朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

ヒョッポと多羅国

2011年09月28日 | 朱蒙

だいぶ間があいてしまったが、

陝父とはヒョッポのこと

のつづき。

朝鮮半島北部に建国された高句麗を離れたヒョッポが、朝鮮半島を下って南岸にまで達し、さらに海を越えて倭国(九州)に至り、それどころかそこから半島に逆上陸して分国を建てるなんていう話をすると、そんなに移動できたわけがないではないかという人がいるかもしれない。

問題は、移動距離、そしてその当時、海を越えられたかという疑問であろう。

まず、移動距離に関しては、騎馬民族をなめてはいけないという一言に尽きる。彼らの移動距離、そして空間把握能力は、歩くことしかできない人々の感覚をはるかに超えた次元にある。だからこそ、古くはスキタイ、匈奴(フン族)からチンギスハン、フビライの元(げん)にいたるまで、広大な大帝国を築きあげることができたわけである。

たとえとして適切かどうかは疑問だが、毎日バスや電車で会社と自宅を往復するサラリーマンと、飛行機に乗って世界中を飛び回る商社マンぐらいの感覚差がありそうな気がする。(どちらが偉いという問題ではない)

そして海を越えるという点に関してだが、この間も知人と話をしていたら、縄文や弥生の時代に船で渡るなんてことができたはずないと彼は力説していたのだが、学校で習った程度の歴史の知識しかないと、そのあたりが普通の反応かもしれない。しかしこれもまったく勘違いなのである。

事実は、縄文時代にさかのぼってもすでに外洋を航海する技術は発達していた。それを証明する材料のひとつが黒曜石である。石器の材料として重宝された黒曜石は、その成分から産地が特定できるのだが、伊豆諸島神津島産出の黒曜石が関東平野や山梨県内の遺跡からも発掘されており、当時(縄文どころか旧石器時代だが)の人々がかなり遠方まで航海していた事実を明らかにしている。(ちなみに佐賀県産の黒曜石が朝鮮半島南部の遺跡から出土している例もあるらしい)

さて、そんなわけで「桓檀古記」の記述に戻ると、倭国から朝鮮半島南部に逆上陸した(らしい?)ヒョッポ(父)が建てた分国が多羅国である。この多羅国は伽耶の歴史にも出てくる。(「日本書紀」にも多羅の名は頻繁に登場する)

いわゆる六伽耶の伽耶連盟とはまた別の小国だったらしいが、その存在地は、現在の韓国の慶尚南道川の地と推定されている。漢字一文字()が共通しているのはたまたまかもしれないが、なんとなくヒョッポとのつながりを感じさせるではないか。

そして、多羅国のあった場所というのは善徳女王の時代背景で言うと大耶(テヤ)城のあったところでもある。反乱を起こしたミシルがソラボルを離れ立てこもった城でもあり、のちには百済に攻略された城である。

そしてこの多羅国と日本(倭国)とのつながりには相当強いものがあったのではないかと、個人的に推測している。

話は意外な方向へと続くのだが・・・