朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

軟禁されたチュンチュ

2012年10月11日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」第26話から27話にかけて。

百済の立太子問題に口を挟んだキム・チュンチュ(金春秋)はウィジャ(義慈王)の激昂をかい、しばらく宮殿内に軟禁されることになる。
その後、刺客(ムングン)によって救出され、逃げる途中、ケベクにつかまりそうになるのだが、なんとそこにはキム・ユシンが1万の軍を率いて迎えに来ていたのであった・・・

そもそもチュンチュが唐の使いの一人としてウィジャのところへ訪ねてきたところとか、あるいは以前、ウィジャが同盟を結ぶため新羅を訪問したところなどは、ほとんどドラマ上のフィクションであって、「三国史記」などにはこれに該当する記述はない。
しかし、チュンチュが軟禁されたことに関しては似たような事実がある。

善徳女王11年(642)、百済に大耶城を攻略され、その際に実の娘を亡くした金春秋は、復讐のため援軍を得ようとして高句麗に向かう。
しかし、時の高句麗王(宝蔵王)は出兵の条件として領土返還を求める。

 竹嶺はむかしわが国の領土であった。あなたがもし竹嶺の西北地域を返還するならば、出兵してもよろしい。
といった。春秋はこれに答えて、
 私は君命によって援軍を依頼しにきました。大王が〔わが国の〕国難を救う善隣友好の意志がなく、ただ武威でもって使者をおびやかし、土地を奪おうとなさるなら、私には死があるだけで、その他のことは考えていません。
といった。高蔵王はその言葉が〔不遜であるといって〕怒り、彼を別館に〔閉じ込めた〕。春秋はひそかに人を介して〔このことを〕本国の王に報告した。王は大将軍の金ユシンに命じて、決死の勇士一万人を率いて高句麗に赴かせた。ユシンの軍が漢江を越え、高句麗の南部国境に入ろうとした。高句麗王はこの報告を聞いて、春秋を釈放し、帰国させた。
〔この年、〕金ユシンを押梁州の軍主とした。

キム・ユシンが1万の軍を率いてという点はドラマの描写とまったく同じであるが、向かった先は高句麗であるし、なにより大耶城が攻略されたあとの出来事なわけである。

(工事中)


「ケベク」実在した人物たち ウンゴ

2012年10月05日 | 階伯(ケベク)

「ケベク」実在した人物たちシリーズの(おそらく)最終回。

ドラマ「ケベク」のキャストの中で、史実上実在した人物かどうかを判断する簡単な方法は、Wikipediaの該当のページを見ればとてもわかりやすい。名前に括弧書きで漢字名が付してある場合は、(基本的に)歴史書に記述があるということなのである。

しかし、ウンゴ(恩古)に関してだけは、どの史料を参照しているのかずっと不明だった。
「三国史記」百済本紀には王妃の名前まで記載されていないし(だから善花のような謎が出てくる)、「三国遺事」には百済に関する記述がとても少ないのだ。

ここへきてようやく判明したのだが、なんとその名は「日本書記」に記されていたのであった。

斉明天皇6年(660)10月条の記事中に、百済の滅亡時の記録がある。

百済の王(こきし)義慈、其の妻(め)恩古(おんこ)、其の子隆(りう)等、其の臣(まつへきみ)佐平千福・国弁成・孫登等、凡(すべ)て五十余(いそたりあまり)、秋七月十三日に、蘇将軍の為に捉(かす)ゐられて、唐国(もろこしのくに)に送去(おく)らる。

しかし、ウィジャとウンゴの子が隆とは・・・
ますますわけがわからないではないか。


ウィジャ(義慈王)の息子たち その2

2012年10月04日 | 階伯(ケベク)

ウィジャ(義慈王)の息子6人のうち2人は人質として日本にいたということらしいのだが、そのほかに「塞上(さいじょう)」という名前の人物が日本書紀に現れる。この塞上に関してはどうも混乱があるようでわかりにくい。そして、豊(豊璋)の弟である勇(百済王善光)についても不可思議な点があるのだ。

「日本書紀」皇極天皇元年(642)2月の記事に、前年に亡くなった武王の弔問に訪れていた使いによる報告があるのだが、ここに塞上の名が現れる。

百済国の主(こきし)、臣(やつかれ)に謂(かた)りて言ひしく、『塞上(さいじょう)恒(つね)に作悪(あしきわざ)す。還使(かへるつかひ)いに付(さづ)けたまはむと請(まう)すとも、天朝(すめらみこと)許したまはじ』といひき

ここで、「百済国の主」とは義慈王(ウィジャ)のことなので、つまり塞上とは、豊璋と同様に日本に滞在していた人質と考えられるわけだが、岩波文庫の注釈によると上の文章は、

百済王の弟で日本に来ている塞上はいつも悪いことをしている。そこで(百済に帰すために)帰国する使に付けて帰して下さるようにと申し上げても、天皇はお許しになるまい

ということで、塞上は義慈王(ウィジャ)の弟とされている。

同年4月には、蘇我蝦夷が畝傍の自宅に翹岐(キョギ)たちを招待するのだが、この際に、
唯(ただ)し塞上をのみ喚(よ)ばず。

とある。つまり、明記されていないが、翹岐(キョギ)のほかに豊(豊璋)も同席していたのではないかと推測されるのだが、翹岐(キョギ)にとっては自分を追い出した義慈王(ウィジャ)の息子である。何事も起こらなかったのだろうか。

また、白雉元年(650)2月15日条には、
百済の君(せしむ)豊璋・其の弟(いろど)塞上・忠勝

とあるので、塞上は豊璋の弟のようにも思えるのだが、そこに列記されている忠勝について、
斉明6年(660)10月条では、
王子豊璋及び妻子と、其の叔父忠勝等とを送る

とあるので、忠勝が義慈王(ウィジャ)の兄弟ということになるはずなだのが・・・どうにもこの辺の関係がよくわからない。

一方で、のちに百済王の氏姓を賜与された勇(善光)であるが、Wikipediaの百済王氏の項目を見てみるとその生涯は(601年 - 687年)とされている。

しかし、義慈王(ウィジャ)の生年が599年なのだから、どう考えてもウィジャの息子とは考えられず、むしろ弟ではないかということになる・・・う~ん、どうもよくわからないな。


ウィジャ(義慈王)の息子たち その1

2012年10月03日 | 階伯(ケベク)

ドラマ「ケベク」第25話から26話にかけて顕在化する太子擁立の動き。ヨン王妃の息子である(テ)と、木妃(ウンゴ)の息子である(ヒョ)との対立である。

Wikipediaによれば、義慈王には6人の王子がいたとされる。
孝、泰、隆、演、豊(豊璋)、勇(百済王善光)の6人の王子の名が確認できるほか、庶子41人がいた。

庶子41人というところが好色漢のウィジャらしいところだが(←それはドラマの設定である)、まあ、当時はそれぐらい普通だったのだろう。しかしながら、史実はかなり複雑で混乱が見られる。

「三国史記」百済本紀によれば、義慈王4年(644)の記録として、
王子のを太子とし、大赦した。

ということで、泰でも孝でもない(ユン)が太子になったとある。ドラマの中では、先だって唐へ留学していた王子が隆だとされているが、隆は「王の実の子ではない(直系ではない)」ということらしい。この点は史実との関係がよくわからない。

一方で、義慈王20年(660)の記録にはこのようにある。(唐軍に攻め込まれ、百済滅亡間近の記述)
〔王は〕太子のとともに、北方の辺境の村に逃げた。〔蘇〕定方はその城を囲んだ。王の次男のは自立して王となり、多くの人々を率いて〔王城を〕固守した。太子の子の文思(ぶんし)が、王子のに、
 王と太子とが〔王城を〕を出たのに、叔父〔の泰〕が、かってに王となった。もし、唐軍が〔王城の周囲を〕といて退却したならば、私たちはどうして無事でいられましょうか。
といい、ついに近臣を率いて、〔城壁に〕縄をおろし、それにすがって〔城を〕出た。人々も皆これに従ったので、泰は〔これを〕止めることができなかった。〔蘇〕定方は、士官に命じ、ひめがきを乗りこえて、唐の軍旗を立てさせた。〔王子の〕泰は困窮して、城門を開き、命ごいをした。そこで、王および太子の孝は諸城とともにすべて〔唐軍に〕降服した。〔蘇〕定方は、王および太子の孝、王子の泰・隆・演および大臣・将軍八十八人、百姓一万二千八百七人を〔唐の〕都に送った。

というわけで、百済滅亡の時点では、太子が孝、そして泰・隆・演が王子として本国にいたということになる。

一方で、こと豊璋と(善光、禅広)は人質として日本に滞在していたのである(ウィジャが即位する前から)。

『日本書紀』巻二三舒明天皇三年(六三一)三月庚申朔◆三月庚申朔。百濟王義慈入王子豐章爲質。

三月の庚申(かのえさる)の朔(ついたちのひ)に、百済の王(こきし)義慈(ぎじ)、王子(せしむ)豊章(ほうしょう)を入りて質(むかはり)とす。

豊璋は、のち百済復興のため、中大兄皇子に送られて本国に戻るが、白村江の戦い(663年)で倭国・百済連合軍が大敗すると高句麗へ逃亡し、その後高句麗の滅亡とともに唐に送られ流刑にされたとも言われている。

一方、善光はそのまま日本に残り百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜与され、貴族として日本に定着した。そのひ孫の敬福はのちに陸奥の国司に任じられ、陸奥国にて黄金を産出し、東大寺大仏の建立に大いに貢献したのである。

 (続く)