朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

深水黎一郎氏に同意する

2011年08月15日 | Weblog

ミステリー作家の深水黎一郎氏がフジテレビの韓流問題に関して、【《ノーモア韓流》ではなく、《ノーモア偏向放送》というスローガンを前面に掲げるべき】という持論をツイッターで展開している。

全面的に賛同する。

以下、長くなるがツイッターの発言を引用しておく。

http://twitter.com/#!/fukamireiichiro
http://togetter.com/li/174135

フジテレビの件について。
今回の一連の騒動で、これを機に今までわが国ではほとんどなされなかった、マスコミのあるべき姿をめぐる、活発な議論に発展すれば面白いと思っていたのに、何故かそっちの方向には向かっていないようだ。

その原因はフジテレビ擁護派の文化人や芸能人の論理が、幼稚極まりないことにある。「嫌なら見るな」これでは議論にならない。自由競争が成り立っている業界ならばこの論理でも通用するが、放送業界は違う。

何故なら我々一般国民が、勝手に放送局を作って電波を流したら、電波法違反で逮捕されてしまうからだ。我々は総務大臣の認可なしには、ミニFM局すら開設することはできない。

電波はみんなの共有財産である筈なのに、我々一般国民は、勝手に使うことができない状態に置かれている。では放送局は何故大手を振って、日本の隅々にまで届く電波を流せるのか。それは放送局が国から認可を受けて、電波を独占しているからだ。

ちなみに欧米では、公共のものであるこの電波は、定期的に競売にかけられて、既存のメディアもそれに入札し、落札することによって初めて、その使用権を継続することができる。

いわゆる電波オークション制度というやつで、これは欧米の各国政府にとって、大きな収入源の一つとなっている。ところが日本では電波は依然として政府による配給制で、テレビ局は大昔に認定された免許そのまま、愕くほど安い使用料で電波を独占使用している。

ならばこの放送業界というもの、新規参入が事実上不可能である以上は、その事業は広い公共性を持たなければならず、公共の電波を自社事業の宣伝に使うことには、何らかの制限が課せられてしかるべきだということ、

さらには局が電波を使って自らやその子会社が著作権や商品化の権利を持っているコンテンツを宣伝するような行為は違法だということなどは、子供でもわかる論理であろう。

ましてやどこかの国のプロパガンダのような番組を流したりすることは禁止されて当然だし、自分たちがオーナーになっているプロスポーツチームを応援するような番組を流したりすることも、本来大幅な制限が加えられてしかるべきだ。

つまり今回のフジの韓流ごり押しのみならず、自然消滅しつつあるが、ちょっと前まで頻繁にみられた日テレの露骨な巨人びいきのナイター中継も同罪である。

要するに、あらゆる偏向放送が禁止されてしかるべきなのだ。もちろん番組を作るのが人間である以上、必ずや何らかの偏向はみられる。だがその段階では誰も 文句は言わない。今回のフジは多くの視聴者が、それが洗脳レベルに達していると感じたから騒ぎになっていることを、フジの上層部は理解しているのだろう か。

従ってフジテレビは今回の騒動に対して、何らかの声明を出すべきだし、偏向放送ではないと言うのなら、そうではないことを論理的に説明するべきだろう。「嫌なら見なければいい」という論理は通用しないことは前述の通り。

一方、フジに不満をいだく側も、《ノーモア韓流》ではなく、《ノーモア偏向放送》というスローガンを前面に掲げるべきであろう。それによってマスメディアのあるべき姿への議論へと発展させなければ、いつかこの運動は潰されてしまうだろう。


高岡蒼甫氏のツイッター発言に関して

2011年07月30日 | Weblog

ここのところ俳優の高岡蒼甫氏が韓流ブームに偏向しているとフジテレビを非難した件が話題にあがっている。このブログに直接関係あるわけでもないのだが、思うところもあるので個人的な見解とこのブログに対する考え方をこの辺で表明しておきたい。

まず、高岡氏のツイッターでの発言に関しては、もう少し表現の仕方がないのかと感じたものの、個人的な意見の表明として特別問題のあるものとは思えない。

高岡蒼甫 ツイッターで批判「8は今マジで見ない」

23日に「正直、お世話になった事も多々あるけど8は今マジで見ない。韓国のTV局かと思う事もしばしば」などと記述。その後も同様の書き込みを続け、韓流ドラマなどを多く放送している同局の姿勢に苦言を呈した。

そもそも、平日の昼間に韓流ドラマを流し続けていることに違和感を覚える人は決して少なくないだろう。それがいいとか悪いとかという問題ではなく、テレビ局の姿勢として安直ではないかということ。同時間帯に日テレが(気合の入った)生の報道番組を放送している点と比較しても、自らは何も製作をせず放送権を購入しただけの作品を真昼間から放送するというのがキー局のあり方としてどうなのかというところだ。

(もっとも僕が「朱蒙」を知ったのは、フジが2007年夏に昼間の時間帯に地上波で放送していたのを観たのがきっかけなので、その点ではフジに感謝しているし、結局のところ面白いドラマは面白いということに尽きるのだが)

いずれにせよ、高岡氏の発言に同調する人もいれば気を悪くする人がいるのも事実なのだが、それにしてもよくわからないのは、一週間と経たずして彼が事務所を辞めざるを得ない状況に追い込まれたことである。事務所側がことを過剰に重く受け止めすぎたのか、あるいはフジから何らかの圧力があったのか。外側から真相はわからない。 しかし、政治家の発言ならともかく、一俳優のつぶやきでここまでの事態に巻き込まれるというのはいったいどういうことなのか。この国では下手に意見を言うことすらできなくなってしまうではないか。

何かひとつの発言や出来事に対し、メディアがあまりに過剰に反応してしまうという昨今の風潮。どうにもスッキリしないのだ。そういう考えの人もいるのね、ぐらいで流しておけば済む話ではないのだろうか。何が問題なのだろうか。まったくわからない。

この国には韓国と聞いただけですべてを毛嫌いする人たちもいる。同様に韓国には日本と聞いただけですべてを毛嫌いする人たちがいる。

しかし、それは個人の考え方や嗜好の問題であって、他人がどうこう言える話ではない。韓国が嫌いだという日本人に韓国を好きになれと強いることができないのと同様に、日本を毛嫌いする韓国の人に日本を好きになれと強制することはできない。

そもそも高岡氏の主張を読む限り、彼は韓国の文化そのものを批判・否定しているわけではない。問題としているのはあくまでも日本側の姿勢なのだ。同じく俳優の山本太郎氏がナイスなフォローをしていたが(「韓国のエンタメは魅力的だからこそ視聴率が取れる。日本の製作者に対して、そこに頼らず、もっと自分達で頑張って作って行きましょう!っ彼なりのメッセージと僕は受取りました。」)、まさにそういうことである。

あまりに安易な番組、安直なドラマを垂れ流す日本のテレビ局の方がよほど問題だ。アイドルの主力メンバーを中心に据えれば視聴率が取れるだろうという浅はかな考え。過去の漫画を実写化するばかりで新しい物語を作り出すことにチャレンジしない姿勢。

どうして「朱蒙」や「善徳女王」に匹敵するようなパワーあるドラマが日本では作り出せないのか。
日本のテレビ界には経済同様に閉塞しきった状況しか感じられないのだ。

このままでいいのか。何とかしなければならないのではないか。
いま、ありとあらゆる場面で考えなければならないことだ。

そういった危機感が高岡氏の発言の根底にあるのではないか。
表現の仕方がまずかったというなら、その部分のみを謝ればすむこと。

ちなみに韓流ドラマばかり放送していることに対してはフジ局内でも批判の声があがっているという。であれば、なおさらのこと、高岡氏が事務所を辞めるまでに追い込まれた状況がまったく理解できない。(以下、7月8日付けの記事より)

韓ドラぶっ続けのフジ局内から「まるで韓国のTV局だ」の声


注目のツーショット

2011年07月19日 | Weblog

クムワ+ソヒョン(もしくはペグク)のツーショット。

製パン王 キム・タック
フジの韓流αで平日14時10分から放送中。

チョン・グァンリョル氏の演技は現代版のドラマでもあまり変わらない感じですな(悪い意味ではなく)。
ちなみに本日第4話のストーリーではムソン兄貴も登場。

影のある役の多いチョン・ソンモ氏は、まもなく始まるドラマ「階伯(ケベク」で、「允忠」役を演じるらしい。ドラマ「善徳女王」でも描かれた、百済の大耶城攻撃を率いた将軍である。


「くだら」か「ペクチェ」かという話

2011年06月16日 | Weblog

参議院議員の「義家弘介」氏といえば、一般には(元?)ヤンキー先生としてなじみのある人物だが、その義家氏が先日の国会でこんな質問をしていたらしい。

「チャンチェシー」は誰? - 塚田一郎の「第一義」 - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース

義家氏は教科書問題に関して、「チャンチェーシー、ユワンシーカイと言われて誰のことか分かりますか?」と質問し、「新しい教科書の中には蒋介石(しょう かいせき)をチャンチェーシー、袁世凱(えんせいがい)をユワンシーカイと表記しているものがある。このような教科書の記述はどこを向いた誰のための教育なのか?」と問いただしました。

個人的にチャンチェーシーと言われただけではまったく見当もつかない。
おそらくは、外国の人名や地名をできるだけ現地の発声に近いものとして表記していこうという趣旨なのだと思うが、そこでまっさきに思い出されるのが「百済=ペクチェ」である。

すでに歴史の教科書ではあたり前のように百済を「ペクチェ」と表記するようになっている(らしい?)ということなのだが、個人的にはどうにもスッキリしない。

現地でどう発音しようが、一千年以上にもわたって日本国内では百済を「くだら」と呼んできた歴史的経緯があるのであって、それを突然ころっと変えてしまうというのはいかがなものだろう。
だいたい百済をペクチェと読むのは現在の朝鮮語の発音なのであって、1300年以上前の時代においてまったく同じように発声していたという保証はない。(ペクジェだとかパクチェだったかもしれないではないか)

百歩譲って国名の「百済」をペクチェと呼ぶことにしたとして、今後、百済観音や百済寺はどう呼ぶのか。日本国内には百済がつく地名もあることだし。
・・・とまあ、大いに疑問が残るわけだが、ここまでが一般的な話。

このブログでの表記については少し考え方が異なる。
右側のプロフィール欄に「このブログは基本的に「朱蒙」、「風の国」、「善徳女王」など韓国歴史ドラマを見たことのある人を念頭において書いています」と書いているとおりなので、基本的にはドラマ内で使われている地名・人名をカタカナで表記するようにしている。

だから金春秋(きんしゅんじゅう)はキムチュンチュとするし、百済は普通にペクチェと書くこともある。
あくまでもドラマありき、という前提なので。