朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

高来神社と高麗神社

2009年09月15日 | 高麗若光

神奈川県中郡大磯町にある高来神社と埼玉県日高市にある高麗神社は、いずれも高麗王若光に縁の深い神社であるが、高麗神社はともかくとして、高来神社側では公式に高句麗や若光との関連を認めていない節がある。

しかし、この2つの神社を結びつける興味深い事実がある。

★Wikipediaによる高麗神社の所在地

北緯35度53分54.9秒
東経139度19分22.1秒

★Google Earthで測定した高来神社の所在地(拝殿)

北緯35度19分19.1秒
東経139度19分28.8秒

おわかりだろうか。この2つの神社は、ほぼ南北の関係に位置するということである。「ほぼ」と言ったが、この程度の差はわずかなものであり、奇跡的な位置関係と言っても良い。 (その誤差は、60キロ以上離れている2点間において百数十メートル程度。)

わかる人にはわかるはずだが、これは偶然ではありえない。

(図はおおよその位置をしるしたもので多少誤差があります)

ところで、若光が渡来したときの日本書紀の記録では、その名が玄武若光となっていた。玄武とは、高松塚古墳の壁画などでも有名な四神のうち北の方位を守る神である。これもまた何か象徴的に思える。


朱蒙の子孫が日本に実在する?

2009年09月14日 | 高麗若光
高麗王若光の死後、その直系子孫は代々高麗神社の宮司を務めることになったらしいのだが、現在60代目にあたる宮司さんも若光の直系ということだそうである。この間およそ1300年。相当な名家であることは間違いない。

ところで、若光は高句麗の王族の一人という情報しか伝えられていないが、もしかしたら高句麗を建国した朱蒙(チュモン)や大武神王(ムヒュル)、あるいは広開土王の血をひく子孫と考えられなくもない。

もしこれが事実なら、朱蒙の子孫が現代の日本に実在するということになるわけだ。

「朱蒙」や「風の国」といったドラマは、「所詮お隣の国の物語」という印象を持つ人も多いのではないかと思う。しかし、実はどこかで日本の歴史につながっている。学校の教科書では語られない、意外な事実がいくつもある。

このサイトの目的はそれを明らかにすることでもある。

高麗神社(埼玉県日高市)

2009年09月12日 | 高麗若光
高麗神社(こまじんじゃ)
所在地 埼玉県日高市大字新堀

高麗神社は、高句麗国(こうくりこく)の王族高麗王若光(こまこきしじゃっこう)を祀(まつ)る社である。高句麗人は中国大陸の松花江(しょうかこう)流域に住んだ騎馬民族で、朝鮮半島に進出して中国大陸東北部から朝鮮半島の北部を領有し、約700年間君臨していた。その後、唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍の攻撃にあい668年に滅亡した。この時の乱を逃れた高句麗国の貴族や僧侶などが多数日本に渡り、主に東国に住んだが、霊亀(れいき)2年(716)そのうちの1799人が武蔵国にうつされ、新しく高麗郡が設置された。
高麗王若光は、高麗郡の郡司に任命され、武蔵野の開発に尽くし、再び故国の土を踏むことなくこの地で没した。郡民はその遺徳をしのび、霊を祀って高麗明神とあがめ、以来現在に至るまで高麗王若光の直系によって社が護られており、今でも多数の参拝客が訪れている。

昭和57年3月 日高市

以上、高麗神社境内にあった日高市による説明書きを記した。

武蔵国高麗郡の創設

2009年09月11日 | 高麗若光

大磯にやってきた若光がどのような暮らしをしていたのか詳しくはわからない。しかし、おそらくは、大陸から持ち込んだ先進技術を伝え、地元の人たちにとっては救世主のような役割を果たしたのだと思う。高来神社の言い伝えに残る「権現様」という呼称がそれを予測させる。

若光は、母国の名前を掲げ日本では「高麗若光」と名乗ることになる。そして、時代は流れ8世紀に入る。

「続日本紀」巻三大宝三年 四月の項に次のような記述がある。

『乙未 從五位下高麗若光賜王姓』
703年4月4日 從五位下の位(くらい)にある高麗若光に王(こきし)の姓が与えられた。

以降、若光は「高麗王(こまのこきし)若光」となる。百済からの亡命貴族達に「百済王(くだらのこにきし)」という姓が与えられたように、もと王族であることのお墨付きをもらったようなものかもしれない。

「従五位下」というのは官位を示すものであり、「従五位」は「正五位」の下、「正六位」の上にランクされる。近代以前の日本における位階制度では、「従五位下」以上の位階を持つ者が「貴族」とされたということなので、ギリギリ貴族の範囲内ということか。

しかし、若光はきわめて優秀な人物だったと思われる。引き続き「続日本紀」巻七霊亀二年 五月の記述から。

『辛夘 以駿河 甲斐 相摸 上総 下総 常陸 下野七國高麗人千七百九十九人 遷于武藏國 始置高麗郡焉』
716年5月16日 駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,799人を武蔵国に移し、高麗郡を設置した。

高句麗から亡命していたのは若光らだけではなかった。1,799人という妙に具体的な人数の高句麗人が一箇所に集められ「武蔵国高麗郡」が設置されるのである。このとき高麗郡の首長(郡司)となったのが若光なのだ。

高麗郡は、現在の埼玉県日高市、飯能市の一部を領域としていた。その首長というからには、現在で言えば県知事ぐらいに相当するのではないか。

若光はリーダーとして高麗郡の開発に務め、730年にその生涯を閉じる。日本に渡って来てから64年。当時としてはかなり長生きだったように思われるが、それでも逆算すれば日本にやってきた当初はかなり若かったということになるのだろう。

滅亡近い高句麗の未来を託された、一人の若者だったのかもしれない。


日本に帰化した若光

2009年09月10日 | 高麗若光
666年に進調使の一員として日本にやってきた若光。
しかし、その2年後に母国、高句麗は唐と新羅の連合軍に滅ぼされ、彼は二度と母国の土を踏むことはなかった。

外交が目的であるから、当初、若光達が日本にやってきたのは、その当時日本の中心地である飛鳥であったことは間違いない。帰る国を失った彼はその後日本で暮らすことになるのだが、しかし、そのまま飛鳥地方に住み着いたのではなかった。
彼は船で太平洋を東に進み、東国の相模湾から現在でいう大磯町に上陸したのである。

高句麗より先、660年に百済が滅ぼされており、百済からの亡命貴族達がすでに多数日本にやってきていた。かつての敵国同士が同じ地域で暮らすのを避けようという配慮があったのか。あるいは、もともと関東には早くから高句麗の文化が伝わっていたという事情があったためか。

(※北陸(越)から長野、山梨を経て関東平野には古くから高句麗(騎馬民族)の文化が伝えられていた。長野県に多数見つかる高句麗式の墳墓、山梨に残るコマ(巨摩)の地名などは決して偶然ではない)


ちなみに渡来人と帰化人は混同しやすいがその意味合いは異なる。
「渡来」とは言葉通りただやってきたというだけだが、「帰化」はその国の文化に従属することである。
若光は、最初日本に「渡来」したが、結局「帰化」せざるを得なかったということだ。

若光の渡来

2009年09月08日 | 高麗若光
若光は伝説の人ではなく、歴史書にもその名前が刻まれている。
日本書紀の巻二七天智天皇五年(西暦666年)十月条に以下のような記述がある。

『冬十月 甲午朔己未 高麗遣臣乙相奄鄒等進調 大使臣乙相奄鄒 副使達相遁 二位玄武若光等』
10月26日、高句麗の進調使らが来日した。そのメンバーは、大使に乙相奄鄒、副使に達相遁、そしてその補佐(?)が若光である。

666年という年代は要注目である。時代背景を考えればその来日の目的が明らかだ。(決して観光や親善目的で訪れたのではない)

7世紀東アジアは動乱の最中にあった。少し前に戻ってその経緯を俯瞰してみよう。 まず、618年隋が滅んで唐が起こる。当時、朝鮮半島は高句麗百済新羅の3国が拮抗するいわゆる三国時代にあったが、隋・唐の成立を機にそのバランスが崩れ始める。

古来から中国の周辺諸国にとっては、大国である中国に対する外交姿勢が重要課題だった。従属するのか、同盟するのか、対抗するのか・・・
(ドラマ「朱蒙」の前半では、断固として漢に対抗するヘモス、クムワ、チュモンらに対し、テソ(帯素)は漢と手を組む道を選択する)

こういった外交方針を巡っては、各国内部でも相当の対立があったようであり、その結果641年には百済で内乱が起こり、武王(「薯童謠(ソドンヨ)」の主人公である)は殺され、その王妃・王子らは島流しにされてしまう。

その翌年(642年)には高句麗でクーデターが起こり、親唐派だった栄留王が殺され宝蔵王が擁立される。このクーデターの首謀者が淵蓋蘇文(ヨンゲソムン)なのだ。(※そして、その3年後(645年)に日本でもクーデター(乙巳の変)が起こる。これは決して偶然とは考えられないのだが、それはまた次の機会にしよう。)

結局、唐と組んだ新羅が660年に百済を滅ぼし、668年には高句麗も滅亡してしまう。

こういった背景から考えれば、若光らが日本にやってきた目的は明らかに軍事支援の依頼だ。666年の時点で、すでに百済は滅ぼされており、唐・新羅連合軍の次の標的は高句麗だった。高句麗としては何としても日本側の支援を取り付けなければならない、切羽詰った状況だったのだと考えられる。(666年には正月にも高句麗からの使者が訪れている)

しかし、日本(倭)はその前にも百済復興の支援に乗り出し、「白村河の戦い(663年)」で手痛い敗戦をくらった経験がある。そう簡単に協力するわけにはいかなかった。といって、そのまま高句麗が消滅してしまえば、次は日本が標的にされる可能性も考えられたわけだ。

おそらく、若光は、日本側の結論が出るのを待ちつつ、そのまま日本に滞在していたのではないか。そして結局、母国から離れた地で、母国消滅の連絡を耳にしたに違いない。

彼は戻る国を失ったのだ。

高来神社(神奈川県中郡大磯町高麗)

2009年09月07日 | 高麗若光

高麗(こま)の地名のある神奈川県中郡大磯町には高来(たかく)神社がある。現在、神社側は高麗(高句麗)との関連を否定しているそうなのだが、神社の境内にある由緒書きには以下のようにある。

 
【高来(たかく)神社(高麗寺)の由来】

(前略)

神功皇后が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導きました。因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉りました。これが高麗権現社の起源であります。

高来神社の奉納木遣に、応神天皇の御代に邪険な母国を逃れた権現様が唐船(権現、明神丸)で大磯に渡来されて、この地を開発されました。(これは続日本紀の霊亀二(716)年に武蔵国高麗郡の開発に郡令として向かわれた若光がモチーフと考えられます。)

(中略)

明治になり神仏分離され寺物は地蔵堂に移され、高麗神社と改称され、明治三十(1897)年に高来(たかく)神社に改称されました。


この中にも若光の名前が出てくる。
彼は決して伝説上の人ではなかった。


日本に残る高麗(こま)の地名

2009年08月28日 | 高麗若光
8月もまもなく終わり。夏休みの子供達で賑わっていた海辺も、この週末を境に少し落ち着くのだろう。

関東圏で海辺のリゾート地として有名なのは何と言っても湘南・江の島。その湘南海岸に沿って国道134号を西に向かうと、平塚市を抜けるあたりで右手に小高い山(標高168メートル)が見えてくる。この山を高麗山と言い、この界隈の地名が高麗(こま)なのである。(行政区は「神奈川県中郡大磯町高麗」)

ちなみに日本では古来から、高句麗(こうくり:コグリョ)のことを一般に「こま」と呼んできた。その由来は正確にはわからない。一説によれば、高句麗の「句」は「駒」の略字であるとか。「駒」は「こま」であり騎馬民族を象徴する馬のことである。

それにしても、朝鮮半島のある日本海側ならともかく、太平洋に面した相模湾の浜辺近くに「高麗」とはあまりに唐突な気もする。しかし、これにはちゃんと理由があるのだ。

7世紀後半、この地に高句麗の王族の一派が船でやってきた。太平洋岸なのだから「たまたま」この地に流れ着いたというわけではないはずだ。

その中に若光(じゃっこう)という名の人物がいた。彼が母国においてどのような地位にあった人物か正確にはわからない。しかし、後に「従五位下」という中級貴族クラスの位を授かっているくらいだから、優秀な人物であったことには間違いない。

彼らは大磯の唐ケ原(花水川河口)から上陸し、化粧坂(「マクドナルド・1号線大磯店」が近くにある)付近に住み着いてこの地の開拓に取り組んだらしい。

だから、この地に高麗(こま)という名がついているのは、偶然でもなければ意味のないことでもないわけである。