朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

日本に残る高麗(こま)の地名

2009年08月28日 | 高麗若光
8月もまもなく終わり。夏休みの子供達で賑わっていた海辺も、この週末を境に少し落ち着くのだろう。

関東圏で海辺のリゾート地として有名なのは何と言っても湘南・江の島。その湘南海岸に沿って国道134号を西に向かうと、平塚市を抜けるあたりで右手に小高い山(標高168メートル)が見えてくる。この山を高麗山と言い、この界隈の地名が高麗(こま)なのである。(行政区は「神奈川県中郡大磯町高麗」)

ちなみに日本では古来から、高句麗(こうくり:コグリョ)のことを一般に「こま」と呼んできた。その由来は正確にはわからない。一説によれば、高句麗の「句」は「駒」の略字であるとか。「駒」は「こま」であり騎馬民族を象徴する馬のことである。

それにしても、朝鮮半島のある日本海側ならともかく、太平洋に面した相模湾の浜辺近くに「高麗」とはあまりに唐突な気もする。しかし、これにはちゃんと理由があるのだ。

7世紀後半、この地に高句麗の王族の一派が船でやってきた。太平洋岸なのだから「たまたま」この地に流れ着いたというわけではないはずだ。

その中に若光(じゃっこう)という名の人物がいた。彼が母国においてどのような地位にあった人物か正確にはわからない。しかし、後に「従五位下」という中級貴族クラスの位を授かっているくらいだから、優秀な人物であったことには間違いない。

彼らは大磯の唐ケ原(花水川河口)から上陸し、化粧坂(「マクドナルド・1号線大磯店」が近くにある)付近に住み着いてこの地の開拓に取り組んだらしい。

だから、この地に高麗(こま)という名がついているのは、偶然でもなければ意味のないことでもないわけである。