朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ピダムの乱 (続き)

2011年03月10日 | 善徳女王

だいぶ間があいてしまったので、改めて。
『三国史記』 「列伝第一 金庾信 上」より。

〔善徳王〕16年丁未(647)は、善徳王の末年で、真徳王の元年である。〔この年に、〕大臣の毗曇(ひどん)と廉宗(れんそう)が、女王ではよく国を治めることができないといって、兵を挙げて、〔善徳王を〕廃位しようとした。〔善徳〕王は、自ら王室内でこれをふせぎ、毗曇たちは明活城(慶北慶州市普門里)に屯(たむろ)し、王の軍隊は月城(慶州市仁旺洞)に軍営をおいた。十日間の攻防でも、攻めおとすことができなかった。丙夜(夜中の12時)に、大星が月城に落ちた。毗曇らが兵士に、

 私は、星が落ちたところには、必ず流血〔の惨事〕があると聞いている。このことは、きっと女王敗北の前兆であろう。

といった。兵士たちは大声で叫び、その声は地を振わせた。大王はこれを聞いて恐れおののき、なすすべを知らなかった。庾信は王に会って、〔次のように〕いった。

 吉兆や凶兆は、きまっているものではなく、それは人が呼びよせるものです。だから、

(中略)

かくして、〔庾信〕は、すべての将兵を督励し、奮って賊軍を襲撃した。毗曇らは敗走したので、これを追って斬り殺し、九族を滅ぼした。

歴史的には、毗曇の乱(ピダムの乱)の渦中に善徳女王は亡くなるのだが、その死因は明らかではない*。しかし、毗曇は、次代の真徳女王が在位したのちに誅殺されているので、少なくとも善徳女王の面前 で毗曇が亡くなるというのは、やはりドラマの演出なのである。(別にドラマの内容にケチをつけているわけではない)

(*もっとも、『三国史記』636年3月の記録に「王が病にかかり、医術や祈祷も効果がなかった」とあり、その後、回復したとも、治ったとも特に書いていないので、善徳女王の晩期はやはり病に冒されたままだったのかもしれない)

朝鮮半島初の女帝として君臨した善徳女王だったが、晩年には高句麗や百済に頻繁に国境を侵され、上大等に任命したばかりの直属の部下(ピダム)に裏切られるという悲しい結末を迎えることになったわけだ。