朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

6世紀後半の新羅の領土

2011年06月27日 | 善徳女王

一般に高句麗・百済・新羅の三国時代の領土というと、新羅が半島の東南部分だけとなっている地図を目にすることが多いが、ドラマ「善徳女王」の時代背景にはそぐわない。

たとえば、ドラマでもたびたび登場する党項(タンハン)城のあった場所は半島の西側である。ここから海に出られたから隋・唐と交易することが可能だったわけだ。

たまたまWikipediaの英語版でSillaを調べてみたら576年当時の領土を示す地図が使われていた。576年は真興王(チヌン大帝)が亡くなった年であり、5世紀終わりごろの地図と比較すると真興王(チヌン大帝)がいかに領土を広げたのかよくわかる。

その功績の偉大さは高句麗で言えば広開土王に匹敵するものだと思うが、それを可能にしたのは、やはり伽耶を併合したことが大きかったのではないだろうか。伽耶の製鉄技術は当時の朝鮮半島内でも抜きん出ており、その高い技術が軍事的にも大きな役割を果たしたのではないかと思う。

 


GyaO!で「善徳女王」配信中

2011年06月26日 | 善徳女王

GyaO!でドラマ「善徳女王」が無料配信されている。

善徳女王

字幕版でノーカットだが、1話あたり数日間しか配信されないようなのでご興味ある方は早めに。
(現在配信されているのは第7話から第11話までだが、第7話は本日(6月26日)で配信終了)

これまでDVDで見てきたのはすべて日本語吹き替え版だったので、字幕版で俳優さん本来の声を聞くと、どうしても若干の違和感を覚える。

一番しっくりこないのは夏宗(ハジョン)。
日本語版では少々間の抜けたキャラクターをうまく醸し出していたが、本人の声は意外に格好良い。声が違うだけで役柄の印象も変わるようだ。

一方で、ミシルについては本人の声よりも日本語の声優さんの方が、より迫力ある印象。
声優という仕事はあまり表に出ないものだと思うが、ミシルの吹き替えに関してはそれだけで何らかの賞に値する素晴らしい仕事内容だと思う。
この場をお借りして賞賛と感謝の意を表したい。


「くだら」か「ペクチェ」かという話

2011年06月16日 | Weblog

参議院議員の「義家弘介」氏といえば、一般には(元?)ヤンキー先生としてなじみのある人物だが、その義家氏が先日の国会でこんな質問をしていたらしい。

「チャンチェシー」は誰? - 塚田一郎の「第一義」 - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース

義家氏は教科書問題に関して、「チャンチェーシー、ユワンシーカイと言われて誰のことか分かりますか?」と質問し、「新しい教科書の中には蒋介石(しょう かいせき)をチャンチェーシー、袁世凱(えんせいがい)をユワンシーカイと表記しているものがある。このような教科書の記述はどこを向いた誰のための教育なのか?」と問いただしました。

個人的にチャンチェーシーと言われただけではまったく見当もつかない。
おそらくは、外国の人名や地名をできるだけ現地の発声に近いものとして表記していこうという趣旨なのだと思うが、そこでまっさきに思い出されるのが「百済=ペクチェ」である。

すでに歴史の教科書ではあたり前のように百済を「ペクチェ」と表記するようになっている(らしい?)ということなのだが、個人的にはどうにもスッキリしない。

現地でどう発音しようが、一千年以上にもわたって日本国内では百済を「くだら」と呼んできた歴史的経緯があるのであって、それを突然ころっと変えてしまうというのはいかがなものだろう。
だいたい百済をペクチェと読むのは現在の朝鮮語の発音なのであって、1300年以上前の時代においてまったく同じように発声していたという保証はない。(ペクジェだとかパクチェだったかもしれないではないか)

百歩譲って国名の「百済」をペクチェと呼ぶことにしたとして、今後、百済観音や百済寺はどう呼ぶのか。日本国内には百済がつく地名もあることだし。
・・・とまあ、大いに疑問が残るわけだが、ここまでが一般的な話。

このブログでの表記については少し考え方が異なる。
右側のプロフィール欄に「このブログは基本的に「朱蒙」、「風の国」、「善徳女王」など韓国歴史ドラマを見たことのある人を念頭において書いています」と書いているとおりなので、基本的にはドラマ内で使われている地名・人名をカタカナで表記するようにしている。

だから金春秋(きんしゅんじゅう)はキムチュンチュとするし、百済は普通にペクチェと書くこともある。
あくまでもドラマありき、という前提なので。


「善徳女王」のあと 「太宗武烈王」編

2011年06月06日 | 善徳女王

善徳女王の後を継いだ真徳女王も654年に亡くなり、聖骨(ソンゴル)の王はここで途絶え、以降真骨(シンゴル)の王が新羅を統治していくことになる。

真徳女王に継いで即位したのが武烈王(太宗武烈王)、つまり金春秋(キムチュンチュ)である。
しかし、チュンチュが即位するまでにはひと悶着あったようだ。

真徳王が薨去すると、群臣は伊飡の閼川に政治を執るように願った。しかし、閼川は頑固に辞退して、〔次のように〕いった。

私は〔すでに〕老いこんでいます。〔そのうえ、〕人徳もなければ、業績もとくにとりたてていうほどのものがありません。現在人徳もあり、人望もきわめて高い人物は、春秋公をおいて外にはありません。〔彼こそ〕まさに世を救う英雄というべきでしょう。

かくして、〔群臣は春秋を〕奉じて王とした。春秋も三たび辞退したが、〔それでも群臣が願い出たので、〕やむをえず王位に即いた。

本当に人望があるなら最初から王に推されていたわけで、アルチョン(閼川)の件がわざわざ正史に刻まれているということは、チュンチュは実際にはそれほど人望がなかったか、あるいはあまりに露骨に唐に擦り寄る姿勢が、周囲の反感を買っていたのではないかという気がしないでもない。(「やむをえず」というのは、チュンチュというより群臣の側の心象を皮肉っているようにも思える)

いつの時代でも重要な国策をめぐる対立は内紛、反乱を引き起こしかねない。

唐の官服を着て、唐の元号を採用するということは、自ら唐の属国であることを宣言するようなものである。高句麗・百済と対抗するため唐と結託したければならなかった事情はあるにせよ、あまりにプライドがなさ過ぎるのではないか。そう考えた臣下も多かったのではないかと思うのだが、歴史的には結果として新羅が三国統一(三韓一統)を果たすわけだから、大きな結果を得るためには時として苦渋の選択をせざるを得ないというのもひとつの真実なのだろう。徹底して反唐を貫いた高句麗のヨンゲソムンが、自らの子供たちの反目をきっかけに自国の滅亡を目の当たりにすることになったのとは好対照である。


即位に続いて次のような記述がある。

夏4月、王の亡父を追封して、文興大王とし、王母を文貞太后とした。

父親を「亡父」として表記していながら、母親は単に「王母」としていることから、この時点ではチュンチュの母、つまりチョンミョンはまだ生きていたのではないかと思われる。ドラマの中でトンマンの代わりに殺されたのはあくまでも脚色ということ。