朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

砂宅智積とは・・・?

2012年08月23日 | 階伯(ケベク)

前の記事でコトバンクの沙宅紹明の項目を引用しておいたのだが、その中に大佐平の砂宅智積という人物名がある。字は異なるが砂宅もサテクであることに変わりは無い。

「日本書記」の本文を「沙宅」で検索した際には彼の名前はヒットしなかったのだが、それもそのはず。「智積」という名前だけで通用する超重要な人物だったのである。うっかり見逃すところだった。

まず百済側の史料だが、1948年に忠清南道扶余郡扶余邑で砂宅智積に関する石碑が発見されており、現在は国立扶餘博物館に展示されている。(砂宅智積碑

砂宅智積は百済末期に大佐平を歴任したということだが、その時期は義慈王(ウィジャ)の頃とされている。

さて、「日本書記」では、翹岐(キョギ)や岐味(キミ)の亡命に関する記事がある皇極天皇元年(642年)2月の記録に「智積」の記述がある。大佐平ということだから、砂宅智積と同一人物と考えて間違いないだろう。

百済の弔使(とぶらひ)の人(ともびと)等言はく、「去年(いにしとし)の十一月(しもつき)に、大佐平智積卒(みう)せぬ。

「卒せぬ」とは、「亡くなった」という意味である。
そして、1行おいてこう続くわけだ。

今年の正月(むつき)に、国の主(こきし)の母(おも)薨(みう)せぬ。又(また)弟王子(だいおうじ)、児翹岐(ぎょうき)及びその母妹(おもはらから)の女子四人(えはしとよたり)、内佐平(ないさへい)岐味(きみ)、高き名有る人四十余(よそたりあまり)、嶋(せま)に放たれぬ」といふ。

 

ところが、どういうわけか同年7月の条に死んだはずの智積が日本に現れる。

乙亥(22日)に、使人大佐平智積等に朝(みかど)饗(あへ)たまふ。乃ち健児(ちからひと)に命(ことおほ)せて、翹岐が前に相撲(すまひと)らしむ。智積等、宴畢(とよのあかりをは)りて退(まかりい)でて、翹岐が門(かど)を拝(をがみ)す

大宴会が終わって朝廷を退出し、その帰りがてら翹岐の家の門のところで敬礼していった、ということであるから翹岐との深い関係がうかがえるわけなのだが。

歴史研究家の小林恵子氏の説によれば、この智積=中臣鎌足であり、翹岐=中大兄皇子、つまり後の天智天皇ということになる。この二人がタッグを組んで時の権力者である蘇我一族を転覆させたのが乙巳の変(645年)ということになるらしい。

まあ世の中には、翹岐こそが鎌足であるとか、あるいは義慈王の息子で人質として日本に滞在していた豊璋こそが鎌足の正体だとかいろんな説があるし、「蹴鞠」というキーワードだけでキム・ユシンとキム・チュンチュの関係になぞらえる某大学教授もいるぐらいなので(あまりに短絡だ)、安易な判断は避けねばと思うが、それにしても、同じサテク一族と思われる沙宅紹明が鎌足の死後その碑文を作ったという事実は、何らかの関連をうかがわせるわけである。

この話は長くなるのでまた別の機会に。


「日本書記」におけるサテク家の人々

2012年08月22日 | 階伯(ケベク)

起死回生の策略でサテク一族を失脚させることに成功した武王とウィジャたち(第18話)。
ドラマではもうこの先サテク家の人々は登場しないのであろうか。

ところで、以前の記事で「サテク一族が百済において有力な貴族であったことは歴史的事実のようである」と書いたのだが、「日本書記」にもサテク(沙宅)家の一員だったと思われる人物の記録がいくつかある。

その中でも一番有名なのは、百済滅亡後、日本に亡命した沙宅紹明と思われるが、コトバンク(kotobank)の記述がわかりやすいので以下に転用しておく。

さたくしょうめい【沙宅紹明】
 
?‐673(天武2)
百済滅亡時に日本へ亡命したもと百済貴族。官位は佐平。沙宅は沙吒,紹明は昭明とも書く。百済の柰祇城主大佐平砂宅智積(ちしやく),大佐平砂宅千福らの近親か。渡来して天智朝の法官大輔(法官は式部省の前身)となり,671年(天智10)1月に大錦下の冠位を授けられた。聡明で文学に秀で,大友皇子の賓客となり,藤原鎌足が死ぬとその碑文を製したという。673年閏6月に死んで特に外小紫の冠位と本国の大佐平の官位を与えられた。・・・

鎌足の碑文を製作したというのがなにやら怪しい雰囲気ぷんぷんであるが・・・(鎌足の出自を百済と関連付ける説もある)

日本書記における記述は以下のとおり。

『日本書紀』巻二七天智天皇一〇年(671)正月是月◆是月。以大錦下授佐平余自信。沙宅紹明。〈法官大輔。〉

『日本書紀』巻二九天武天皇二年(六七三)閏六月庚寅《六》◆閏六月乙酉朔庚寅。大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智。時稱秀才於是。天皇驚之。降恩以贈外小紫位。重賜本國大佐平位。

百済における官職の最高位「大佐平」を授かったというぐらいだから、相当に出世した人物といえる。(日本に来て百済の官位を受けるというのもヘンな話だが)

 

そのほかの沙宅氏。

●沙宅己婁

ドラマ「薯童謡」(ソドンヨ)に登場するサテッキル(沙宅己樓)のことか?

『日本書紀』巻十九欽明天皇四年(五四三)
十二月◆十二月。百濟聖明王。復以前詔普示群臣曰。天皇詔勅如是。當復何如。上佐平沙宅己婁。中佐平木州麻那。下佐平木尹貴。徳率鼻利莫古。徳率東城道天。徳率木州昧淳。徳率國雖多。奈率燕比善那等。同議曰。臣等禀性愚闇。都無智略。詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事。國國旱岐等。倶謀同計。抗表述志。又河内直移那斯。麻都等猶住安羅。任那恐難建之。故亦并表乞移本處也。聖明王曰。群臣所議。甚稱寡人之心。

十二月に、百済の聖明王、復前の詔を以て、普く郡臣に示せて曰はく、「天皇の詔勅、是の如し。当復如何にせむ」といふ。上佐平沙宅己婁・・・(中略)・・・、同議りて曰はく、「臣等、稟性愚に闇くして、都て智略無し。任那を建てよと詔したまふ。早に勅を奉るべし。・・・(以下略)

 

●沙宅千福

『日本書紀』巻二六斉明天皇六年(六六〇)
十一月一日。爲將軍蘇定方等所捉百濟王以下。太子隆等諸王子十三人。大佐平沙宅千福國。弁成以下卅七人。并五十許人奉進朝堂。急引■向天子天子恩勅。見前放著。十九日。賜勞。廿四日。發自東京。

十一月一日に、将軍蘇定方等が為に捉ゐられたる百済の王より以下、太子隆等、諸の王子十三人、大佐平沙宅千福・国弁成より以下三十七人、あはせて五十許の人、朝堂に奉進る。急に引て天子にゆく。天子恩勅みて、見前にして放着したまふ。十九日に、賜労ふ。二十四日に、東京より発つ。

 

●沙宅孫登

『日本書紀』巻二七天智天皇一〇年(六七一)
十一月
唐國使人郭務■等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。

唐国の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登等千四百人、総合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知嶋に泊りて、相謂りて曰わく、今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人。驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預めやうやくに来朝る意を披き陳さしむ。

 

●沙宅萬首

『日本書紀』巻三〇持統五年(六九一)
十二月戊戌朔己亥。賜醫博士務大參徳自珍。咒禁博士木素丁武。沙宅萬首銀人廿両。

十二月の戊戌の朔己亥に、医博士務大参徳自珍・呪禁博士木素丁武・沙宅万首に、銀、人ごとに二十両賜ふ。

 

●沙宅萬福

『続日本紀』巻廿九神護景雲二年(七六八)
七月壬午《十一》◆壬午。武藏國入間郡人正六位上勳五等物部直廣成等六人賜姓入間宿祢。」授女孺无位沙宅萬福從五位下。」日向國獻白龜。
 


牡丹図 ケベク第20話

2012年08月20日 | 階伯(ケベク)

視察のため王に新羅行きを相談するウィジャたち。

フンス:この春、シルラで地震があったことは王様もご存知かと。被災した民に食料を与え、倒れた家を建て直すと約束致します。

善徳女王2年(633)2月、王都に地震があった。

しかし、ドラマ中で「昨年チルスクとソップムが反乱を起こしたように・・・」とのセリフがあることから、ウィジャたちがシルラを訪問したのはチルスクとソップムの乱(631年5月)の翌年、つまり632年ということになる(地震の前)。この辺り、相変わらずだが史実との整合性に欠ける。

 

●牡丹図

唐の皇帝から善徳女王の即位記念に贈られたとされる。
ドラマ内では独特な解釈がされていたが、「三国史記」における記述は以下のとおり。

前王の時代に、唐からもらった牡丹の花の図とその種とを徳曼にみせた。すると、得曼は、
(以下八字欠、文意不明)
といった。王は笑って、
おまえはどうして(二十二字欠、文意不明)
〔といった。徳曼は、〕
・・・・・・この花はたいへんあでやかであるのに、この図には蜂も蝶も描いていません。〔このことから〕この牡丹は、きっと香りのない花で〔あろうと思いま〕す。
〔と答えた。〕この種を植えると、はたして徳曼のいうとおりであった。その先のことを識る〔能力〕は、このようであった。

同じ話が「三国遺事」にもある。

唐の太宗が紅・紫・白の三色で描いた牡丹の絵と、その種子を三升送ってきたときのことである。(徳曼は)王の描いた花を見て「この花にはたぶん香りがないだろう」といい、その種子を庭に播いたところ、花が咲いてから落ちるまで、はたして香りがなかった。
(中略)
(王が在世していた)当時、臣下たちが王に、「どうして花と蛙の二つの出来事がおわかりでしたか」とうかがうと、王がいうには、「花を描きながら蝶がないことから、香りがないのがわかる。これは唐の王が私に配偶者がいないのを戯れたのである。」

 


ケベク第19話

2012年08月20日 | 階伯(ケベク)

ウィジャの立太子礼がとり行われる。

「三国史記」百済本紀
武王33年(632)春正月、嫡子の義慈を太子とした。

632年といえば、トンマンこと善徳女王が王位に就いた年でもある。
前王の真平王が亡くなったのは632年のやはり「正月」なので、ウィジャの立太子と善徳女王の即位は、ほぼ同時期ということになる。

(ソンファ姫が真平王の娘であるという前提ではあるが)叔母と甥が同時期に・・・というのは、単なる偶然にしては出来すぎのような気もするのだが・・・?

ちなみにこの時期の日本は、舒明天皇(629-641年)の治世。
この舒明天皇は不思議な人で、「日本書記」によれば、百済川のほとりに九重の塔を建てたり、百済宮、百済大寺を作れと命令したりなど百済づくしの天皇である。(ただし、ここに言う「百済」は国名のことではなく、日本国内にあった地名(現在の橿原市飯高町付近)とされる)
その最期も、百済宮で崩御し、宮の北で行われた殯(モガリ)に関しては、「是を百済の大殯と謂ふ」とわざわざ記述されているほどだ。

 

ドラマ後半で、ケベクは王命を受け、郡臣(クンジャン)として居列(コヨル)城に赴く。
城下の民は、もともとは伽耶(カヤ)の民だったということらしいが、現在は百済(ペクチェ)、そして万が一新羅(シルラ)に占拠されるようなことがあれば、彼らは新羅の民となる可能性もあったわけである。

食っていける土地さえあれば、ペクチェでもシルラでも関係ねえ!

農民がこう吐き捨てる場面があるが、実に象徴的である。
結局のところ、この時代に国が変わるということは、王朝の交代、為政者の交代を意味するものであって、国の基盤となる民が入れ替わるわけではないのだ。

 

新羅の西谷(ソゴク)城の城主は金欽純(キム・フムスン)。字幕にもあったとおり、彼はキム・ユシンの実の弟である。

 

 


善徳女王における外交政策

2012年08月18日 | 善徳女王

ドラマ「善徳女王」第58話

唐からきた使臣の侮辱発言に対し、善徳女王が家臣の前で語る内容。

 

善徳女王:交渉の原則のひとつは、脅しには冷静に対処し、それを逆手に取ることです。

もうひとつは、彼らの言うことに反論すること自体が、彼らの思うつぼということ。
相手の主導する内容で、論争してはなりません。

もうひとつは、疑問を持つこと。

ヨンチュン:疑問ですか。
チュンチュ:彼らが女王様の気分を、過剰に刺激したことですか?

善徳女王:外交において、必要ないことはひとことも言うものではありません。
なのに、家臣たちの前で私を侮辱し、笑いものにしました。

神国になにか大きな要求があるのです。
彼らの意図、まず、それを知らなくては。


京観 ケベク第17話

2012年08月15日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」第17話で、唐からやってきた使臣(長孫師)が武王に謁見する場面がある。

武王:このたびは見事な大仕事をしたとか?

長孫師:ああ、高句麗の京観(けいかん)を壊した一件ですか?
あれはまったく痛快でした。

武王:京観は、かつて高句麗が隋の攻撃を退け、勝利を収めた記念に作られた。
それをなぜ唐が壊すのだ。

長孫師:京観は隋の恥ですが、隋のときの民もいまは唐の民です。
わが唐は天下を統一し、これまでの過去を背負っていかねばならないのです。
私は決して京観など容認できません。
壊された京観を見て呆然としたであろう高句麗王の顔が目に浮かびます。

 

京観とは、以下の「三国史記」の記述にもあるとおりだが、隋の時代に高句麗が隋を打ち破った際に戦勝記念として造ったものである。(ドラマ「ヨンゲソムン」では石造りの塔として描写されていた)

この京観の存在は隋(ならびに後の唐)にとって屈辱的なものだったわけだが、その京観を壊すことは高句麗にとって屈辱的なことなのである。

「三国史記」高句麗本紀
栄留王14年(631)、唐朝は広州〔都督府〕司馬の長孫師を派遣して、隋の戦士の骸骨を収め埋めて祭り、当時〔高句麗が〕立てた京観(屍を積み、封土して戦勝を誇示したもの)をこわした。

 

ところで、これによって、ドラマの年代設定が明確になった。やはりカジャム城を攻撃したときは629年頃ということになるのだろう。(カジャム城攻撃は629年の話?

ドラマではこの直前にウィジャの子供が生まれたエピソードがあるのだが、「日本書記」によれば631年はウィジャの息子が人質として日本にやってきた年である。つまり、実際にはもっと早い時期に子を産んでいたということになる。

『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。

三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入りて質(むかはり)とす。

 


なでしこサッカーとピジェ(比才)

2012年08月02日 | 最近のニュースから

なでしこ、佐々木監督の「引き分け」指示、米国でも物議を醸す

ロンドン・オリンピックで男女共に予選通過を決めたサッカー。なでしこの実力は前評判どおりだが、苦戦を強いられると予想されていた男子チームまでが、強豪スペインを下し、その勢いのままに予選通過を決めてしまったのは想定外の驚きである。明日からの準々決勝がとても楽しみなわけだ。

一方で、2戦目で予選通過を決めたなでしこが、強豪国との直接対決および長時間に渡る移動を回避するため、3戦目で明らかに手抜きと見える戦術を採用したことが一部に問題視されている。程度は違えど、ブラジルとの直接対決を避けるためホンジュラス戦をドローに持ち込んだ男子チームにも同じことがいえよう。

ここで思い出されるのが、ドラマ「善徳女王」の第34話。風月主(プンウォルチェ)の座をめぐる武術大会の場面である。ムンノが出題したピジエ(比才)でユシン、ポジョン(宝宗)がそれぞれ勝ち点1を取っており、最終の武術大会で優勝した方が次代の風月主に決まるという状況であった。

準決勝に残ったのはトンマン派のユシン、アルチョン、そして問題児ピダム。一方ミシル派で残っていたのはポジョンであった。トンマン派としては、政治的な観点から、なんとしてもユシンに勝ちあがってもらい風月主の地位に就いてもらうというのが悲願でもあった。しかし、準決勝でのユシンとアルチョンは、お互い親友の間柄でもあるのに一切手を抜かない。まるで親の敵と戦っているかのような激闘を続けるのだ。最終的にユシンが勝ち残るが、この時点ですでにユシンは満身創痍の状態であった。

仮にアルチョンが勝ち残って優勝しても風月主の座には影響しないのだから、少しは力を抜いてユシンに勝たせればいいではないか。そう話す部下(郎徒)たちもいたわけだが、ユシンもアルチョンもそれを厳しく諫める。相手が誰であろうが、真剣に戦って勝ち残ってこそ風月主にふさわしい・・・そういう文化、共通の理解があるからである。それこそがファラン(花郎)なのだと。

ところが、こういったことをまったく理解していなかったのがピダムだった。準決勝でポジョンを破った彼は、決勝戦でユシンを勝たせるため、あからさまな手抜きをしてみせる。彼にしてみれば、風月主の座にユシンをつかせたいというトンマン王女の願いを手助けしようという、彼なりの大義があったわけなのだが。しかし、当然のことながら試合は八百長とみなされ、ピダムは失格して追放とされたわけである。

さて、ドラマとオリンピックの試合を単純比較してもどうかと思うのだが、まず個人的な見解として、なでしこ佐々木監督を非難する気はないし、ましてや個々の選手に対してどうのこうの責める気は毛頭ない。そもそもトーナメント方式の国際大会で戦略的に引き分け試合を狙うというのはごくあたり前に行われていることである。狙ってできるようになったということだけでも、日本チームがそれだけ成長した証とも言える。

(もっともバドミントンの試合で失格となった中国・韓国のように、あまりにあからさまな場合はやはり問題となるわけで、この辺の差異がどこにあるか、どこで線引きすべきものかはマイケル・サンデル教授の授業でぜひ扱ってもらいたい内容である)

しかし・・・それでもなお、やはりスッキリしないものがある。

「善徳女王」のピジェでは、すでにカラダがぼろぼろの状態のユシンが、チルスクの攻撃に10回耐え抜いて最終的に風月主の座を勝ち取る。ドラマの中とはいえ、メッタ討ちにされたユシンがそれでもなお繰り返し起き上がり、立ち上がり、チルスクに向かっていく場面は非常に印象的なものであった。本来政敵の側にいるポジョンまでが、最後には「立ち上がれ」とユシンを応援する。ここにはラグビーで言う「ノーサイド」のような、スポーツ本来の精神が具現されているのだ。そういったものに僕たちは感動する。

極めて理想的なことを言わせてもらえるなら、少なくとも金色のメダルを目指すチームである限り、トーナメントでどのチームにあたろうとも戦って勝つべきである。強豪国を避けるというのは、ハナから自らの弱さを認めることになりはしないか、自己否定ではないのか。どのような条件であれ、どのような相手であれ、戦い抜いて、勝ち抜いて最後に残る。それこそが王者であり金のメダルにふさわしいチームといえるのではないか。

打算的な戦略で勝ち残ってメダルを手にしたとしても、結局のところ、それはメダルの価値そのもの、ひいてはオリンピックという大会そのものの権威を貶めることになっていないだろうか。それが僕の懸念である。

もっとも、サッカーの試合に限って言えば、そもそも中二日というハードなスケジュールで試合を続けなければならないこと自体にムリがある。オリンピックという大会そのもののあり方に矛盾をはらんでいるのではないだろうか。主力温存だとか、競技場間の移動に気をかけなければならないような状況そのものが不幸であるともいえる。

選手が試合に勝つことだけに専念できる環境、それがあってこそスポーツ本来の精神が具現される大会となりえるのだと思う。理想論ではあるが。