朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ウテさんじゃないすか

2009年10月31日 | 善徳女王
「善徳女王」噂にたがわず面白いドラマである。第1回から強烈に引き込まれるストーリーと演出。さすがに朱蒙や女官チャングムなどのスタッフが集結して作ったたというだけのことはある。

ところで、ムンノ(文努)役の男性、どこかで見たことあるなあと思っていたら・・・ウテ(優台@朱蒙)さんじゃないすか。懐かしいなあ。

「朱蒙」ではどこか影のある薄幸な役回りをうまく演じていたが、今回は圧倒的にミシル派が多い中で数少ない王権擁護派、相変わらず渋い役どころである。


●そのほか気になった役者さんたち

オープニングを見ていると・・・げっ!ペグクまだ生きていたか

ミシルの弟ってピリュのソンヤンの部下にいたような・・・

神殿の女官はピグムソン巫女だよね?

マヤ夫人の産婆ってムドク?

ミシルという女性

2009年10月29日 | ヨンゲソムン
カテゴリー的には「善徳女王」に入れた方が良いのかもしれないが、ヨンゲソムン第13話でミシル(美室)に関する詳しい説明がされていたのでメモしておく。

ドラマ「ヨンゲソムン」ではミシル宮主(クンジュ)(新羅 王族級の女性)と紹介されている。遠まわしな表現が多いが、要はかなり”エロい”女性だったということらしい。

●ミシルが娘(養女)に語る場面

私は まずチヌン王に仕えた
そして その息子たちと
孫にまで仕えたのだ
実の弟とも関係を持った

相手が誰であろうと
王室の男に仕えるのは
神聖な義務だ

それが神国の道なのだ


●以下ナレーションより

ミシル・・・
驚くべき事実を打ち明けた
この女性は
その名が「花郎世紀」に
記されている
容姿は美しく
チヌン王とチンジ王――
さらにチンピョン王まで
3代の新羅王に仕えた
また花郎(ファラン)のサダハムなど――
当時の英雄たちと
関係を持ったとされる

ミシルは新羅王族の
子孫を繁栄させる――
”大元神統(テウォンシントン)”と呼ばれた
身分の女性であった
記録によるとミシルは
美しく聡明であったと
されている
また”房中術”にたけ
王室の男たちを虜にしたのだ
その影響力は強大で――
自分を愛さないとの理由から
チンジ王を廃位に追いやった
また花郎(ファラン)の原型である
源花(ウォンファ)を復活させ
自らが最高の地位に
就いたとされている

当時の新羅を
思いのまま操っていた人物だ


チヌン王:新羅第24代王 真興王
チンジ王:新羅第25代王 真智王 
チンピョン王:新羅第26代王 真平王

ところで、(例のごとくBS FUJIの放送はカットが多いので前後の脈絡がよくわからないのだが)「善徳女王」第1話で、王座についたチンジ王にミシルが子供の認知を求める場面がある。チンジ王には、けんもほろろに拒絶されるが、これなどは「実の父親が誰だかわかったものではない」ということらしい。

ヨンゲソムン 第11話

2009年10月26日 | ヨンゲソムン
最近は夕飯、もしくは遅い昼飯を食べながら録画しておいた淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)を観るのが日課となりつつある。

前回までの隋・高句麗戦は高句麗側の圧勝に終わった。(ドラマ内のナレーションを信じる限り、このドラマは歴史的事実を比較的忠実になぞっているような印象である。)

そして今回からはいよいよ青年期のヨンゲソムン登場というわけである。
ヨンゲソムンと一緒に花郎(ファラン)のリーダー的存在でもあるキム・ユシンの成長した姿も登場するが、一方で新羅第26代の真平王、さらにはミシル(美室)まで現れ、先週始まったばかりの「善徳女王」とかなりかぶっているのが興味深い。

考えてみれば淵蓋蘇文と善徳女王はほぼ同じ時代を生きた人であるわけでシンクロしている部分も多いのだろう。

ヨンポ・トジン・たかた

2009年10月25日 | お気楽ネタ
「エンタの神様」や「爆笑レッドカーペット」でジャパネットたかたの社長のモノマネで注目を浴びている芸人さんがいる。例の甲高い声がそっくりなうえに、話し方の抑揚やアクセントもかなり研究尽くしている様子で、かなり笑える。

以前何かの番組では、たかたの社長本人と一緒に出演したこともあるというぐらいだから、公認のモノマネ芸人ともいえるわけである。

彼の名は「ビューティーこくぶ」。

このブログを見ている人たちがみんな当たり前のように知っているかどうかわからないが、彼こそが、「朱蒙」でヨンポ、「風の国」でトジンの声優を務めた人なわけである。

ビューティーこくぶ公式プロフィール

ビューティーこくぶオフィシャルブログ

ヨンゲソムン メモ

2009年10月20日 | ヨンゲソムン
「朱蒙」や「風の国」と比べるとドラマの質感というか感触がまるで違うので、だんだん観るのがしんどくなってきた。何かというと大声をあげる演技が仰々しいというか、前時代的な印象である。登場人物も高齢の役者さんばかりだし?

ただし、歴史上の出来事や描写には興味深いところも多々あるので、引き続きメモしておこう。

第7話

●テ・ジュンサン

高句麗軍ウルチ・ムンドクの部下であるテ・ジュンサンは、彼のテ・ジョヨン(大祚榮)の父

●キム・ユシンの父と母に関する説明

ユシンの母、マンミョンは王族の直系であった
一方 父のソヒョンは伽耶族の王族
当時骨品(コルブム)制を導入していた新羅では
伽耶族は王族であっても屈辱的な差別を受けていた

第8話

●海軍出撃の際のゴンムの演説

「我々はかつて
海を渡って百済を討ち
日本を制圧し
中原の諸国と交易してきた」

日本を制圧?いつの時代の話だ?
と、疑問に思わざるを得ないが、これはおそらく広開土王碑の記述のことを指しているのだろう。もっとも、碑文については解釈が異なるようで、日本側の立場としては「高句麗が日本海を渡ったことはない」(中国の正史、『日本書紀』、『三国史記』などの記述)という説をとっておきたい。

ヨンゲソムン 第4話

2009年10月17日 | ヨンゲソムン
安市城の戦いを描いた第2話までから一転して、第3話から物語は淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の少年時代に移った。

ときは高句麗第26代、嬰陽王(ヨンヤン王)の治世。おそらく6世紀末の設定だろう。(嬰陽王は598年に靺鞨の部族を率いて遼西に進入した)

録画とはいえ毎日1時間のドラマを観続けるのはさすがにしんどい気がしてきたが、とりあえず続けられるところまで続けようか。

さて、第4話には注目すべき描写・キーワードがいくつかあった。詳細については今後検討していくこととして、とりあえずメモがわりに。

●武器製作所で働く西域から来た職人

「武器製作の職人を西域から連れてきました」

●蚩尤(チウ)天皇:倍達国第14代王、戦争の神

「蚩尤(チウ)天皇の時代から伝わる技術ですね」
「蚩尤(チウ)天皇は、鉄の武器を作る部隊を編成した
それが”九冶(クヤ)”だ」

●クァンゲト大王が征した高句麗の領土

クァンゲト大王=広開土大王 『太王四神記』でペ・ヨンジュンが演じた

「さらに百済と新羅・・・
海を越えた日本にまで勢力を伸ばした」

●ウルチ・ムンドク:乙支文徳

●キム・ユシン:金庾信

第4話にはすでに幼少期のキム・ユシンが登場する(「善徳女王」にも登場)

「風の国」最終回

2009年10月16日 | 風の国
とうとうBS FUJI放送の「風の国」も最終回を迎えた。

2007年夏に地上波で昼間放送されていた「朱蒙」をたまたま目にし、あっという間にその魅力になった。81話の「朱蒙」が終わってすぐに「風の国」が始まり、以来今日まで毎週欠かさずドラマを見つづけて来たわけだが、その間2年強。ずいぶん楽しませてもらった気がする。

それまで韓国ドラマにはまったく興味なかったが、ドラマを見ているうちに古代朝鮮半島の歴史にも興味が湧き、そしてそれが日本の古代史と無関係ではない・・・どころか関係大ありだということが徐々にわかり、歴史を視る目もずいぶん変わったように思う。

最終回は、とうとうプヨ城を陥落させ、朱蒙以来の因縁にケリをつけた格好にはなったが、先週のマロの死に続いてヨンも亡くなり、トジンも自ら命を絶つなど悲劇的結末に収束していった印象が強い。ラストシーンのムヒュルとホドン王子が手をつないで歩く後ろ姿が唯一救いだったろうか。(もっとも、史実上はそのホドン王子も王になることはなく、悲しい終末を迎えるのだが・・・)

まあ、朱蒙の最終回で肩透かしをくらったような感じよりは少しましだったかもしれない。(朱蒙の超人的ジャンプはギャグにしか思えなかった)

それにしても、今になって思うのは大神官のお告げはなんだったのだろうということ。

「王子様は、コグリョを滅亡に追い込む星のもと、お生まれになられました。兄弟を殺し、父と母を殺し、ついには、実の子供まで殺す定めだそうです。」

確かに、ムヒュルに関わったヘミョンとヨジンは亡くなり、ユリ王も王妃も亡くなり、息子であるホドン王子も将来自ら命を絶つ運命にある。しかし、高句麗は滅びるどころか、大武神王の時代に領域を拡張し初期の基盤を築くことになるわけだ。いったい、大神官が自らの命を犠牲にしてまで守らねばならなかった天のお告げとはなんぞや?・・・なんてことを考えてみても意味はないのかもしれないが。

ドラマを通じて感銘を受けたのは、ムヒュルがムヒュルであり決してチュモンではなかったということ。衣装や髪型など製作スタッフの協力・サポートはもちろんあるのだろうが、ソン・イルグク氏には最大の賛辞をお贈りしたい。

安市城の戦い

2009年10月09日 | ヨンゲソムン
いよいよ本日からBS朝日で淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)の放送が始まるのだが、実は先日「風の国」のDVDをレンタルしたついでに、淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)も第1巻を借りてきてすでに観てしまったのである。

ヨンゲソムンは朱蒙の81話を超える全100話であり、大きく前半の青年期(三国流転 立志編)と後半の壮年期(高句麗動乱 英雄編)に分かれる。ヨンゲソムンを演じる役者さんもそれぞれ違う。

ところが、第1巻はなぜか壮年期の物語から始まる。歴史上も有名な645年の安市城の攻防を描いたものである。

唐の高宗(李世民:イ・セミン)が30万もの兵を率いて高句麗征伐に向かうが、戦略的にも重要な拠点であった安市城だけはどうしても陥落できない。高句麗のいわゆる「山城」は、石を高く積んだ城壁で防御するもので、一旦その中に逃げ込まれると外側から侵攻するのは容易ではないのである。

そこでイ・セミンは、城の外側に土塁を積み上げ、「土手」と呼ばれる小山を延べ50万人を動員し60日かけて築きあげ、城内への侵入を図ろうとする。ところが、ヨンゲソムンの奇策によってこれも徒労に終わる。

しかし、このドラマには決定的な間違いがある。安市城の現場にヨンゲソムンはいなかったはずなのである。ヨンゲソムンは軍を送って支援はしているが、安市城を守りきった中心は城主の楊萬春(ヤンマンチュン)という将軍である。

ヤンマンチュンは、大祚榮(テジョヨン) にも出てくる人気キャラクターらしいが、大祚榮はまだ観ていないのでよく知らないのだ。

「風の国」を検証する その2

2009年10月06日 | 風の国

(「その1」からの続き)

三十三年春正月、立王子無恤爲太子、委以軍國之事。秋八月、王命烏伊摩離、領兵二萬、西伐梁貊。滅其國。進兵襲取漢高句麗縣(縣屬玄菟郡)。

33年(西暦14年)正月 (ユリ王は)無恤(ムヒュル)王子を太子として立て、軍事国政を委ねた。
8月 ユリ王は烏伊(オイ)と摩離(マリ)に命じて2万の兵を率いさせ、西にある梁貊(ヤンメク)国を征伐させた。これにより梁貊(ヤンメク)は滅んだ。さらに兵を進め、漢に属していた高句麗県(玄菟(ヒョント)郡に属す県)を襲い奪い取った。

これによれば、ムヒュルが太子となった時点でも烏伊(オイ)と摩離(マリ)は健在で、高句麗の要職についていたことになる。つまり、彼らは朱蒙、ユリ、ムヒュルと3代に渡って仕えていたということだ。

梁貊(ヤンメク)という国の名前はドラマの中でもたびたび登場する。ムヒュルがまだプヨの黒影(フギョン)の一員であったとき、ヨジンの立太子令を祝う席にトジンらと潜入するが、その際に梁貊(ヤンメク)の使節団と偽っていた(ような気がする)。

三十七年夏四月、王子如津、溺水死。王哀慟。使人求屍不得。後沸流人祭須得之。以聞、遂以禮葬於王骨嶺、賜祭須金十斤、田十頃。秋七月、王幸豆谷。冬十月、薨於豆谷離宮。葬於豆谷東原。號爲琉璃明王。

37年(西暦18年)4月 如津(ヨジン)王子が川で溺れて死んだ。ユリ王は慟哭し、使いを出してその死体を捜させるが見つからない。のちに沸流(ピリュ)人が見つけて葬祭した。ユリ王はこれを聞いて王骨嶺において葬礼を行い、(沸流(ピリュ)人に)金十斤、田十頃を賜った。
7月 ルリ王は豆谷に行幸。
10月 豆谷離宮においてユリ王崩御、豆谷東原で葬儀を行った。号を瑠璃明王とする。

「風の国」では戦(いくさ)で負った傷が原因で如津(ヨジン)王子が亡くなっているが、実際には溺れ死んでいたということである。同じ年にユリ王も亡くなり、ムヒュルが王の座につくこととなる。ちなみにこのときムヒュル15歳。

五年春二月、王進軍於扶餘國南。其地多泥塗。王使擇平地爲營、解鞍休卒、無恐懼之態。扶餘王擧國出戰、欲掩其不備、策馬以前、陷濘不能進退。王於是揮怪由。怪由拔劍號吼撃之。萬軍披靡、不能支。直進執扶餘王斬頭。

5年(西暦22年)2月 ムヒュル(大武神王)はプヨの南に進軍する。その地は多くが泥沼だったので平地を選らんで屯営し、馬の鞍を解いて兵士を休ませた。恐れる様子はまったくなかった。プヨのテソ王も国をあげて出撃、不意打ちを食らわそうと馬を進めるが、泥にはまり動けなくなった。そこでムヒュルは怪由(クェユ)に命令を発する。怪由は剣を抜き咆哮しながらプヨ軍を攻撃した。プヨ軍は壊滅状態で立て直すことができない。直進してテソ王の首を獲った。

高句麗(朱蒙)とプヨ(テソ王)の悪縁もここまで。とうとうテソ王がムヒュルにより滅ぼされる。 ドラマで描写されるのはこの辺までだろうか。(現時点ではBS FUJIの放送があと残り2回)

ところで、ムヒュルその人については高句麗本紀に次のような記述がある。

大武神王、または大解朱留王ともいう。諱は無恤。琉璃王の第三子。母は松氏、多勿国王の松讓の娘。(在位18年-44年)

つまり無恤(ムヒュル)という一風変わった名前は実際のものだったということだ。注目すべきは、その母が松讓の娘ということで、つまりはムヒュルは朱蒙の孫であると同時に、沸流(ピリュ)の松讓(ソンヤン)大君長の孫でもあるということになる。(ドラマ「朱蒙」ではソンヤンがかなり高齢な設定なので朱蒙との歳の差を考えると違和感があるが。)

ムヒュルはピリュ族の血を引く王子でもあるわけだ。そうすると、そもそも「風の国」の中であれほどピリュ部族と仲違いする理由がよくわからない。

ドラマでは三男のムヒュルまでが先妻の子、ヨジン王子はピリュ系の後妻ミユ夫人の子ということになっていて、ミユ夫人、その弟のアンスンとペグクが組んでヨジン王子を推すピリュ派閥みたいな格好になっているが、史実上はトジョルもヘミョンもムヒュルもピリュの血を引く王子だったわけだ。


「風の国」を検証する その1

2009年10月05日 | 風の国

もしも「大武神王(ムヒュル)」のドラマが「朱蒙」の続編として製作されていたならば、両者に共通する登場人物がもっと多かったはずなのである。実際にはユリ王とテソ王ぐらいしか共通していない。えっ、ヨンタバル?それは役者さんの話ですがな。

そこで史実上明らかな大武神王の物語を明らかにしてみよう。

以下、漢文の箇所は基本的に『三国史記』高句麗本紀からの引用である。 少し戻ってユリ王の治世から。

十四年春正月、扶餘王帶素遣使來聘、請交質子。王憚扶餘強大、欲以太子都切爲質、都切恐不行。帶素恚之。冬十一月、帶素以兵五萬來侵。大雪。人多凍死、乃去。

14年(紀元前6年)正月 プヨのテソ王が使いをよこして人質を交換しようと言って来た。ユリ王はプヨが強大な国であるのを恐れ、(その当時)太子であった都切(トジョル)を人質として行かせようとしたが、都切が怖がって行かない。これに怒ったテソ王が、その年の11月に5万の兵で攻めてきたが、大雪のため多くの者が凍死、結局退却した。

都切(トジョル)はユリ王の長男である。「風の国」ではすでに死んだ後なので登場しないが、解明(ヘミョン)が亡くなったのち如津(ヨジン)王子が「どうしてコグリョの太子はみな死ぬ運命にあるのか」と嘆くところでその名前が出てくる。都切が死んだ理由は(ドラマでは)明らかにされていない。

二十二年冬十月、王遷都於國内、築尉那巖城。十二月、王田于質山陰、五日不返。大輔陜父諫曰:王新移都邑、民不安堵、宜孜孜焉、刑政之是恤、而不念此、馳騁田獵久而不返。若不改過自新。臣恐政荒民散、先王之業墜地。王聞之震怒。罷陜父職。俾司官園陜父憤去之南韓。

22年(西暦3年)10月 ユリ王は国内(クンネ)に遷都し、尉那巌城を築いた。
12月 ユリ王は狩猟に出て5日間も戻らなかった。大輔(テボ)の陜父が王を諫めて言うことには・・・
「王様は都を遷したばかりで、民(たみ)も不安に感じております。・・・(以下、小言が続く)・・・このような状態では先王(朱蒙)の偉業も失墜してしまうことでしょう。」
ユリ王はこれを聞いて激怒し、陜父をクビにしてしまった。陜父もこれには憤慨し、高句麗を離れ南韓に去ることとなった。

漢字で書くとわかりにくいが、陜父とはヒョッポのことである。ドラマ「朱蒙」では高句麗建国後の大輔(テボ:高句麗の最高官職)は、摩離(マリ)がその職についているが、実際は違ったらしい。オイ・マリ・ヒョッポのキャラクター(性格)はあくまでもドラマ上の設定であり、ヒョッポは馬鹿力の持ち主として描かれるが、実際はマリのようにリーダーシップのある人間だったのかもしれない。

「風の国」では初回から句鄒(クチュ)が大輔(テボ)の職にあるので、無理やりこじつければヒョッポが免職となった後を句鄒が継いだといえるかもしれないが、まあ、そこまで考えても仕方あるまい。ちなみに句鄒(クチュ)はユリ王の幼少時代からの親友であり、ユリが折れた剣を持って朱蒙のところへ向かったときに一緒にいた少年の一人である。三国史記では一緒にいたのは屋智・句鄒・都祖の3人となっているが、ドラマ「朱蒙」でユリの仲間といえばサンチョンとトゥボン。残念ながらクチュは含まれていなかった。

ところで、ヒョッポが南に向かったということは、やはり召西奴(ソソノ)一行と共に高句麗を去ったサヨンのところへ向かったのだろうか?いやいや、これもまたこじつけ。サヨンはドラマ上の設定で実在しない。

実は南に向かった後の陜父の足取りには、驚愕すべき事実が隠されているのである。それはまた次の機会に。

(続く)