣伊梨柯須彌殺大王。并殺伊梨渠世斯等百八十餘人。仍以弟王子兒爲王。以己同姓都須流。金流。爲大臣。
二月戊申《廿二》戊申。饗高麗。百濟於難波郡。詔大臣曰。以津守連大海可使於高麗。以國謄吉士水鷄可使於百濟。〈水鷄。此云倶比那。〉以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。
二月辛亥《廿五》辛亥。饗高麗。百濟客。
二月癸丑《廿七》癸丑。高麗使人。百濟使人並罷歸。
八月己亥《十六》己亥。高麗使人罷歸。

『日本書紀』巻二四皇極天皇二年(643)
六月辛卯《十三》六月己卯朔辛卯。筑紫大宰馳騨奏曰。高麗遣使來朝。羣卿聞而相謂之曰。高麗自己亥年不朝而今年朝也。

蹴鞠(けまり)の最中のハプニング

2010年01月26日 | ヨンゲソムン
やはりキム・ユシンとキム・チュンチュ(金春秋)が興じていたのは蹴鞠(けまり)だった。(「ヨンゲソムン」第74話:ドラマの字幕による現地カナでは「チュックク」)

同じ蹴鞠でも日本の宮中に伝わるものとはまるで違う。あれはどう見てもサッカーではないか。動と静、フェンシングと剣道ぐらいの差がある。(ちなみにサッカーというのはスピード感といい、リズム感といい、どう考えても本来は騎馬民族が有利なスポーツだと思う。一昔前に比べ強くなったとはいえ、日本代表がAクラスにかなわないのは、もともとが農耕民族だからではないのか。そんな風にも思ったりするが、実はそれも正解ではないのだな。まあ、それは余談なのでまたいつか。)

あまりの激しさにキム・チュンチュの衣服は破れてしまったのだが、これを縫い合わせたのがキム・ユシンの妹(次女の方)であるムニ(文姫)。これが縁で二人が結婚するというのは結構有名なエピソードである。

ところで、蹴鞠の際のハプニングというとすぐに思い出されるのは中大兄皇子と中臣鎌足の例の一件。(中大兄皇子の脱げてしまった靴を鎌足が拾ってどうのこうのという話)

というわけで、大化の改新で描写される蹴鞠のエピソードは、キム・ユシンとキム・チュンチュの件をパクったのではないかという説を唱える人もいる。中には鎌足の正体=キム・ユシンという妄想を語る人もいるが、さすがにそれはどうか。

ただし、鎌足がキム・ユシンに船を贈ったという事実が『日本書紀』に記載されている(天智天皇7年(668年))のは確かなので、二人の間に何らかの接点があったということも考えられるわけなのである。

「ヨンゲソムン」 第72話

2010年01月23日 | ヨンゲソムン
政変によって親唐派を一掃したあとも問題は山積みである。

唐への対応はもちろんのことだが、隣国の百済・新羅にはどのように対処するのか。高句麗にしてみれば、百済・新羅のいずれかと組めば唐への対抗は容易になる。逆に両側から攻められればひとたまりもない。百済や新羅にしても高句麗と組むという選択肢はあるはずだが、いまだお互いの腹のうちを探りあっているという状況である。

日本のような島国にいるとわかりにくいが、大陸にある国にとって、国境を隣り合わせにする国々との関係をどのように築くかというのは死活問題なのである。(まったくの余談だが、将棋や囲碁と同様、「オセロ」というゲームはもともと戦略的思考を学ぶために生み出されたものだったのではないか)

「ヨンゲソムン」第72話では、チュンニが使者として百済の義慈王のもとを訪ね、見事な駆け引きを展開している。

一方新羅では、キム・ユシンとキム・チュンチュが蹴鞠(?)に興じる姿が。 キム・チュンチュ(金春秋)は後の武烈王(新羅第29代王)であり、ドラマ「善徳女王」で言うところのチョンミョンの息子である。(のちにキム・ユシンの妹のうち一人と結婚することになる。ちなみに第72話には「ソンドク女王」の名前も出てきており、今後の展開が非常に楽しみである。)

ところで、金春秋が人質として日本に滞在していたという記述が日本書記にある。

『日本書紀』巻25大化3年(647年)是歳条「新羅遣上臣大阿滄金春秋等、(中略)仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。」

朝鮮側の史書にはこのような記述がないので、おそらく韓国の専門家などは絶対に認めないだろう。金春秋については689年にも記述がある。 (しかし、金春秋は661年に亡くなっているはずだが?)

『日本書紀』巻30持統3年(689年)5月甲戌「金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於近江宮治天下天皇崩時。遣一吉」

ヨンゲソムンの乱

2010年01月23日 | ヨンゲソムン
もう少し先の話かと思っていたのだがあっという間にXデー(その日)がやってきた。ドラマ「ヨンゲソムン」第71話で描かれたクーデター。表題の「ヨンゲソムンの乱」は正式な表現ではないが、Wikipediaには以下のようにある。

「唐との親善をはかろうとしていた栄留王と、伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を立てて自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政課軍事圏を掌握した最高官職)になって政権をとった」

こうして、ドラマ初期から長いこと登場していた”斜め45度の魅力”、コ・ゴンムこと栄留王もその生涯を閉じることとなったわけである。ドラマでは毒を飲んで自害したことになっているが、歴史書の記述では死体を切り刻まれた挙句に宮中の池に捨て去られたということだそうで、改革派の憤りが並大抵ではなかったことを物語っている。(ドラマ中のナレーションでは、「切り刻んだ」というのは中国の史書に記述されたものを写しただけという言い訳のような説明がなされていたが、千年以上も前の事実を明らかにするのはきわめて困難である)

ところで、このヨンゲソムンによるクーデターが起きたのは西暦642年のこと。興味深いことに、この時期には周辺の各国で謀ったように政変・クーデターが起きている。

642年 百済 武王の死(641年)にともない義慈王(ウイジャワン)が即位すると、貴族中心の政治体制を改革するため、王族や母妹女子4人を含んだ高名人士40人を済州島へ追放した。(義慈王はより反唐的な立場をとる)

647年 新羅 新唐派と反唐派が対立するなか、善徳女王の廃位を求める内乱が起き、この混乱の中で善徳女王亡くなる

645年 日本(倭) 乙巳の変:中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺

いわば、大国「唐」の成立を機に東アジア全体が”歴史の転換期”を迎えていたわけで、日本だけが国内の権力争いに終始していたということはありえない。高句麗、百済、新羅の三国にしてみれば、少しでも自国の立場を強めるためには日本の支援が必要だと考えたはずであって、だからこそ7世紀中頃から後半にかけてはひっきりなしに各国の使者が日本を訪れていたのである。

百済、義慈王の息子「豐璋」が人質として日本に滞在していたり、新羅の金春秋(チョンミョンの息子)が自ら使者として日本にやってきたりしたというのは、そういう背景があるからと考えられるだろう。

ところで、現在もまた明らかに歴史の転換期である。米国の覇権は弱まり、中国が再び大国としての道を歩もうとしているように思える。内政で混乱して外交方針を誤れば、その国の未来は無い。7世紀の教訓は現代に活かされるのだろうか。