朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「風の国」のあと 「高句麗初期の陰謀?」編

2010年09月24日 | 風の国
昼間たまたまテレビをつけてみたら・・・あれ?朱蒙やってるじゃん。
BSで再放送をやっているのは知っていたが、地上波(テレビ東京)でも放送していたとは。

本日(9月24日)観たのは第46話。チェサ、ムゴル、ムッコの3人を家臣に招き入れるエピソードの回である。

ちょうど良いタイミングなので、以下のネタを続けることにしよう。

●第6代 太祖大王の出生の秘密?

問題児であった慕本王のあとを継いだのが太祖大王である。
『三国史記』によれば、「瑠璃王の子の古鄒加(こすうか)の再思(さいし)の子」であり、「母の大后は扶餘(ふよ)人である」とされている。

注:古鄒加(こすうか)とは、高句麗初期の官職名。扶餘はもちろんプヨのことである。

つまり、ユリ王にはトジョル、ヘミョン、ムヒュル、ヨジンのほかにさらに子供がいて、その子の息子(早い話がユリの孫)が太祖大王だということだ。

しかし、この太祖大王に関してはどうも謎が多い。

まず、その在位期間。なんと93年である。
『三国史記』によれば7歳で王位に就いたということだから、次代に王位を譲ったのがちょうど100歳のとき。亡くなったのではなく譲ったということだから、その後も何年か生きていたはずなのである。ありえないとも言い切れないが、当時としてはあまりに長生きではないか。(まるで日本書紀の初期天皇を彷彿させる長寿である)

そして、その名前だ。
祖先の「祖」が使われているという点、そして単に王ではなく「大王」とされているところは何か妙ではないか。さらに、そのあとを継ぐ王の名前が、次大王(第7代)、新大王(第8代)とまるでシリーズものみたいになっているのはウルトラ兄弟みたいだぞ。

ここでもう一度、先代の慕本王を思い出してみよう。
彼は残忍な王として描かれているが、歴史の鉄則から見るなら、それは次の王を正当化する目的があったと考えることもできるのだ。(歴史とは、常に勝ち残ったものにより上書きされる蓄積である)
つまり、正当化しなければならないナニカがあったのではないか?

実は同じようなことがいくつかの歴史書でも見られる。

『日本書紀』の記述によれば、第25代天皇である武烈天皇(在位498-507年)は、実に暴虐・残忍な性格だった。その行いは文章に表わすのもためらうほどだが、一例を挙げれば、「妊婦の腹を割いて胎児を見る、人の頭髪を抜いて梢に登らせ、樹を切り倒して落として殺す、などのことをして楽しんだ」(小学館「日本書紀 上」)のだと言う。

武烈天皇のあとを継いだのが、その名も継体天皇(第26代)。
第15代応神天皇5世の子孫ということだから、かなり他人のような気もする。実際に先代とは断絶があって、継体天皇から新しい王朝が始まったのだとする説を唱える人もいるくらいで、現皇室との血縁関係が確認できる最古の天皇なのである。

戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
(Wikipediaより)

同じようなことが慕本王と太祖大王との間にも言えるかもしれない。
そう思ってもう一度、太祖大王の素性をよく読んでみると・・・

あれっ?

あれれ?

こっ・・・・この名前は・・・・

(期待を持たせつつ、次回に続く)


「風の国」のあと 「閔中王・慕本王」編

2010年09月15日 | 風の国
●第4代 閔中王(びんちゅうおう)

ムヒュルこと大武神王(高句麗第3代王)のあとを継いだのは、ホドン王子ではなく閔中王。『三国史記』では大武神王のとなっている。ということは、トジョル、ヘミョンやヨジンの他にも兄弟がいたということか。
一方、『三国遺事』の王暦では、大武神王のだとされている。果たしてどちらが正しいのか。この辺は判断しづらい・・・というか判断できるわけがないのである。

閔中王の諱(いみな)は解色朱で、これはヘモス(解慕漱)の一族、つまり解氏であることを示しているとも考えられるわけだ。

閔中王の在位は4年ほど。さほど目立つ功績はない。

●第5代 慕本王(ぼほんおう)

閔中王の薨去(こうきょ)に伴い、あとを継いで即位したのが、慕本王である。
『三国史記』では、大武神王の嫡子、『三国遺事』では閔中王の兄とされているが、いずれの場合もムヒュルの子であることには間違いない。しかし、『三国史記』の記述に従う限り、彼はホドンではないのである。

朱蒙、ユリ、ムヒュルに続く4世代目の王にあたるわけだが、実はこの慕本王が非常に残念な王なのである。つまり問題児だった。

『三国史記』の記述を拾ってみると。

性格が荒々しく、道理にそむくことが多く、国政にはげまなかった。
座るときには必ず人の上に座り、寝るときには人を枕にした。
その人がもし動揺すれば、容赦なく殺した。
家臣で諫言するものがあれば、弓でこれを射殺した。
(以上、東洋文庫版『三国史記』より)

そんなわけで、結局、家臣(王の側近)に殺されてしまうのである。

慕本王の在位も約5年と短い。

「風の国」のあと 「ホドン王子」編

2010年09月13日 | 風の国
ドラマ「風の国」の最後は、ムヒュル(大武神王)とその息子ホドン(好童)が手をつなぎ川辺で立ちつくす後姿のシーンで終了する。

終始、物悲しいトーンで貫かれたドラマだったが、最後は未来へのかすかな期待を感じさせつつ、父と息子の微笑ましいツーショットで締めくくられたわけだ。

しかし、史実上、ホドン王子は決して王になることはなく、彼もまた悲しい最期を迎えることになる。

ホドン王子と楽浪のお姫様との悲しい物語は、東アジア版「ロミオとジュリエット」として韓国内では有名な話のようである。

好童王子(호동왕자)説話 

この物語をベースにして、昨年(2009年)には「王女自鳴鼓(チャミョンゴ)」というドラマも製作されたが、こちらはあまりパッとしなかったようである。

『三国史記』では、ホドン王子は剣に伏して自殺したとされている。

新羅人名の「宗」は麻呂や丸と同じらしい

2010年05月25日 | 風の国

麻盧(マロ)が麻呂になったというのはまだ理解できるとしても、麻盧が「宗」になったというのはどういうことか。

もう一度、東洋文庫版「三国史記」の脚注から引用しておこう。

『麻盧は新羅人名語尾の宗となり、日本では麻呂となった。』

つまり、新羅人の名前の語尾に使われる「宗」は、日本で言う麻呂や丸と同義ということである。ドラマ「善徳女王」では、世宗(セジョン)、夏宗(ハジョン)、宝宗(ポジョン)の3人の名前の語尾に「宗」の字が使われているが、彼らの名前はいうなれば蘭丸とか歌丸のようなニュアンスということか。

しかし、どうもすっきりしない。
「宗」の字は日本では「ソウ・シュウ」あるいは「むね」と読む。朝鮮半島でどのように読むかよくわからないが、「マロ」には程遠いような気がするのだが。

ところが、宗=マロに近い読み方をしていたという証拠が見つかった。 以前古本で購入した「三国遺事」(朝日新聞社刊)の中のこれまた脚注の一箇所である。(写真)

『原宗=新羅の第23代法興王の諱(いみな)である。原宗は・・・』に続く部分の発音表記。これはおそらく「マラ」と読むものではないか。とするなら、麻盧(マロ)が「宗」に転化していたとしてもおかしくはない。(ちなみに法興王とは「善徳女王」で言うところのチヌン大帝(真興王)の先代である。)

漢和辞典によれば「宗」の字には「かしら」という意味もあるので、その点からも確かに「丸」と同義と考えておかしくないのかもしれない。

ところで、「三国遺事」などでは花郎(ファラン)の名前の記載が、例えば薛原郎、閼川郎などのように「郎」の字がつけられていることがある。この場合の「郎」は尊称としての意味合いだと考えられるが、もしかすると太郎、次郎の由来はこの辺にあるのかもしれない・・・なんてのは考えすぎか。


マロは宗になり麻呂になったという話

2010年05月23日 | 風の国

ドラマ「風の国」で幼少時からムヒュル(のちの大武神王)の無二の親友であり、最終回直前には壮絶な最期を迎える将軍マロ(麻盧)。(決して某お笑い芸人ではない)

マロは「三国史記」にもその名前が残っており、実在した人物だと考えられるわけだが、その記述は実にシンプルだ。

ときは西暦21年、大武神王がプヨ(扶餘)を討伐するため出兵した途中の話である。沸流(ピリュ)、北溟(ほくめい)、赤谷(せきこく)という3つの場所でそれぞれ新しい家臣を得る。 沸流水のほとりでは負鼎(ふてい)氏(ドラマには出てこない)、北溟では怪由(クェユ:チャムグンさまですな)、そして赤谷に現れたのが麻盧(マロ)である。

『また別の人がいて、
 私は赤谷の住人で、麻盧といいます。なにとぞ〔自慢の〕長い矛(ほこ)をもって、先導させてください。
と願いでた。王はこの願いでもまた許した。

(「三国史記」 東洋文庫版より)

これがマロの登場シーンなのだが、実はマロに関する記述はこれだけである。幼馴染であるとか、ムヒュルと一緒にフギョンとなり修行したとか、あらゆるエピソードはすべてドラマの脚本だったわけだ。(まあ、そんなもんですかいな)

それはそれとして、東洋文庫版の脚注によれば、負鼎氏、怪由麻盧の三人は個人の名前というよりは「地神の化身」であり、史実としてとらえるならば「各地域の共同体が、高句麗軍にしたがって扶餘と戦ったことを伝える伝承」ということらしい。

この脚注は極めて興味深い内容であり、続いて次のような記述がある。

『高句麗の国家形成の伝承では、三代までの各王が、それぞれ三名の家臣を獲得している。これらの伝承の成立期には、高句麗王が直属の家臣団を作るのに努力していた時期のものであろう。

朱蒙ではご存知オイ、マリ、ヒョッポ、そしてユリ王の家臣といえば、ユリが折れた剣をもって朱蒙に会いにいったときの屋智・句鄒・都祖である。句鄒(クチュ)は「風の国」 では大輔(テボ)を務めていた。

この内容だけでも相当面白いのだが、脚注はさらにこう続く。

『麻盧は新羅人名語尾の宗となり、日本では麻呂となった。

つまり、麻呂の語源はもともと麻盧だというのである。びっくりではないか?

東洋文庫版の訳注をされているのは歴史学者の井上秀雄氏。ぜひとも詳しい話を聞いてみたいものだが、残念ながら氏は2008年に亡くなられている。

ここからは推測になるが、高句麗の麻盧は確かに実在した人物で、しかもかなり名を馳せた親分肌の人物であったのではないか。その伝承が日本にも伝わり、勇敢な男子にマロという名前をあやかるケースが増え、長い間にマロ→麻呂→丸と転化していったのではないだろうか。

ところで、麻盧→麻呂はわかりやすいが、麻盧→宗とはどういうことか。
長くなりそうなので続きは次回。


牛若丸と「風の国」のマロとの意外な接点とは?

2010年05月21日 | 風の国
昨年だったと思うが、小栗旬くんの主役で「TAJOMARU(多襄丸)」という映画が放映されていた。物語は芥川龍之介の原作ということらしいが、多襄丸の「丸」というのは、もともとは親分とか頭(かしら)という意味らしい。牛若丸の「丸」も同じである。

そして、この「丸」はその昔の「麻呂」と同じことである。縦書きで「麻呂」を続けて書くうちに漢字一文字で「麿」とも書くようになった。

麻呂(まろ)といえば、「風の国」で主人公ムヒュルの無二の親友であったマロ(麻盧)が思い出されるのだが、驚くべきことに、なんとこの二つの言葉は決して無関係ではなかったようなのである。

さらに、「善徳女王」に出てくる世宗(セジョン)、夏宗(ハジョン)、宝宗(ポジョン)。
彼らもまたマロ(麻盧)と無関係ではないのだ・・・と言っても何のことやらわからないかもしれないが、これもまた本当のことらしい。

それはいったいどういうことなのか?

と、期待を持たせておいて次回に続く。

「風の国」最終回

2009年10月16日 | 風の国
とうとうBS FUJI放送の「風の国」も最終回を迎えた。

2007年夏に地上波で昼間放送されていた「朱蒙」をたまたま目にし、あっという間にその魅力になった。81話の「朱蒙」が終わってすぐに「風の国」が始まり、以来今日まで毎週欠かさずドラマを見つづけて来たわけだが、その間2年強。ずいぶん楽しませてもらった気がする。

それまで韓国ドラマにはまったく興味なかったが、ドラマを見ているうちに古代朝鮮半島の歴史にも興味が湧き、そしてそれが日本の古代史と無関係ではない・・・どころか関係大ありだということが徐々にわかり、歴史を視る目もずいぶん変わったように思う。

最終回は、とうとうプヨ城を陥落させ、朱蒙以来の因縁にケリをつけた格好にはなったが、先週のマロの死に続いてヨンも亡くなり、トジンも自ら命を絶つなど悲劇的結末に収束していった印象が強い。ラストシーンのムヒュルとホドン王子が手をつないで歩く後ろ姿が唯一救いだったろうか。(もっとも、史実上はそのホドン王子も王になることはなく、悲しい終末を迎えるのだが・・・)

まあ、朱蒙の最終回で肩透かしをくらったような感じよりは少しましだったかもしれない。(朱蒙の超人的ジャンプはギャグにしか思えなかった)

それにしても、今になって思うのは大神官のお告げはなんだったのだろうということ。

「王子様は、コグリョを滅亡に追い込む星のもと、お生まれになられました。兄弟を殺し、父と母を殺し、ついには、実の子供まで殺す定めだそうです。」

確かに、ムヒュルに関わったヘミョンとヨジンは亡くなり、ユリ王も王妃も亡くなり、息子であるホドン王子も将来自ら命を絶つ運命にある。しかし、高句麗は滅びるどころか、大武神王の時代に領域を拡張し初期の基盤を築くことになるわけだ。いったい、大神官が自らの命を犠牲にしてまで守らねばならなかった天のお告げとはなんぞや?・・・なんてことを考えてみても意味はないのかもしれないが。

ドラマを通じて感銘を受けたのは、ムヒュルがムヒュルであり決してチュモンではなかったということ。衣装や髪型など製作スタッフの協力・サポートはもちろんあるのだろうが、ソン・イルグク氏には最大の賛辞をお贈りしたい。

「風の国」を検証する その2

2009年10月06日 | 風の国

(「その1」からの続き)

三十三年春正月、立王子無恤爲太子、委以軍國之事。秋八月、王命烏伊摩離、領兵二萬、西伐梁貊。滅其國。進兵襲取漢高句麗縣(縣屬玄菟郡)。

33年(西暦14年)正月 (ユリ王は)無恤(ムヒュル)王子を太子として立て、軍事国政を委ねた。
8月 ユリ王は烏伊(オイ)と摩離(マリ)に命じて2万の兵を率いさせ、西にある梁貊(ヤンメク)国を征伐させた。これにより梁貊(ヤンメク)は滅んだ。さらに兵を進め、漢に属していた高句麗県(玄菟(ヒョント)郡に属す県)を襲い奪い取った。

これによれば、ムヒュルが太子となった時点でも烏伊(オイ)と摩離(マリ)は健在で、高句麗の要職についていたことになる。つまり、彼らは朱蒙、ユリ、ムヒュルと3代に渡って仕えていたということだ。

梁貊(ヤンメク)という国の名前はドラマの中でもたびたび登場する。ムヒュルがまだプヨの黒影(フギョン)の一員であったとき、ヨジンの立太子令を祝う席にトジンらと潜入するが、その際に梁貊(ヤンメク)の使節団と偽っていた(ような気がする)。

三十七年夏四月、王子如津、溺水死。王哀慟。使人求屍不得。後沸流人祭須得之。以聞、遂以禮葬於王骨嶺、賜祭須金十斤、田十頃。秋七月、王幸豆谷。冬十月、薨於豆谷離宮。葬於豆谷東原。號爲琉璃明王。

37年(西暦18年)4月 如津(ヨジン)王子が川で溺れて死んだ。ユリ王は慟哭し、使いを出してその死体を捜させるが見つからない。のちに沸流(ピリュ)人が見つけて葬祭した。ユリ王はこれを聞いて王骨嶺において葬礼を行い、(沸流(ピリュ)人に)金十斤、田十頃を賜った。
7月 ルリ王は豆谷に行幸。
10月 豆谷離宮においてユリ王崩御、豆谷東原で葬儀を行った。号を瑠璃明王とする。

「風の国」では戦(いくさ)で負った傷が原因で如津(ヨジン)王子が亡くなっているが、実際には溺れ死んでいたということである。同じ年にユリ王も亡くなり、ムヒュルが王の座につくこととなる。ちなみにこのときムヒュル15歳。

五年春二月、王進軍於扶餘國南。其地多泥塗。王使擇平地爲營、解鞍休卒、無恐懼之態。扶餘王擧國出戰、欲掩其不備、策馬以前、陷濘不能進退。王於是揮怪由。怪由拔劍號吼撃之。萬軍披靡、不能支。直進執扶餘王斬頭。

5年(西暦22年)2月 ムヒュル(大武神王)はプヨの南に進軍する。その地は多くが泥沼だったので平地を選らんで屯営し、馬の鞍を解いて兵士を休ませた。恐れる様子はまったくなかった。プヨのテソ王も国をあげて出撃、不意打ちを食らわそうと馬を進めるが、泥にはまり動けなくなった。そこでムヒュルは怪由(クェユ)に命令を発する。怪由は剣を抜き咆哮しながらプヨ軍を攻撃した。プヨ軍は壊滅状態で立て直すことができない。直進してテソ王の首を獲った。

高句麗(朱蒙)とプヨ(テソ王)の悪縁もここまで。とうとうテソ王がムヒュルにより滅ぼされる。 ドラマで描写されるのはこの辺までだろうか。(現時点ではBS FUJIの放送があと残り2回)

ところで、ムヒュルその人については高句麗本紀に次のような記述がある。

大武神王、または大解朱留王ともいう。諱は無恤。琉璃王の第三子。母は松氏、多勿国王の松讓の娘。(在位18年-44年)

つまり無恤(ムヒュル)という一風変わった名前は実際のものだったということだ。注目すべきは、その母が松讓の娘ということで、つまりはムヒュルは朱蒙の孫であると同時に、沸流(ピリュ)の松讓(ソンヤン)大君長の孫でもあるということになる。(ドラマ「朱蒙」ではソンヤンがかなり高齢な設定なので朱蒙との歳の差を考えると違和感があるが。)

ムヒュルはピリュ族の血を引く王子でもあるわけだ。そうすると、そもそも「風の国」の中であれほどピリュ部族と仲違いする理由がよくわからない。

ドラマでは三男のムヒュルまでが先妻の子、ヨジン王子はピリュ系の後妻ミユ夫人の子ということになっていて、ミユ夫人、その弟のアンスンとペグクが組んでヨジン王子を推すピリュ派閥みたいな格好になっているが、史実上はトジョルもヘミョンもムヒュルもピリュの血を引く王子だったわけだ。


「風の国」を検証する その1

2009年10月05日 | 風の国

もしも「大武神王(ムヒュル)」のドラマが「朱蒙」の続編として製作されていたならば、両者に共通する登場人物がもっと多かったはずなのである。実際にはユリ王とテソ王ぐらいしか共通していない。えっ、ヨンタバル?それは役者さんの話ですがな。

そこで史実上明らかな大武神王の物語を明らかにしてみよう。

以下、漢文の箇所は基本的に『三国史記』高句麗本紀からの引用である。 少し戻ってユリ王の治世から。

十四年春正月、扶餘王帶素遣使來聘、請交質子。王憚扶餘強大、欲以太子都切爲質、都切恐不行。帶素恚之。冬十一月、帶素以兵五萬來侵。大雪。人多凍死、乃去。

14年(紀元前6年)正月 プヨのテソ王が使いをよこして人質を交換しようと言って来た。ユリ王はプヨが強大な国であるのを恐れ、(その当時)太子であった都切(トジョル)を人質として行かせようとしたが、都切が怖がって行かない。これに怒ったテソ王が、その年の11月に5万の兵で攻めてきたが、大雪のため多くの者が凍死、結局退却した。

都切(トジョル)はユリ王の長男である。「風の国」ではすでに死んだ後なので登場しないが、解明(ヘミョン)が亡くなったのち如津(ヨジン)王子が「どうしてコグリョの太子はみな死ぬ運命にあるのか」と嘆くところでその名前が出てくる。都切が死んだ理由は(ドラマでは)明らかにされていない。

二十二年冬十月、王遷都於國内、築尉那巖城。十二月、王田于質山陰、五日不返。大輔陜父諫曰:王新移都邑、民不安堵、宜孜孜焉、刑政之是恤、而不念此、馳騁田獵久而不返。若不改過自新。臣恐政荒民散、先王之業墜地。王聞之震怒。罷陜父職。俾司官園陜父憤去之南韓。

22年(西暦3年)10月 ユリ王は国内(クンネ)に遷都し、尉那巌城を築いた。
12月 ユリ王は狩猟に出て5日間も戻らなかった。大輔(テボ)の陜父が王を諫めて言うことには・・・
「王様は都を遷したばかりで、民(たみ)も不安に感じております。・・・(以下、小言が続く)・・・このような状態では先王(朱蒙)の偉業も失墜してしまうことでしょう。」
ユリ王はこれを聞いて激怒し、陜父をクビにしてしまった。陜父もこれには憤慨し、高句麗を離れ南韓に去ることとなった。

漢字で書くとわかりにくいが、陜父とはヒョッポのことである。ドラマ「朱蒙」では高句麗建国後の大輔(テボ:高句麗の最高官職)は、摩離(マリ)がその職についているが、実際は違ったらしい。オイ・マリ・ヒョッポのキャラクター(性格)はあくまでもドラマ上の設定であり、ヒョッポは馬鹿力の持ち主として描かれるが、実際はマリのようにリーダーシップのある人間だったのかもしれない。

「風の国」では初回から句鄒(クチュ)が大輔(テボ)の職にあるので、無理やりこじつければヒョッポが免職となった後を句鄒が継いだといえるかもしれないが、まあ、そこまで考えても仕方あるまい。ちなみに句鄒(クチュ)はユリ王の幼少時代からの親友であり、ユリが折れた剣を持って朱蒙のところへ向かったときに一緒にいた少年の一人である。三国史記では一緒にいたのは屋智・句鄒・都祖の3人となっているが、ドラマ「朱蒙」でユリの仲間といえばサンチョンとトゥボン。残念ながらクチュは含まれていなかった。

ところで、ヒョッポが南に向かったということは、やはり召西奴(ソソノ)一行と共に高句麗を去ったサヨンのところへ向かったのだろうか?いやいや、これもまたこじつけ。サヨンはドラマ上の設定で実在しない。

実は南に向かった後の陜父の足取りには、驚愕すべき事実が隠されているのである。それはまた次の機会に。

(続く)


オニモリ、トキメキ、ブギウギ、コトブキ、マビノギ

2009年10月01日 | 風の国

タンチキ、アイカギ、パキポキ、サンゲキ、マビノギ

タマネギ、ザリガニ、スケダチ、ボルシチ、マビノギ

最近よくわからない(意味不明な?)テレビCMで目にすることが多いオンラインゲーム。

マビノギメイプルストーリーといったゲームを展開しているのがネクサスという会社である。ゲームを試したことはないのでよくわからないが、結構知名度はあるらしい。

ところで、このネクサス社が1996年に初めて出したゲームで、MMORPG(多人数同時参加型オンラインRPG)の先駆けとも呼べるのが「風の王国」というゲームだった。日本でも運営されていたらしいが2005年に終了している。

このオンラインゲーム「風の王国」の原作が金辰による同名の漫画なのだが、すなわちドラマ「風の国」の原作でもあるわけだ。

つまり「風の国」の元ネタは10年以上も前から存在していたわけであり、ドラマ「朱蒙」よりもずっと前に世に出ていたということである。BS FUJIでは「風の国」が「朱蒙」の続編のように紹介されたりもしていて、うっかり勘違いしている人もいるかもしれないが、もともとすべて辻褄が合うわけはないのである。

ちなみに、「朱蒙」は韓国MBC局(文化放送)、「風の国」はKBS2局(韓国放送公社、日本で言えばNHKみたいなもの?)で、そもそも製作局が異なる。