朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

善徳女王における外交政策

2012年08月18日 | 善徳女王

ドラマ「善徳女王」第58話

唐からきた使臣の侮辱発言に対し、善徳女王が家臣の前で語る内容。

 

善徳女王:交渉の原則のひとつは、脅しには冷静に対処し、それを逆手に取ることです。

もうひとつは、彼らの言うことに反論すること自体が、彼らの思うつぼということ。
相手の主導する内容で、論争してはなりません。

もうひとつは、疑問を持つこと。

ヨンチュン:疑問ですか。
チュンチュ:彼らが女王様の気分を、過剰に刺激したことですか?

善徳女王:外交において、必要ないことはひとことも言うものではありません。
なのに、家臣たちの前で私を侮辱し、笑いものにしました。

神国になにか大きな要求があるのです。
彼らの意図、まず、それを知らなくては。


IUといえば

2012年03月02日 | 善徳女王

Yahoo!映像トピックスの記事を見ていて。

日本デビューが決定、韓国「国民の妹」

韓国で「国民の妹」と言われている、18歳のIU(アイユー)。彼女を一躍トップアーティストに押し上げた代表曲「Good Day」で 日本デビューです。

とうことなのだが、ちょっとビックリ。
かなり歌のうまい女性なので、キャリアのあるもっと年上の人かと思っていた。

IUといえば思い出すのはやはりこの曲。
何度聞いても良いね~。

WindFlower - IU


キム・チュンチュの初婚の相手

2011年11月01日 | 善徳女王

ソンファ姫の周辺を調査しているうちに、またもや新たな事実が発覚したので。

わかりやすいように図にしてみたが、結論から言えば、ドラマ「善徳女王」の中にも挿入された金春秋(キム・チュンチュ)と宝宗(ポジョン)の娘との結婚は、真平王の孫同士の結婚ということである。

真平王-チョンミョンーチュンチュの流れは問題ないと思う。

真平王の王妃は摩耶夫人であるが、その他多数のお妃さまの中に宝明宮主という人物がいる。父親は仇珍、母親は只召太后ということだが、只召太后という人は真興王(チヌン大帝)の母親にあたる人で、つまり真平王の曾祖母(そうそぼ)=ひいおばあちゃんでもある。

その宝明宮主と真平王の間にできた娘が良明公主
この良明公主はミシルの息子である宝宗(ポジョン)との間に宝良、宝羅という二人の娘をもうけている。このうちの一人がチュンチュの元に嫁入りしたというわけだ。

そしてチュンチュとの間にできた娘の名前が古陁炤(コタソ)であり、百済から大耶城を攻められたときの城主の妻で二人揃って殺害されたことは以前にも書いたとおり

ちなみに、チュンチュに嫁入りした宝宗の娘の名前は、「善徳女王」のキャスティングでは宝良(ポリャン)となっているが、「花郎世紀」によれば宝羅の方ということらしい。この辺にも混乱があるようだ。

 

とまあ、とにかく、この時代の新羅の親族関係が相当に入り組んでいることはこれまでにも何度か言及してきているのだが、ようやくわかってきたことがひとつ。

この時代の王族の血縁関係は、現代人の考える血縁関係とは相当に温度差があるということ。
単に王の血をひく子供である、孫であるというだけではそれほどありがたみがないというか、正統な身分の王妃との間に生まれないと重要視されないというか。その象徴が骨品制なのだろう。

たとえば、チュンチュはどこからどうみても真平王の孫なのであって、血縁だけ見たら何の問題もなく王位を継ぐ資格があるように思える。しかし、父親の龍樹(ヨンス)が廃位された真智帝の息子ということで聖骨(ソンゴル)から真骨(チンゴル)の身分に格下げになってしまったのである。

血縁より制度が優先する社会というわけだ。

そのように考えていくと、キム・ソヒョン(ユシンの父)が血縁的にはチヌン大帝の孫にあたるにも係わらず、父方の武力(ムリョク)が伽耶一族だったために身分的には低い立場にあったというのも理解できる気がする。(ソヒョンとマンミョンが親の反対を振り切って駆け落ちしたのは歴史的事実なのである)


トンマンの生年を推理してみる

2011年07月09日 | 善徳女王

「三国史記」の記録において王の在位期間や没年は明確になっているが、その生年が不詳というケースはかなり多い。トンマンこと善徳女王の生年もハッキリとはわからないのである。

そこで、以下の仮定を前提にしてトンマンの生年を探ってみたい。

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現代では医療技術の発展により40歳超えても出産可能になってきたが、かつて安全に出産することができるのは30歳ぐらいまでと言われていた時代もあった。

古代社会においては初潮を迎えれば出産可能年代とみなされたわけで、15歳ぐらいで子を産むのはごく自然なことだった。(ドラマ「善徳女王」においてチョンミョンがチュンチュを産むのもそれぐらいの年代である)

そこで、多少の誤差はあるかもしれないが、

  • 古代社会における「女性の平均的な出産可能な期間」を15歳から25歳までと仮定してみる。(あくまでも「仮定」の話なのでご注意)
  • そうすると必然的に、同じ母から生まれた兄弟は10歳以上離れることはない。

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キムチュンチュの生年は一説には602年とされているので、ここから逆算すると母チョンミョンの生年は577年から587年の間ということになる。

チョンミョンの父、真平王の生年も不詳とされるが、「花郎世紀」によれば567年生まれということらしい。これを信じるなら、10歳で父親になるというのはさすがにムリと思われるので、チョンミョンの生年は582年から587年の間ぐらいに絞れそうである。

ちなみに、ドラマ「善徳女王」では、チョンミョン15歳のときに夫ヨンスが母山城奪還に出かけ戦死、宮殿を出て尼になった1年後にチュンチュが赤子で登場している。つまり、587年前後をチョンミョンの生年としていることがわかる。

トンマンこと善徳女王は、「三国史記」では真平王の長女となっているが、「花郎世紀」では次女とされているようで多少混乱がある。双子だという史実はないが、ひとまずチョンミョンとそれほど年齢差が無いとしてみると、647年に亡くなった時は60から65歳の間ということになるので、結構なおばあさんだったわけだ(当時の感覚として)。

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キム・ユシンの生年は595年なので、同じ母(マンミョン夫人)から生まれた妹たち(宝姫、文姫)の生年は遅くても605年までに収まるはずである。文姫はキム・チュンチュの妻となったので、当時の世相を考えるとチュンチュより年上(姉さん女房)とは考えにくいが、仮に605年を生年としてみると出産可能な時期は620年から630年の間ということになる。

チュンチュと文姫(文明王妃)の間に生まれた文武王の生年は不詳とされているが(「花郎世紀」では626年とされているらしい)、681年に亡くなっているので死亡当時の年齢は51から61歳の間に収まり、それほど違和感は無い。

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ミシルは、「花郎世紀」を参考に執筆された小説によれば銅綸、真興王、真智王、真平王との間に子を儲けているが、真興王(チヌン大帝)の子を産んだのが事実だとすれば、少なくとも真興王の亡くなる576年以前には出産のできる年齢に達していたわけで、ここから計算するとその生年は(遅くとも)551年から561年の間ということになる。

善徳女王が王位に就いた632年まで生きていたとすれば、71から81歳の間になっているわけで、まったく無い話ではないが王権を奪うような政変を起こせるはずもない。(そもそもミシルは女性の「性」を武器にしてのし上ったのであって政務に就いていたとは考えにくいのだが)

ちなみに、Wikipedia英語版では、クエスチョン・マークつきではあるが【540? ~ 600?】という表記がある。


日本を訪れたキム・チュンチュ

2011年07月02日 | 善徳女王

『日本書紀』巻25大化3年(647)の条には、キム・チュンチュ(金春秋)が使節として日本を訪れた記録が残されている。

新羅遣上臣大阿飡金春秋等。送博士小徳高向黒麻呂。小山中中臣連押熊。來獻孔雀一隻。鸚鵡一隻。仍以春秋爲質。春秋美姿顏善談咲。

新羅(しらき)、上臣(まかりだろ)大阿飡(だいあさん)金春秋(こむしゅんしう)等(ら)を遣(まだ)して、博士小徳(はかせせうとく)高向黒麻呂(たかむくのくろまろ)・小山中(せうせんちう)中臣連押熊(なかとみのむらじおしくま)を送(おく)りて、来(きた)たりて孔雀(くさく)一隻(ひとつ)・鸚鵡(あうむ)一隻(ひとつ)を献(たてまつ)る。仍(よ)りて春秋を以って質(むかはり)とす。春秋は、姿顔美(かほよ)くして善(この)みて談咲(ほたきこと)す。
(岩波文庫版による読み下し)

新羅は、大阿飡の官職にあるキム・チュンチュを派遣し、(以前日本から新羅に派遣されていた)高向黒麻呂(高向漢人玄理)と中臣連押熊を送ってよこし、孔雀(くじゃく)、オウムそれぞれ一羽を献上した。この際にチュンチュは人質とされた。チュンチュはイケメンで、誇らしげに話してはよく笑った。

647年といえば正月にピダムの乱が起こり、その渦中に善徳女王(トンマン)が亡くなった年である。「女王ではよく国を治めることができない」といって反乱を起こした一派が粛清されたのちも、再び女王(真徳女王)が擁立された状況にあって、新羅が高句麗・百済に対抗するためには唐の援助だけでなく日本(倭)の支援も必要と判断されたのではないだろうか。

しかし、その翌年(648年)になるとチュンチュは息子を連れ改めて唐に入朝しているので、日本では期待するほどの支援が得られなかったのかもしれない。当時日本は乙巳の変(645年)以後の改革事業の渦中(「大化の改新」)にあった。

キム・チュンチュが日本を訪れたことは朝鮮半島側の史書には記録されていない。
韓国の学会などはその事実を認めていないかもしれないが、後に王となる人物が一時的にせよ人質として派遣されるなどということは国としてのプライドに関わる問題だろう。正史に記録がないから事実がないとも言い切れないのではないかと思う。

『日本書紀』にはこのほかにもキム・チュンチュに関する記事がいくつか記録されている。

 

■『日本書紀』巻26斉明天皇6年(660)7月
高麗沙門道顯日本世記曰。七月云云。春秋智借大將軍蘇定方之手。使撃百濟亡之。
(チュンチュは唐の大将軍である蘇定方の手を借り、百済を挟み撃ちにして滅ぼした。)

其注云。新羅春秋智不得願於内臣盖金故。亦使於唐捨俗衣冠。請媚於天子。投禍於隣國。而搆斯意行者也。

■『日本書紀』巻26斉明天皇6年(660)9月
或本云。今年七月十日。大唐蘇定方率船師軍于尾資之津。新羅王春秋智率兵馬軍于怒受利之山。夾撃百濟。相戰三日。陷我王城。

■『日本書紀』巻27天智天皇即位前紀斉明天皇7年(661)12月
釋道顯云。言春秋之志正于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚。苦急。故爾也。

■『日本書紀』巻30持統3年(689)5月
若言前事者。在昔難波宮治天下天皇崩時。遣巨勢稻持等告喪之日。金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。


6世紀後半の新羅の領土

2011年06月27日 | 善徳女王

一般に高句麗・百済・新羅の三国時代の領土というと、新羅が半島の東南部分だけとなっている地図を目にすることが多いが、ドラマ「善徳女王」の時代背景にはそぐわない。

たとえば、ドラマでもたびたび登場する党項(タンハン)城のあった場所は半島の西側である。ここから海に出られたから隋・唐と交易することが可能だったわけだ。

たまたまWikipediaの英語版でSillaを調べてみたら576年当時の領土を示す地図が使われていた。576年は真興王(チヌン大帝)が亡くなった年であり、5世紀終わりごろの地図と比較すると真興王(チヌン大帝)がいかに領土を広げたのかよくわかる。

その功績の偉大さは高句麗で言えば広開土王に匹敵するものだと思うが、それを可能にしたのは、やはり伽耶を併合したことが大きかったのではないだろうか。伽耶の製鉄技術は当時の朝鮮半島内でも抜きん出ており、その高い技術が軍事的にも大きな役割を果たしたのではないかと思う。

 


GyaO!で「善徳女王」配信中

2011年06月26日 | 善徳女王

GyaO!でドラマ「善徳女王」が無料配信されている。

善徳女王

字幕版でノーカットだが、1話あたり数日間しか配信されないようなのでご興味ある方は早めに。
(現在配信されているのは第7話から第11話までだが、第7話は本日(6月26日)で配信終了)

これまでDVDで見てきたのはすべて日本語吹き替え版だったので、字幕版で俳優さん本来の声を聞くと、どうしても若干の違和感を覚える。

一番しっくりこないのは夏宗(ハジョン)。
日本語版では少々間の抜けたキャラクターをうまく醸し出していたが、本人の声は意外に格好良い。声が違うだけで役柄の印象も変わるようだ。

一方で、ミシルについては本人の声よりも日本語の声優さんの方が、より迫力ある印象。
声優という仕事はあまり表に出ないものだと思うが、ミシルの吹き替えに関してはそれだけで何らかの賞に値する素晴らしい仕事内容だと思う。
この場をお借りして賞賛と感謝の意を表したい。


「善徳女王」のあと 「太宗武烈王」編

2011年06月06日 | 善徳女王

善徳女王の後を継いだ真徳女王も654年に亡くなり、聖骨(ソンゴル)の王はここで途絶え、以降真骨(シンゴル)の王が新羅を統治していくことになる。

真徳女王に継いで即位したのが武烈王(太宗武烈王)、つまり金春秋(キムチュンチュ)である。
しかし、チュンチュが即位するまでにはひと悶着あったようだ。

真徳王が薨去すると、群臣は伊飡の閼川に政治を執るように願った。しかし、閼川は頑固に辞退して、〔次のように〕いった。

私は〔すでに〕老いこんでいます。〔そのうえ、〕人徳もなければ、業績もとくにとりたてていうほどのものがありません。現在人徳もあり、人望もきわめて高い人物は、春秋公をおいて外にはありません。〔彼こそ〕まさに世を救う英雄というべきでしょう。

かくして、〔群臣は春秋を〕奉じて王とした。春秋も三たび辞退したが、〔それでも群臣が願い出たので、〕やむをえず王位に即いた。

本当に人望があるなら最初から王に推されていたわけで、アルチョン(閼川)の件がわざわざ正史に刻まれているということは、チュンチュは実際にはそれほど人望がなかったか、あるいはあまりに露骨に唐に擦り寄る姿勢が、周囲の反感を買っていたのではないかという気がしないでもない。(「やむをえず」というのは、チュンチュというより群臣の側の心象を皮肉っているようにも思える)

いつの時代でも重要な国策をめぐる対立は内紛、反乱を引き起こしかねない。

唐の官服を着て、唐の元号を採用するということは、自ら唐の属国であることを宣言するようなものである。高句麗・百済と対抗するため唐と結託したければならなかった事情はあるにせよ、あまりにプライドがなさ過ぎるのではないか。そう考えた臣下も多かったのではないかと思うのだが、歴史的には結果として新羅が三国統一(三韓一統)を果たすわけだから、大きな結果を得るためには時として苦渋の選択をせざるを得ないというのもひとつの真実なのだろう。徹底して反唐を貫いた高句麗のヨンゲソムンが、自らの子供たちの反目をきっかけに自国の滅亡を目の当たりにすることになったのとは好対照である。


即位に続いて次のような記述がある。

夏4月、王の亡父を追封して、文興大王とし、王母を文貞太后とした。

父親を「亡父」として表記していながら、母親は単に「王母」としていることから、この時点ではチュンチュの母、つまりチョンミョンはまだ生きていたのではないかと思われる。ドラマの中でトンマンの代わりに殺されたのはあくまでも脚色ということ。


「善徳女王」のあと 「真徳女王」編

2011年05月31日 | 善徳女王

647年正月、ピダムの乱の渦中に善徳女王は亡くなる(8日)が、すぐに同じ女帝である真徳女王がキムユシンらの支持を得て擁立される。

この真徳女王は、「三国史記」と「三国遺事」では伝える系譜がやや異なる。

「三国史記」によれば、「真平王の母方の叔父にあたる国飯(こくはん)の娘」ということなので、真平王のいとこに該当することになる。一方、「三国遺事」系表では真平王と国飯が兄弟とされているので、トンマンの従姉妹(いとこ)ということになる?

この辺がややこしいのは、たとえば真平王の母親であるマノ(万呼)夫人が真興王(チヌン大帝)の妹で、真平王にとっては母親であると同時におじいちゃんの妹であるというような、新羅独特の絡み合った婚姻関係が影響しているのではないかと思われる。

さらに中国(唐)側の認識は、「旧唐書」の記述に「善徳女王の妹」とあるとおりで、トンマンの名前が「金徳曼」であるのに対し、真徳女王の名が「金勝曼」(トンマン風に読めばスンマン)であるというのも何か込み入った事情がありそうな気はする。(真徳女王の謎

●「旧唐書」新羅伝より

二十一年、善卒、贈光祿大夫、餘官封並如故。因立其妹真為王、加授柱國、封樂浪郡王。

 二十一年(647年)、善が死に、光祿大夫を追その余の官位はすべて旧来の如くじたその真を立ててとなしたので、柱国加授、楽浪郡王に封じる


真徳女王の治世でドラマのキャラクターに関連する部分を抜き出してみると。

647年
正月17日 ピダムを誅殺
2月 アルチョンを上大等(サンデドゥン)に任命

648年 キムチュンチュ(金春秋)とその息子、文王を唐に派遣  

このあたりから新羅は卑屈なまでに、徹底して唐のご機嫌取りをとるようになっていく。

  • チュンチュは唐の皇帝(太宗)に対し、新羅の礼服を改め中国の制度に従うことを申し出る(649年正月より中国の衣冠を採用)
  • チュンチュが唐を離れる際、その子供を唐に残し天子の宿衛をさせることを申し出て受け入れられる(以降、これが伝統となる)
  • 独自の年号を廃止し、中国の年号を採用する(650年)

ちなみに、「日本書記」には、新羅からやってきた使者が唐の服を着ていたため、追い返したという記録がある。

『日本書紀』巻二五白雉二年(六五一)是歳。新羅貢調使知万沙飡等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。

ことし、新羅の貢調使である知万沙飡(ちまささん)たちが、唐の国の服を着て、筑紫に宿泊した。朝廷は、身勝手に(唐の)風俗を真似るさまに立腹し、せめて追い返した。

 


善徳女王の善政

2011年05月30日 | 善徳女王

外交面では百済・高句麗から攻められっぱなしの善徳女王だったが、内政の面では数々の施策を打ち出している。
そんな善徳女王の人柄がしのばれる「三国史記」の記述の数々。
(いつものごとく東洋文庫版より)

徳曼の性格は寛容で仁徳があり、明朗・俊敏だった。

632年
冬10月、使者を〔国内に〕派遣して、国内の鰥寡(やもめ)や孤独なもので、自立することのできないものを慰問し、施し与えた。

640年
夏5月、王は王族の若者を唐に派遣し、〔唐の〕国学に入学させてほしいと申し出た。

国学・・・国立の学校

また仏教の布教に注力した様子もうかがえる。

  • 芬皇寺(634年)、霊廟寺(635年)の完成
  • 皇龍(ファンニョン)寺の塔(九重塔)を創建(645年)
  • 慈蔵法師を唐に派遣し仏法を求めた(636年)

(「三国遺事」によれば、慈蔵法師の父親は14代風月主(プンウォルチュ)の虎才(ホジェ、虎林ともされる)だということ。虎才は真平王の妻マヤ夫人の弟でもある)


ちなみに、ドラマの中に出てきたチョムソンデ(瞻星台)も善徳女王の時代に建造されたものとして有名である。(善徳女王と天文台(瞻星台)

また、「三国遺事」には、善徳女王が未来を予見する能力を持っていたことを示す3つのエピソードが取り上げられている。(うち2つは「三国史記」にも記述あり)

  • 唐から送られてきた牡丹の絵を見て、この花に香りがないことを言い当てた。
  • 霊廟寺の池でたくさんのカエルが鳴き続けている現象から、百済軍が潜伏していることを言い当てた。
  • 自らの死期を言い当てた。