朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

「善徳女王」のあと 「真徳女王」編

2011年05月31日 | 善徳女王

647年正月、ピダムの乱の渦中に善徳女王は亡くなる(8日)が、すぐに同じ女帝である真徳女王がキムユシンらの支持を得て擁立される。

この真徳女王は、「三国史記」と「三国遺事」では伝える系譜がやや異なる。

「三国史記」によれば、「真平王の母方の叔父にあたる国飯(こくはん)の娘」ということなので、真平王のいとこに該当することになる。一方、「三国遺事」系表では真平王と国飯が兄弟とされているので、トンマンの従姉妹(いとこ)ということになる?

この辺がややこしいのは、たとえば真平王の母親であるマノ(万呼)夫人が真興王(チヌン大帝)の妹で、真平王にとっては母親であると同時におじいちゃんの妹であるというような、新羅独特の絡み合った婚姻関係が影響しているのではないかと思われる。

さらに中国(唐)側の認識は、「旧唐書」の記述に「善徳女王の妹」とあるとおりで、トンマンの名前が「金徳曼」であるのに対し、真徳女王の名が「金勝曼」(トンマン風に読めばスンマン)であるというのも何か込み入った事情がありそうな気はする。(真徳女王の謎

●「旧唐書」新羅伝より

二十一年、善卒、贈光祿大夫、餘官封並如故。因立其妹真為王、加授柱國、封樂浪郡王。

 二十一年(647年)、善が死に、光祿大夫を追その余の官位はすべて旧来の如くじたその真を立ててとなしたので、柱国加授、楽浪郡王に封じる


真徳女王の治世でドラマのキャラクターに関連する部分を抜き出してみると。

647年
正月17日 ピダムを誅殺
2月 アルチョンを上大等(サンデドゥン)に任命

648年 キムチュンチュ(金春秋)とその息子、文王を唐に派遣  

このあたりから新羅は卑屈なまでに、徹底して唐のご機嫌取りをとるようになっていく。

  • チュンチュは唐の皇帝(太宗)に対し、新羅の礼服を改め中国の制度に従うことを申し出る(649年正月より中国の衣冠を採用)
  • チュンチュが唐を離れる際、その子供を唐に残し天子の宿衛をさせることを申し出て受け入れられる(以降、これが伝統となる)
  • 独自の年号を廃止し、中国の年号を採用する(650年)

ちなみに、「日本書記」には、新羅からやってきた使者が唐の服を着ていたため、追い返したという記録がある。

『日本書紀』巻二五白雉二年(六五一)是歳。新羅貢調使知万沙飡等。著唐國服泊于筑紫。朝庭惡恣移俗。訶嘖追還。

ことし、新羅の貢調使である知万沙飡(ちまささん)たちが、唐の国の服を着て、筑紫に宿泊した。朝廷は、身勝手に(唐の)風俗を真似るさまに立腹し、せめて追い返した。

 


善徳女王の善政

2011年05月30日 | 善徳女王

外交面では百済・高句麗から攻められっぱなしの善徳女王だったが、内政の面では数々の施策を打ち出している。
そんな善徳女王の人柄がしのばれる「三国史記」の記述の数々。
(いつものごとく東洋文庫版より)

徳曼の性格は寛容で仁徳があり、明朗・俊敏だった。

632年
冬10月、使者を〔国内に〕派遣して、国内の鰥寡(やもめ)や孤独なもので、自立することのできないものを慰問し、施し与えた。

640年
夏5月、王は王族の若者を唐に派遣し、〔唐の〕国学に入学させてほしいと申し出た。

国学・・・国立の学校

また仏教の布教に注力した様子もうかがえる。

  • 芬皇寺(634年)、霊廟寺(635年)の完成
  • 皇龍(ファンニョン)寺の塔(九重塔)を創建(645年)
  • 慈蔵法師を唐に派遣し仏法を求めた(636年)

(「三国遺事」によれば、慈蔵法師の父親は14代風月主(プンウォルチュ)の虎才(ホジェ、虎林ともされる)だということ。虎才は真平王の妻マヤ夫人の弟でもある)


ちなみに、ドラマの中に出てきたチョムソンデ(瞻星台)も善徳女王の時代に建造されたものとして有名である。(善徳女王と天文台(瞻星台)

また、「三国遺事」には、善徳女王が未来を予見する能力を持っていたことを示す3つのエピソードが取り上げられている。(うち2つは「三国史記」にも記述あり)

  • 唐から送られてきた牡丹の絵を見て、この花に香りがないことを言い当てた。
  • 霊廟寺の池でたくさんのカエルが鳴き続けている現象から、百済軍が潜伏していることを言い当てた。
  • 自らの死期を言い当てた。

「ヨンゲソムン」におけるソンドク女王

2011年05月24日 | 善徳女王

ドラマ「ヨンゲソムン」の中にもソンドク女王が登場する。(第76話)
以下、番組内のナレーションより。

ソンドク女王

元来 女王は夫を持たない
しかし「花郎(ファラン)世紀」には
ソンドク女王が子作りに励んだとある

彼女は夫代わりの男性”私臣(サシン)”を
3人も仕えさせた

チュンチュの父親 ヨンチュンと
宰相のウルチェとフムバンの3人である

三壻(サムソ)制という制度で
骨品(コルプム)制を守るための慣わしだった

しかし ソンドク女王には 子供が授からず
その虚しさゆえ 仏事に没頭したのである

三壻(サムソ)制:女王が世継ぎ作りのため私臣(サシン)を3人まで持つ制度

少々わかりにくい”大人の事情”が紹介されているが、現代人の感覚として理解しがたいのは、私臣(サシン)の一人がヨンチュン(龍春)であること。

ここで少し説明が必要である。
ドラマ「善徳女王」において、廃位された真智王の息子ヨンス(龍樹:チョンミョンの夫)とヨンチュン(龍春)は兄弟という設定になっているが、「三国史記」を読む限り両者は同一人物のようである。
上の記述でまさに「チュンチュの父親」と書いてあるとおりなので、つまりソンドク女王の子作りのためにチョンミョンの旦那が協力しているということになる!?
この辺りは以前にも書いたが、この時期の新羅は骨品制の維持を至上命題としていたようで、そのためには近親婚でも何でもありという感じだったようだ。

ちなみに、ウルチェとは、ドラマの初期に登場していた乙祭(ウルチェ)上大等のことだろう。
(フムパンはだれ?)

写真は高句麗に党項城を攻められパニックに陥るソンドク女王。


実はあまり有能でなかった善徳女王

2011年05月23日 | 善徳女王

ドラマ「善徳女王」第58話にて、ヨムジョン(廉宗)らの陰謀により、中国(唐)からやってきた使臣が善徳女王の面前で女性の王を蔑んだ発言をするという場面がある。使者は、唐の皇帝からの伝言をそのまま伝えたのだと言い張るのだが、善徳女王はその発言が本当に皇帝のものかどうか明らかになるまで使者たちを軟禁してしまうという大胆な行動に出る。

しかし、歴史上の善徳女王は決してこのような強い態度に出られる状況にはなかった。なにしろ、大耶城陥落の後も、高句麗、百済から盛んに攻め入れられており、善徳女王は、頻繁に唐に使者を派遣し、救援を乞うているのである。

「三国史記」によれば、善徳12年(643)9月に使者が訪れた際には、唐の皇帝(太宗)が、使者に対し具体的な策はあるのかと問うのだが、「わが王は対応する手段にゆきづまり、計略も尽き果てて、ただひたすらこの緊急事態を大国に報告し」とあるくらいだから、もはや泣きつくしかできない状態であった様子がうかがえる。

これに対し、太宗は3つの方策を提案するのだが、それに続いてこんなことを言っている。

あなたの国では婦人が王になっているので、隣国から軽んじられ、〔その結果、やがて〕王を失い、いつまでも侵略が続き、安らかな年がなくなってしまいます。〔そこで〕私は一族の者を派遣して、あなたの国の王としましょう。そうすれば、王一人だけでゆくわけにはいきませんから、当然、〔唐から〕軍隊を派遣し、守らせましょう。〔その後、〕あなたの国が平安になるのを待って、あなたたちが自分で防衛するのにまかせましょう。

これを聞いた使者は絶句して何も言えず、逆に太宗は「こんな田舎者では、出兵を求め、緊急事態を告げる才覚などありはしない」と呆れるのだった。

その後も唐への使者派遣は継続される。

645年になってキムユシンが百済討伐に出かけるが、成果を得て還って来たとたんに再び国境をおかされ、休むヒマもなく再び出陣。そしてまた帰還した途端に百済軍侵入の連絡がもたらされ、というありさまで、長いこと家に戻ることすらできなかった。
この際も、善徳女王はユシンに頼るほかなかったわけである。

国が存続するか滅亡するかは、すべてあなたにかかっています。なにとぞ苦労をおしまず出陣して、この苦難にあたってください。

2年後、ピダムとヨムジョン(廉宗)が、「女王ではよく国を治めることができない」といって反乱を起こしたのもこういった背景があったからであり、反乱は失敗に終わったものの、同じように感じている家臣は多かったのかもしれない。(「女王」の部分を某政党や某政治家にあてはめてみるとわかりやすい)

また、「三国史記」の編者である金富軾は、善徳女王の条の末尾にわざわざ以下のような意見を付している。

自然の運行を例にとっていえば、陽は剛直で陰は柔軟ということである。人間の場合でいえば、男は尊くて女は卑しいということである。どうして老婆が閨房から出て、国家の政治を裁断することが許されてよかろうか。新羅では女子をもちあげて、これを王位につけた。〔これは〕誠に乱世のことであって、国が亡びなかったのは、幸いである。

「三国史記」が編纂された12世紀において男尊女卑はごく普通の考え方で、高句麗・百済には一切女王が出現していなかったということから見ても、7世紀の女帝出現はかなり特異なことだったのだと思われる。

そうすると不思議なのは、同時代の日本であたり前のように女性の天皇が登場していることである。
この点はいつか改めて検討を加えてみたい。


百済による大耶城攻略

2011年05月22日 | 善徳女王

ドラマ「善徳女王」第55話に描かれる百済の大耶城(てやじょう)攻撃は歴史的事実で、西暦642年8月のことである。また、この攻撃の際に、黔日(けんじつ:コムイル)という密偵が百済軍を引き入れたことも『三国史記』に記述がある。(ドラマでは、「黒」から始まる名前を探せというユシンの進言にもかかわらず、後手に回った新羅はあっけなく大耶城を陥落させられる)

しかし、ドラマ「善徳女王」では、この大耶城陥落の際の重要なエピソードが抜け落ちている。百済から大耶城を攻撃された当事の城主を務めていたのは品釈(ひんしゃく:プムソク)という人物であるが、この品釈の妻はキムチュンチュ(金春秋)の実の娘(古陁炤:コタソ)なのである。品釈とその妻は百済軍によって捕えられるが、二人とも殺害されその首は獄中に埋められたという。チュンチュにとっては、はらわた煮えくり返るような事件だったわけである。

この辺の経緯は「三国史記」では、このように記述されている。(以下、東洋文庫版からの引用)

この月、百済の将軍允忠(いんちゅう)が、兵を率いて大耶(たいや)城(慶南陜川郡陜川面)を攻撃し、これを陥落させた。〔大耶州〕都督の伊飡の品釈(ひんしゃく)およびその配下の舎地(しゃち)の竹竹(ちくちく)や龍石(りゅうせき)などが、この戦いで戦死した。

冬、王は百済を討伐して、大耶の戦闘の報復をしようとし、伊飡の金春秋(きんしゅんじゅう)を高句麗に派遣して、出兵を願い出た。まえの大耶城の敗戦で、都督の品釈の妻も戦死した。彼女は金春秋の娘であった。春秋はこの報告を聞くと、柱によりかかって立ったまま一日中またたきもせず、人が目の前を通ってもそれに気づかなかった。

この後、金春秋は高句麗に入り、百済に攻め入るため出兵の協力を要請するのだが、当時の高句麗王(宝蔵王)にその言説が偉そうだと反感を買い、なんとしばらく高句麗内に幽閉されることになる。
そこで、善徳女王はキムユシンを1万の軍勢と共に高句麗に向かわせる。ユシン達が国境まで近づいていることを知った高句麗王が、やむなく金春秋を釈放することになるのだ。

ところで、大耶城のあった場所というのは、ドラマの中で百済の将軍ケベクが語っているところによれば、聖王(百済第26代王:在位523-554年)の時代には百済が掌握していた地域らしい。「三国史記」百済本紀の聖王31年(553)の記述に「秋7月、新羅が〔百済の〕東北の辺境地帯を取り、新州を置いた」とあるのが、それに該当するものだろう。(新羅本紀にも同様の記述があるが、これによれば新州の軍主となったのは金武力(キム・ムリョク)、つまりキム・ユシンの祖父である)

しかし、大耶城の「耶」の字からも容易に想像されるように、もともとは伽耶諸国の領域だった場所である。その場所に、現在「陜川郡」という名前が残されているのは注目に値する。これに関しては後日驚くべきネタを掲載する予定なので、ぜひとも覚えておいて欲しい。

なお、ドラマでは大耶城への百済侵攻が唐突な出来事のように表現されているが、そのわずか一月前には西部40余りの城が百済の大軍によって攻め落とされており、さらに8月に入ってからは百済と通謀した高句麗によって唐への朝貢の交通路にあたる党項(タンハン)城が落とされ、緊急事態と判断した善徳女王が唐へ使者を派遣したばかりだったのである。


トンマンと勾玉

2011年05月20日 | 善徳女王

引き続き善徳女王の即位式の場面から。
王冠を被ったトンマン。なんとも凛々しい姿である。

ところで、よく見てみると王冠の耳飾の先には緑色の宝石がぶら下がっている。これは明らかにヒスイ(翡翠)製の勾玉だ。

勾玉といえば縄文・弥生の時代より日本固有のものと思われてきた節があるが、朝鮮半島南部の遺跡からも勾玉は多数見つかっている。しかし、これは日本から伝播したものなのである。

Wikipediaに「ヒスイ製勾玉」の項目があり、以下のような記述がある。

朝鮮半島では5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用されている。

勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる事、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるもの が見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、倭から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなった。


7世紀東アジアの交流事情

2011年05月19日 | 善徳女王

だいぶ時間が開いてしまったが、ひさびさに時間の余裕ができたのでドラマ「善徳女王」のDVD見直しを再開した。
昨年末までに第50話(ミシル自害の回)まで見終わっていたので、第51話から。この回では、真平王が崩御し、トンマンがとうとう女王として即位する。

ところで、写真はその即位式の一場面。隣国から招待された使節団だが、その風貌・衣装から、いわゆる西域の国からやってきた一行と思われる。(カターンおじさんがいたら面白いのに)

所詮ドラマの話でしょ、と思う人もいるかもしれないが、この時代、重要な儀式の際に近隣諸国を招待するのはむしろ常識的なことだったわけである。

高句麗第26代嬰陽王の時代、隋との戦いに圧勝した際には京観(キョングァン)と呼ばれる記念塔を建立するが、ドラマ「ヨンゲソムン」では、その完成式典に訪れた近隣諸国の使者たちがこと細かに描写されている。この中には倭(日本)の使者も含まれている。(ヨンゲソムン第17話

少し時代が後になるが、8世紀になって日本で東大寺の大仏が建立され、その大仏開眼会(かいげんえ)に導師として招かれたのは天竺(インド)の僧だった。これが唐(中国)の僧ではなかったというのが重要なポイントで、敢えて唐を外した・・・つまり、唐の支配(干渉)からの完全独立を意味するものだったという話もある。

時代を遡って、聖徳太子の時代、飛鳥の地にはペルシャの影響がぷんぷん匂うのだが、これは長くなるのでまたにしよう。