朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

蹴鞠(けまり)の最中のハプニング

2010年01月26日 | ヨンゲソムン
やはりキム・ユシンとキム・チュンチュ(金春秋)が興じていたのは蹴鞠(けまり)だった。(「ヨンゲソムン」第74話:ドラマの字幕による現地カナでは「チュックク」)

同じ蹴鞠でも日本の宮中に伝わるものとはまるで違う。あれはどう見てもサッカーではないか。動と静、フェンシングと剣道ぐらいの差がある。(ちなみにサッカーというのはスピード感といい、リズム感といい、どう考えても本来は騎馬民族が有利なスポーツだと思う。一昔前に比べ強くなったとはいえ、日本代表がAクラスにかなわないのは、もともとが農耕民族だからではないのか。そんな風にも思ったりするが、実はそれも正解ではないのだな。まあ、それは余談なのでまたいつか。)

あまりの激しさにキム・チュンチュの衣服は破れてしまったのだが、これを縫い合わせたのがキム・ユシンの妹(次女の方)であるムニ(文姫)。これが縁で二人が結婚するというのは結構有名なエピソードである。

ところで、蹴鞠の際のハプニングというとすぐに思い出されるのは中大兄皇子と中臣鎌足の例の一件。(中大兄皇子の脱げてしまった靴を鎌足が拾ってどうのこうのという話)

というわけで、大化の改新で描写される蹴鞠のエピソードは、キム・ユシンとキム・チュンチュの件をパクったのではないかという説を唱える人もいる。中には鎌足の正体=キム・ユシンという妄想を語る人もいるが、さすがにそれはどうか。

ただし、鎌足がキム・ユシンに船を贈ったという事実が『日本書紀』に記載されている(天智天皇7年(668年))のは確かなので、二人の間に何らかの接点があったということも考えられるわけなのである。

「ヨンゲソムン」 第72話

2010年01月23日 | ヨンゲソムン
政変によって親唐派を一掃したあとも問題は山積みである。

唐への対応はもちろんのことだが、隣国の百済・新羅にはどのように対処するのか。高句麗にしてみれば、百済・新羅のいずれかと組めば唐への対抗は容易になる。逆に両側から攻められればひとたまりもない。百済や新羅にしても高句麗と組むという選択肢はあるはずだが、いまだお互いの腹のうちを探りあっているという状況である。

日本のような島国にいるとわかりにくいが、大陸にある国にとって、国境を隣り合わせにする国々との関係をどのように築くかというのは死活問題なのである。(まったくの余談だが、将棋や囲碁と同様、「オセロ」というゲームはもともと戦略的思考を学ぶために生み出されたものだったのではないか)

「ヨンゲソムン」第72話では、チュンニが使者として百済の義慈王のもとを訪ね、見事な駆け引きを展開している。

一方新羅では、キム・ユシンとキム・チュンチュが蹴鞠(?)に興じる姿が。 キム・チュンチュ(金春秋)は後の武烈王(新羅第29代王)であり、ドラマ「善徳女王」で言うところのチョンミョンの息子である。(のちにキム・ユシンの妹のうち一人と結婚することになる。ちなみに第72話には「ソンドク女王」の名前も出てきており、今後の展開が非常に楽しみである。)

ところで、金春秋が人質として日本に滞在していたという記述が日本書記にある。

『日本書紀』巻25大化3年(647年)是歳条「新羅遣上臣大阿滄金春秋等、(中略)仍以春秋為質。春秋美姿顔善談咲。」

朝鮮側の史書にはこのような記述がないので、おそらく韓国の専門家などは絶対に認めないだろう。金春秋については689年にも記述がある。 (しかし、金春秋は661年に亡くなっているはずだが?)

『日本書紀』巻30持統3年(689年)5月甲戌「金春秋奉勅。而言用蘇判奉勅。即違前事也。又於近江宮治天下天皇崩時。遣一吉」

ヨンゲソムンの乱

2010年01月23日 | ヨンゲソムン
もう少し先の話かと思っていたのだがあっという間にXデー(その日)がやってきた。ドラマ「ヨンゲソムン」第71話で描かれたクーデター。表題の「ヨンゲソムンの乱」は正式な表現ではないが、Wikipediaには以下のようにある。

「唐との親善をはかろうとしていた栄留王と、伊梨渠世斯(いりこせし)ほか180人の穏健派貴族たちを弑害し、宝蔵王を立てて自ら大莫離支(だいばくりし:高句麗末期の行政課軍事圏を掌握した最高官職)になって政権をとった」

こうして、ドラマ初期から長いこと登場していた”斜め45度の魅力”、コ・ゴンムこと栄留王もその生涯を閉じることとなったわけである。ドラマでは毒を飲んで自害したことになっているが、歴史書の記述では死体を切り刻まれた挙句に宮中の池に捨て去られたということだそうで、改革派の憤りが並大抵ではなかったことを物語っている。(ドラマ中のナレーションでは、「切り刻んだ」というのは中国の史書に記述されたものを写しただけという言い訳のような説明がなされていたが、千年以上も前の事実を明らかにするのはきわめて困難である)

ところで、このヨンゲソムンによるクーデターが起きたのは西暦642年のこと。興味深いことに、この時期には周辺の各国で謀ったように政変・クーデターが起きている。

642年 百済 武王の死(641年)にともない義慈王(ウイジャワン)が即位すると、貴族中心の政治体制を改革するため、王族や母妹女子4人を含んだ高名人士40人を済州島へ追放した。(義慈王はより反唐的な立場をとる)

647年 新羅 新唐派と反唐派が対立するなか、善徳女王の廃位を求める内乱が起き、この混乱の中で善徳女王亡くなる

645年 日本(倭) 乙巳の変:中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺

いわば、大国「唐」の成立を機に東アジア全体が”歴史の転換期”を迎えていたわけで、日本だけが国内の権力争いに終始していたということはありえない。高句麗、百済、新羅の三国にしてみれば、少しでも自国の立場を強めるためには日本の支援が必要だと考えたはずであって、だからこそ7世紀中頃から後半にかけてはひっきりなしに各国の使者が日本を訪れていたのである。

百済、義慈王の息子「豐璋」が人質として日本に滞在していたり、新羅の金春秋(チョンミョンの息子)が自ら使者として日本にやってきたりしたというのは、そういう背景があるからと考えられるだろう。

ところで、現在もまた明らかに歴史の転換期である。米国の覇権は弱まり、中国が再び大国としての道を歩もうとしているように思える。内政で混乱して外交方針を誤れば、その国の未来は無い。7世紀の教訓は現代に活かされるのだろうか。

キム・ユシンと伽耶

2010年01月19日 | 善徳女王
ドラマ「善徳女王」第12話の終盤で、キム・ソヒョンに矢を放ち殺害を計画した梨花征徒(イファジョンド)の郎徒(ナンド)、ファジョンがこのように語る場面がある。

「本来、テガヤの子孫ながら、シルラに取り入り、卑怯にも生き延びたキム・ムリョク(金武力)、そして、キム・ソヒョン(金舒玄)一族に恨みをもっていました。」

ここで「テガヤ」というのは大伽耶のことである。一般には伽耶(カヤ)と言った方がとおりが良いと思うが、3世紀から6世紀中にかけて朝鮮半島南部に存在した国家(もしくは小国家群)のことを言う。 (かつて日本の教科書では「任那」という言葉が使われていたが、現在は教科書でも「伽耶」と表記されることが多いのでは?)

高句麗・百済・新羅の三国の歴史の影に隠れがちだが、伽耶はロケーション的にも日本と関係が深く、特に鉄器の生産・開発に優れていた。 ただし、伽耶諸国とも呼ばれるように最後までまとまりに欠け、最終的には新羅に併合されることになるのだが、このときの新羅王が「善徳女王」第1話で登場したチヌン大帝(真興王)なわけだ。

一方で新羅に投降した金官国(伽耶の中心)最後の仇衡王の息子がキム・ムリョク(金武力)であり、そのまた息子がキム・ソヒョン(金舒玄、ペグクじゃないぞ)、そしてまた息子がキム・ユシンということになる。だから、キム・ユシンは世が世なら王になってもおかしくないエリート中のエリートなわけだ、本来は。

しかし、生き延びたとはいえ併合された側の立場は惨めである。(ドラマの中とはいえ)キム・ユシンに少々卑屈な面が見られるのはそういうことであり、そういった背景を知ればドラマもますます面白くなるわけである。

伽耶の中心であった駕洛国は金官伽耶と呼ばれることもあるが、ここで言う「」はgoldのことではなく、金属とか金物が意味するようにmetalのことであり、当時metalといえばこれはもうしかないのである。金官伽耶とは「鉄の都、伽耶」というような意味であるらしい。キム・ユシン一族の「金」姓もそれが由来なのであって、現在でも朝鮮半島でキムを名乗る人は名家の出身ということになるのかもしれない。(韓国の前大統領は金大中であるし、北朝鮮の独裁者といえば金正日だ。ちなみにトンマンこと善徳女王の名前も金徳曼なのである)

ところで、伽耶諸国の中にはそのほかにも多数の小国があったわけだが、その中に多羅という国があった。この多羅国に関する実に興味深い話があるのだが、それはまた次回。

「大」に関する考察

2010年01月18日 | 考察ノート
「大」という文字は日本語では音読みで「だい」もしくは「たい」と読む。これがお隣韓国では「デ」もしくは「テ」と読むらしい。だから、昨年亡くなられた韓国の前大統領「金大中」氏は日本語読みでは「きんだいちゅう」だが、現地の仮名読みでは「キムジュン」となるし、以前火災にあったソウルの南大門(なんだいもん)は現地では「ナンモン」と呼ばれる。

そういえば「大祚榮」は「ジョヨン」だし、高句麗の要職「大輔」は「だいすけ」ではなく「ボ」と読むのである。

ドラマ中で「大高句麗」と叫ばれるときは、少しのばしたような感じで「デー・コグリョ」もしくは「テー・コグリョ」と聞こえる。この「デ」にも「テ」にも聞こえるというのが実は重要なポイントで、実際にはどちらでもない中間の発声ではないかという気がする。日本人が英語のr(アール)とl(エル)の区別がつきにくいように、本来は「で」でも「て」でもない音なのだろう。

面白い事実があって、高句麗は英語表記ではGoguryeoとなり、朱蒙以来、高句麗王の姓である「高」はGoである。だから朱蒙、ユリ王、ムヒュルが並ぶとGO!GO!GO!になるのだ。

さらに、善徳女王ことトンマンはDeokmanだし、もっと言えば金蛙(クムア)はGeumwaで帯素(テソ)はDaesoだ。

高句麗の発祥(つまりはプヨが存在していた地域)は、もともと朝鮮半島付け根よりさらに北の寒い地域である。寒冷地に住む人々は話すときに口を大きく開けるわけにいかないので、必然的に発声がにごりやすいという話を以前聞いたことがある(日本の東北弁も同様だ)。詳しいことは専門家に任せるが、おそらくそういうことではないのだろうか。

ところで、「大」を「で」もしくは「て」と読む文化は日本にも一部存在する。

大工 → でえく・でーく
大根 → でーこん
大変だ → てーへんだ

これはつまり、いわゆる江戸っ子の言葉である。(そのほか、「大きい」のことを「でかい」とか「でけえ」と言うのも同類かもしれない)

高句麗が唐と新羅の連合軍に滅ぼされたあと、多数の遺民が日本に逃れてきたのは確かだが、実はその多くが関東圏に住み着いていたという事実もある。(駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の7か国に済んでいた高句麗人が集められ武蔵国高麗郡がおかれたというのは、正史(「続日本紀」)にも記載されている)決して無関係とは言い切れないのだ。

ちなみに幕張メッセで有名な千葉の副都心「幕張」(まくはり)は、かつては馬加と書いて「まくわり」という地名だったそうだが、この馬加はズバリ、サチュルト(四出道)の馬加(マガ)が由来だということを言う人もいる。幕張から遠くない場所に四街道という地名があるのもなにかありそうな予感をさせるが、さすがにそれは考えすぎか。

「大人」に関する考察

2010年01月15日 | 考察ノート

このブログもだいぶ間があいてしまった。その間にBS朝日の「ヨンゲソムン」もかなりストーリーが進み、本日で第67話に到達。約3分の2が終了したことになる。

本日の話で栄留王(コ・ゴンム)とヨンゲソムンのすれ違いは決定的になった。この先、物語は(栄留王にとって)悲劇的な結末へと向かっていくわけだが、ヨンゲソムンの未来も決して明るいわけではない(?)。ドラマは今後どのように展開していくのだろうか。

さて、高句麗に戻ってからのヨンゲソムンは時折『大人』(テイン)と呼ばれることがある。この『大人』という言葉は、ほかでもちょくちょく出てくるのだが、例えば同じ「ヨンゲソムン」でヨンゲソムンを新羅から隋へ引き取り、後に養親となったワン・ビン(隋の宦官)もそう呼ばれていたような覚えがある。

また、ドラマ「朱蒙」では宮殿から抜け出し卒本へと向かうユファとイェソヤを助けたのがチョン大人だった。さらに、「朱蒙」最終回で殺される漢のファン・ジャギョンも一般にはファン大人と呼ばれていた。

ここで言う『大人』は、もちろん現在日本で一般に使われている「大人」(成年)とはまるで意味が違う。現在は法律に定められているから二十歳になれば誰でも「大人」になれるわけだが、かつて『大人』には誰もが成れたわけではない。というよりはむしろ、かなり限定された、ごく一部の人物しか『大人』とは呼んでもらえなかったはずである。

「小人閑居して不善を為す」というコトワザがあるが、この『小人』の対極にあるのが『大人』と見てよい。 バスや電車の運賃で大人・小人という表記が使われることはあるが、一般に「おとな」の対義語といえば「こども」なのであって、『小人』とは、よく言えば一般人・凡人、悪く言えばろくでもない人物のことである。とすれば『大人』とは、本来、聖人君子もしくはそれに匹敵する人物のみに使われる言葉なのだろう。

『大人』の『大』の文字は、biglargeを意味するのではなく、尊称としての意味合いが強いのだと思われる。だから、時としてドラマ中で「大高句麗」という言葉が使われるのは、高句麗が広大な領土を持つということを意味するのではなく、「偉大なる高句麗」ぐらいのニュアンスなのだろう。その使い方は、およそ100年ぐらい前(?)わが国で使われていた「大日本帝国」という言葉にも受け継がれている。

現在の日本は「大人」という名の『小人』が『大人』ぶっていることが多すぎるのではないか。本来の意味で『大人』と呼べる人材があまりに少なすぎる、それが悲劇の元であるような気もする。