ところで、ムンノ(文努)役の男性、どこかで見たことあるなあと思っていたら・・・ウテ(優台@朱蒙)さんじゃないすか。懐かしいなあ。
「朱蒙」ではどこか影のある薄幸な役回りをうまく演じていたが、今回は圧倒的にミシル派が多い中で数少ない王権擁護派、相変わらず渋い役どころである。
●そのほか気になった役者さんたち
オープニングを見ていると・・・げっ!ペグクまだ生きていたか
ミシルの弟ってピリュのソンヤンの部下にいたような・・・
神殿の女官はピグムソン巫女だよね?
マヤ夫人の産婆ってムドク?
(「その1」からの続き)
三十三年春正月、立王子無恤爲太子、委以軍國之事。秋八月、王命烏伊摩離、領兵二萬、西伐梁貊。滅其國。進兵襲取漢高句麗縣(縣屬玄菟郡)。
33年(西暦14年)正月 (ユリ王は)無恤(ムヒュル)王子を太子として立て、軍事国政を委ねた。
8月 ユリ王は烏伊(オイ)と摩離(マリ)に命じて2万の兵を率いさせ、西にある梁貊(ヤンメク)国を征伐させた。これにより梁貊(ヤンメク)は滅んだ。さらに兵を進め、漢に属していた高句麗県(玄菟(ヒョント)郡に属す県)を襲い奪い取った。
これによれば、ムヒュルが太子となった時点でも烏伊(オイ)と摩離(マリ)は健在で、高句麗の要職についていたことになる。つまり、彼らは朱蒙、ユリ、ムヒュルと3代に渡って仕えていたということだ。
梁貊(ヤンメク)という国の名前はドラマの中でもたびたび登場する。ムヒュルがまだプヨの黒影(フギョン)の一員であったとき、ヨジンの立太子令を祝う席にトジンらと潜入するが、その際に梁貊(ヤンメク)の使節団と偽っていた(ような気がする)。
三十七年夏四月、王子如津、溺水死。王哀慟。使人求屍不得。後沸流人祭須得之。以聞、遂以禮葬於王骨嶺、賜祭須金十斤、田十頃。秋七月、王幸豆谷。冬十月、薨於豆谷離宮。葬於豆谷東原。號爲琉璃明王。
37年(西暦18年)4月 如津(ヨジン)王子が川で溺れて死んだ。ユリ王は慟哭し、使いを出してその死体を捜させるが見つからない。のちに沸流(ピリュ)人が見つけて葬祭した。ユリ王はこれを聞いて王骨嶺において葬礼を行い、(沸流(ピリュ)人に)金十斤、田十頃を賜った。
7月 ルリ王は豆谷に行幸。
10月 豆谷離宮においてユリ王崩御、豆谷東原で葬儀を行った。号を瑠璃明王とする。
「風の国」では戦(いくさ)で負った傷が原因で如津(ヨジン)王子が亡くなっているが、実際には溺れ死んでいたということである。同じ年にユリ王も亡くなり、ムヒュルが王の座につくこととなる。ちなみにこのときムヒュル15歳。
五年春二月、王進軍於扶餘國南。其地多泥塗。王使擇平地爲營、解鞍休卒、無恐懼之態。扶餘王擧國出戰、欲掩其不備、策馬以前、陷濘不能進退。王於是揮怪由。怪由拔劍號吼撃之。萬軍披靡、不能支。直進執扶餘王斬頭。
5年(西暦22年)2月 ムヒュル(大武神王)はプヨの南に進軍する。その地は多くが泥沼だったので平地を選らんで屯営し、馬の鞍を解いて兵士を休ませた。恐れる様子はまったくなかった。プヨのテソ王も国をあげて出撃、不意打ちを食らわそうと馬を進めるが、泥にはまり動けなくなった。そこでムヒュルは怪由(クェユ)に命令を発する。怪由は剣を抜き咆哮しながらプヨ軍を攻撃した。プヨ軍は壊滅状態で立て直すことができない。直進してテソ王の首を獲った。
高句麗(朱蒙)とプヨ(テソ王)の悪縁もここまで。とうとうテソ王がムヒュルにより滅ぼされる。 ドラマで描写されるのはこの辺までだろうか。(現時点ではBS FUJIの放送があと残り2回)
ところで、ムヒュルその人については高句麗本紀に次のような記述がある。
大武神王、または大解朱留王ともいう。諱は無恤。琉璃王の第三子。母は松氏、多勿国王の松讓の娘。(在位18年-44年)
つまり無恤(ムヒュル)という一風変わった名前は実際のものだったということだ。注目すべきは、その母が松讓の娘ということで、つまりはムヒュルは朱蒙の孫であると同時に、沸流(ピリュ)の松讓(ソンヤン)大君長の孫でもあるということになる。(ドラマ「朱蒙」ではソンヤンがかなり高齢な設定なので朱蒙との歳の差を考えると違和感があるが。)
ムヒュルはピリュ族の血を引く王子でもあるわけだ。そうすると、そもそも「風の国」の中であれほどピリュ部族と仲違いする理由がよくわからない。
ドラマでは三男のムヒュルまでが先妻の子、ヨジン王子はピリュ系の後妻ミユ夫人の子ということになっていて、ミユ夫人、その弟のアンスンとペグクが組んでヨジン王子を推すピリュ派閥みたいな格好になっているが、史実上はトジョルもヘミョンもムヒュルもピリュの血を引く王子だったわけだ。
もしも「大武神王(ムヒュル)」のドラマが「朱蒙」の続編として製作されていたならば、両者に共通する登場人物がもっと多かったはずなのである。実際にはユリ王とテソ王ぐらいしか共通していない。えっ、ヨンタバル?それは役者さんの話ですがな。
そこで史実上明らかな大武神王の物語を明らかにしてみよう。
以下、漢文の箇所は基本的に『三国史記』高句麗本紀からの引用である。 少し戻ってユリ王の治世から。
十四年春正月、扶餘王帶素遣使來聘、請交質子。王憚扶餘強大、欲以太子都切爲質、都切恐不行。帶素恚之。冬十一月、帶素以兵五萬來侵。大雪。人多凍死、乃去。
14年(紀元前6年)正月 プヨのテソ王が使いをよこして人質を交換しようと言って来た。ユリ王はプヨが強大な国であるのを恐れ、(その当時)太子であった都切(トジョル)を人質として行かせようとしたが、都切が怖がって行かない。これに怒ったテソ王が、その年の11月に5万の兵で攻めてきたが、大雪のため多くの者が凍死、結局退却した。
都切(トジョル)はユリ王の長男である。「風の国」ではすでに死んだ後なので登場しないが、解明(ヘミョン)が亡くなったのち如津(ヨジン)王子が「どうしてコグリョの太子はみな死ぬ運命にあるのか」と嘆くところでその名前が出てくる。都切が死んだ理由は(ドラマでは)明らかにされていない。
二十二年冬十月、王遷都於國内、築尉那巖城。十二月、王田于質山陰、五日不返。大輔陜父諫曰:王新移都邑、民不安堵、宜孜孜焉、刑政之是恤、而不念此、馳騁田獵久而不返。若不改過自新。臣恐政荒民散、先王之業墜地。王聞之震怒。罷陜父職。俾司官園陜父憤去之南韓。
22年(西暦3年)10月 ユリ王は国内(クンネ)に遷都し、尉那巌城を築いた。
12月 ユリ王は狩猟に出て5日間も戻らなかった。大輔(テボ)の陜父が王を諫めて言うことには・・・
「王様は都を遷したばかりで、民(たみ)も不安に感じております。・・・(以下、小言が続く)・・・このような状態では先王(朱蒙)の偉業も失墜してしまうことでしょう。」
ユリ王はこれを聞いて激怒し、陜父をクビにしてしまった。陜父もこれには憤慨し、高句麗を離れ南韓に去ることとなった。
漢字で書くとわかりにくいが、陜父とはヒョッポのことである。ドラマ「朱蒙」では高句麗建国後の大輔(テボ:高句麗の最高官職)は、摩離(マリ)がその職についているが、実際は違ったらしい。オイ・マリ・ヒョッポのキャラクター(性格)はあくまでもドラマ上の設定であり、ヒョッポは馬鹿力の持ち主として描かれるが、実際はマリのようにリーダーシップのある人間だったのかもしれない。
「風の国」では初回から句鄒(クチュ)が大輔(テボ)の職にあるので、無理やりこじつければヒョッポが免職となった後を句鄒が継いだといえるかもしれないが、まあ、そこまで考えても仕方あるまい。ちなみに句鄒(クチュ)はユリ王の幼少時代からの親友であり、ユリが折れた剣を持って朱蒙のところへ向かったときに一緒にいた少年の一人である。三国史記では一緒にいたのは屋智・句鄒・都祖の3人となっているが、ドラマ「朱蒙」でユリの仲間といえばサンチョンとトゥボン。残念ながらクチュは含まれていなかった。
ところで、ヒョッポが南に向かったということは、やはり召西奴(ソソノ)一行と共に高句麗を去ったサヨンのところへ向かったのだろうか?いやいや、これもまたこじつけ。サヨンはドラマ上の設定で実在しない。
実は南に向かった後の陜父の足取りには、驚愕すべき事実が隠されているのである。それはまた次の機会に。
(続く)