朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ウィジャ(義慈王)の息子たち その2

2012年10月04日 | 階伯(ケベク)

ウィジャ(義慈王)の息子6人のうち2人は人質として日本にいたということらしいのだが、そのほかに「塞上(さいじょう)」という名前の人物が日本書紀に現れる。この塞上に関してはどうも混乱があるようでわかりにくい。そして、豊(豊璋)の弟である勇(百済王善光)についても不可思議な点があるのだ。

「日本書紀」皇極天皇元年(642)2月の記事に、前年に亡くなった武王の弔問に訪れていた使いによる報告があるのだが、ここに塞上の名が現れる。

百済国の主(こきし)、臣(やつかれ)に謂(かた)りて言ひしく、『塞上(さいじょう)恒(つね)に作悪(あしきわざ)す。還使(かへるつかひ)いに付(さづ)けたまはむと請(まう)すとも、天朝(すめらみこと)許したまはじ』といひき

ここで、「百済国の主」とは義慈王(ウィジャ)のことなので、つまり塞上とは、豊璋と同様に日本に滞在していた人質と考えられるわけだが、岩波文庫の注釈によると上の文章は、

百済王の弟で日本に来ている塞上はいつも悪いことをしている。そこで(百済に帰すために)帰国する使に付けて帰して下さるようにと申し上げても、天皇はお許しになるまい

ということで、塞上は義慈王(ウィジャ)の弟とされている。

同年4月には、蘇我蝦夷が畝傍の自宅に翹岐(キョギ)たちを招待するのだが、この際に、
唯(ただ)し塞上をのみ喚(よ)ばず。

とある。つまり、明記されていないが、翹岐(キョギ)のほかに豊(豊璋)も同席していたのではないかと推測されるのだが、翹岐(キョギ)にとっては自分を追い出した義慈王(ウィジャ)の息子である。何事も起こらなかったのだろうか。

また、白雉元年(650)2月15日条には、
百済の君(せしむ)豊璋・其の弟(いろど)塞上・忠勝

とあるので、塞上は豊璋の弟のようにも思えるのだが、そこに列記されている忠勝について、
斉明6年(660)10月条では、
王子豊璋及び妻子と、其の叔父忠勝等とを送る

とあるので、忠勝が義慈王(ウィジャ)の兄弟ということになるはずなだのが・・・どうにもこの辺の関係がよくわからない。

一方で、のちに百済王の氏姓を賜与された勇(善光)であるが、Wikipediaの百済王氏の項目を見てみるとその生涯は(601年 - 687年)とされている。

しかし、義慈王(ウィジャ)の生年が599年なのだから、どう考えてもウィジャの息子とは考えられず、むしろ弟ではないかということになる・・・う~ん、どうもよくわからないな。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。