朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

再思の陰謀?

2010年09月26日 | 朱蒙

急遽、別ネタが間に入ってしまったが、改めて高句麗第6代王の太祖大王について。


もう一度、太祖大王に関する『三国史記』の記述を見てみよう。

瑠璃王の子の古鄒加(こすうか)の再思(さいし)の子

再思の子

再思・・・ ええっ?

えええええっ!!!

漢字で書いてあるとついつい見逃してしまうのだが、再思とはすなわちチェサのことである!

朱蒙が毛屯谷についたとき、三人にあった。そのうちの一人は麻衣を着ており、一人は僧衣を着、一人は水藻の衣服を着ていた。朱蒙が、
  あなたたちは何処の人で、なんという姓で、なんという名ですか。
と問うた。麻衣の人は、「再思(さいし)といいます」、僧衣の人は「武骨(ぶこつ)といいます」、水藻の衣服の人は、「黙居(もくきょ)といいます」と答えたが、姓を言わなかった。
(東洋文庫『三国史記』より)

※毛屯谷:ドラマではモドゥンコクと呼ばれていた


再思→チェサ、武骨→ムゴル、黙居→ムッコなのだ。

たまたま同じ名前の人がいたということか?
しかし、ムヒュルの時代にもオイ・マリが武将として活躍していた(詳しくはコチラ参照)ことを思えば、同じく朱蒙の家臣であったチェサの存在をユリやムヒュルが知らぬはずはない。

だが、そうすると『三国史記』の記述は、チェサ(再思)がユリ王の子だと言っていることになる。そして、そのチェサ(再思)の子が、第6代の太祖大王だということだ。本当だろうか。何かおかしくないか?

・『三国史記』瑠璃明王(ユリ王)の条項に、トジョル(都切)、ヘミョン(解明)、ムヒュル(無恤)、ヨジン(如津)の名前は現れるが、チェサ(再思)の文字は何処にも見られない。

・東明聖王(朱蒙)の条項以外で、チェサ(再思)の名が現れるのは、上記の太祖大王の紹介のところだけである。

・その紹介で、単に「瑠璃王の子」ではなく、わざわざ官職名までもつけているのは異例である。(実は、同様な例が第15代美川王のときにもある。面白いことに、美川王の先代も家臣の諫言を聞き入れない身勝手な王だった。) 

・そして、慕本王と太祖大王の間には、何らかの断絶があるように感じられる。

以上から推測すると、例えば、何がしかの「政変」があったのではないか。それはまるでミシルが王権を奪い取ろうと画策したかのように(こちらはドラマ上の話だが)。

ここからはまったくの想像である。

朱蒙の家臣として高句麗の要職におさまったチェサは、ミシルと同様に上昇志向の強い人物だったのである。一貴族として、自らが王になることは叶わなかったが、自分の息子をなんとか王位につけようと、あらゆる勢力を自分の味方につけ、その時が来るのを虎視眈々と伺っていたのだ。(ヨン・チェリョンを思い出して欲しい。あるいはペグクの反乱のようなものが実際にあったと想像してみればわかりやすい)

たまたま、王としてはあまりに不甲斐ない慕本王を、(自らの手ではないと思うが)殺害し、朱蒙ーユリームヒュルと続いてきた一族を断絶させた。そのうえで、自らの息子を王位につけたのである。

しかし、高句麗には天孫思想がある。王権は天から授かるものであり、奪い去るものではない。そこで、記録上、チェサがユリの子であるように無理やりねじ込めたのではないだろうか。

実際には新しい王朝の始まりと言って良いかもしれない。だからこそ、その初代が太祖大王であり、以降、次大王、新大王と続くのだ。(いずれも再思(チェサ)の息子である)


外交問題 ケース・スタディ

2010年09月25日 | 朱蒙
「朱蒙」第41話より クムワ王テソの会話。

漢が長安へ人質を送れと要求してきたと、そう聞いた。事実なのか?

はい。

いかに摂政とて、かような重大事は、まず私に相談すべきであろう。

よく考えたうえで、申し上げるつもりでした。

それで、よく考えたのか。

はい。

どうするつもりだ。

人質を出すことにします。

お前には、自尊心がないのか。

自尊心ならば、むろん、私にとてあります。

ならば、なぜ、人質など送るのだ。それは、プヨが、漢の属国であると、自ら認めることだぞ。

王様。自尊心にこだわっているときではありません。
漢の軍はいま、先の戦の報復に出る機会を、虎視眈々と伺っているのです。
私は戦を避けるために、政略結婚さえも受け入れました。
もし、人質一人で数千、数万の命が救われるのなら、ためらう理由はありませぬ。
王様。自尊心で戦が防げるでしょうか。
形のない、曖昧なものより、私は実利を取ります。

戦を避けるためにお前がひとつ何かを渡せば、漢はきっと二つ目を要求してくる。
そのときも、お前は平和を口実にまた引き下がるだろう。一歩、また一歩。
そして気がつけば、もはや引くに引けぬ、断崖に立たされているのだ。
最後は、いったい何を渡す?
プヨをよこせと言われたら、従うのか。
命をよこせと言われたら、差し出すのか?
実利という甘い言葉の影に潜む刃は、テソ、お前の、その目にはなぜ見えない?

「風の国」のあと 「高句麗初期の陰謀?」編

2010年09月24日 | 風の国
昼間たまたまテレビをつけてみたら・・・あれ?朱蒙やってるじゃん。
BSで再放送をやっているのは知っていたが、地上波(テレビ東京)でも放送していたとは。

本日(9月24日)観たのは第46話。チェサ、ムゴル、ムッコの3人を家臣に招き入れるエピソードの回である。

ちょうど良いタイミングなので、以下のネタを続けることにしよう。

●第6代 太祖大王の出生の秘密?

問題児であった慕本王のあとを継いだのが太祖大王である。
『三国史記』によれば、「瑠璃王の子の古鄒加(こすうか)の再思(さいし)の子」であり、「母の大后は扶餘(ふよ)人である」とされている。

注:古鄒加(こすうか)とは、高句麗初期の官職名。扶餘はもちろんプヨのことである。

つまり、ユリ王にはトジョル、ヘミョン、ムヒュル、ヨジンのほかにさらに子供がいて、その子の息子(早い話がユリの孫)が太祖大王だということだ。

しかし、この太祖大王に関してはどうも謎が多い。

まず、その在位期間。なんと93年である。
『三国史記』によれば7歳で王位に就いたということだから、次代に王位を譲ったのがちょうど100歳のとき。亡くなったのではなく譲ったということだから、その後も何年か生きていたはずなのである。ありえないとも言い切れないが、当時としてはあまりに長生きではないか。(まるで日本書紀の初期天皇を彷彿させる長寿である)

そして、その名前だ。
祖先の「祖」が使われているという点、そして単に王ではなく「大王」とされているところは何か妙ではないか。さらに、そのあとを継ぐ王の名前が、次大王(第7代)、新大王(第8代)とまるでシリーズものみたいになっているのはウルトラ兄弟みたいだぞ。

ここでもう一度、先代の慕本王を思い出してみよう。
彼は残忍な王として描かれているが、歴史の鉄則から見るなら、それは次の王を正当化する目的があったと考えることもできるのだ。(歴史とは、常に勝ち残ったものにより上書きされる蓄積である)
つまり、正当化しなければならないナニカがあったのではないか?

実は同じようなことがいくつかの歴史書でも見られる。

『日本書紀』の記述によれば、第25代天皇である武烈天皇(在位498-507年)は、実に暴虐・残忍な性格だった。その行いは文章に表わすのもためらうほどだが、一例を挙げれば、「妊婦の腹を割いて胎児を見る、人の頭髪を抜いて梢に登らせ、樹を切り倒して落として殺す、などのことをして楽しんだ」(小学館「日本書紀 上」)のだと言う。

武烈天皇のあとを継いだのが、その名も継体天皇(第26代)。
第15代応神天皇5世の子孫ということだから、かなり他人のような気もする。実際に先代とは断絶があって、継体天皇から新しい王朝が始まったのだとする説を唱える人もいるくらいで、現皇室との血縁関係が確認できる最古の天皇なのである。

戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
(Wikipediaより)

同じようなことが慕本王と太祖大王との間にも言えるかもしれない。
そう思ってもう一度、太祖大王の素性をよく読んでみると・・・

あれっ?

あれれ?

こっ・・・・この名前は・・・・

(期待を持たせつつ、次回に続く)


「風の国」のあと 「閔中王・慕本王」編

2010年09月15日 | 風の国
●第4代 閔中王(びんちゅうおう)

ムヒュルこと大武神王(高句麗第3代王)のあとを継いだのは、ホドン王子ではなく閔中王。『三国史記』では大武神王のとなっている。ということは、トジョル、ヘミョンやヨジンの他にも兄弟がいたということか。
一方、『三国遺事』の王暦では、大武神王のだとされている。果たしてどちらが正しいのか。この辺は判断しづらい・・・というか判断できるわけがないのである。

閔中王の諱(いみな)は解色朱で、これはヘモス(解慕漱)の一族、つまり解氏であることを示しているとも考えられるわけだ。

閔中王の在位は4年ほど。さほど目立つ功績はない。

●第5代 慕本王(ぼほんおう)

閔中王の薨去(こうきょ)に伴い、あとを継いで即位したのが、慕本王である。
『三国史記』では、大武神王の嫡子、『三国遺事』では閔中王の兄とされているが、いずれの場合もムヒュルの子であることには間違いない。しかし、『三国史記』の記述に従う限り、彼はホドンではないのである。

朱蒙、ユリ、ムヒュルに続く4世代目の王にあたるわけだが、実はこの慕本王が非常に残念な王なのである。つまり問題児だった。

『三国史記』の記述を拾ってみると。

性格が荒々しく、道理にそむくことが多く、国政にはげまなかった。
座るときには必ず人の上に座り、寝るときには人を枕にした。
その人がもし動揺すれば、容赦なく殺した。
家臣で諫言するものがあれば、弓でこれを射殺した。
(以上、東洋文庫版『三国史記』より)

そんなわけで、結局、家臣(王の側近)に殺されてしまうのである。

慕本王の在位も約5年と短い。

「風の国」のあと 「ホドン王子」編

2010年09月13日 | 風の国
ドラマ「風の国」の最後は、ムヒュル(大武神王)とその息子ホドン(好童)が手をつなぎ川辺で立ちつくす後姿のシーンで終了する。

終始、物悲しいトーンで貫かれたドラマだったが、最後は未来へのかすかな期待を感じさせつつ、父と息子の微笑ましいツーショットで締めくくられたわけだ。

しかし、史実上、ホドン王子は決して王になることはなく、彼もまた悲しい最期を迎えることになる。

ホドン王子と楽浪のお姫様との悲しい物語は、東アジア版「ロミオとジュリエット」として韓国内では有名な話のようである。

好童王子(호동왕자)説話 

この物語をベースにして、昨年(2009年)には「王女自鳴鼓(チャミョンゴ)」というドラマも製作されたが、こちらはあまりパッとしなかったようである。

『三国史記』では、ホドン王子は剣に伏して自殺したとされている。

魅惑の八角形 「斉明天皇陵」

2010年09月12日 | 善徳女王
奈良県明日香村越(こし)の牽牛子塚(けんごしづか)古墳が、調査の結果「斉明天皇陵」のものとほぼ確定されたとのことで、話題になっている。

斉明陵は確定的 - 天皇家示す八角形【明日香・牽牛子塚古墳】


斉明天皇といえば、大化の改新で重要な役割を担った中大兄皇子(天智天皇)の母。そして、のちに日本の礎を築き上げた天武天皇の母でもある。

興味深いのはその墳丘の形。
ニュースなどによれば、「天皇陵に特有の八角形を示す墳丘」とされている。

ところで、写真は「善徳女王」第2話から、真平王の妃であるマヤ夫人が今まさに双子の次女(トンマン)を産もうとしている場面。
この場所は神殿である。

ドラマとはいえ、ある程度の時代考証はされているはず。神殿の中心が八角形の構造であるというのは何やら象徴的である。

朝鮮半島初の女帝であった善徳女王の在位は632-647年。
そして、斉明天皇(在位655-661年)が重祚する前、皇極天皇であった際の在位は642-645年で、善徳女王とほぼ同時期なのである。