朱蒙(チュモン)が見た日本古代史(仮題)

「朱蒙」「風の国」「善徳女王」・・・韓国発歴史ドラマを題材に日本史を見つめ直す

一瞬だけ見えた金環日食

2012年05月21日 | 考察ノート

一生のうちに何度遭遇するわからないという日食・・・だというのに当地ではちょうど東の方向に厚い雲が覆って太陽のある場所すらわからない状態。
それでも辛抱強く待って眺めていたら、金環日食が完成しているわずかな間に一瞬だけ、雲の隙間からリングを見ることができた。

さて、日食といえば古代史においてはとても重要なイベントで、ドラマ「朱蒙」や「善徳女王」でも日食にかかわるエピソードが挿入されているのはご承知のとおり。
このブログでも過去いくつかの記事をアップしている。

「朱蒙」における日食

「善徳女王」でのありえない日食の設定

どうにも理解しがたいのは「善徳女王」での日食に関するトンマンの台詞。オリジナルがもともと間違っているのか、日本語訳の時点で何か勘違いがあったのか、真相は明らかではないのだが、「満月の日またはその翌日」に日食が起こるわけないのは小学生でもわかる理屈である。

これ以外に、「日本書記」などに記述のある日食について疑問を投げかけている。

「日本書紀」における日食の記述

「日本書紀」における日食の記述 その2

「続日本紀」における日食の記述

要は、日食の回数が多すぎるのである。ほとんど毎年、年によっては2回も日食が起きている。それはさすがにあり得ないだろうと思うのだ。

歴史書における日食の記述は、実際に日食が起こったかどうかではなく、王朝の交代や世の中を揺るがすような大きな出来事を象徴しているという話もあるのだが、7世紀後半以降の記述はそんなレベルのものではない。

長いこと不思議だったのだが、ようやくそれらしい理由を見つけた。
7世紀後半以降に「日本書記」「続日本記」に記述のある「日有蝕之」は、現実に(日本国内にて)日食が観測されたかどうかではなく、計算上(地球のどこかで)日食が起きると判断された日を記録しているということらしいのである。

つまり、7世紀後半には、日本でも、日食の起こる日を計算によって導き出す技術が確固たるものになったということである(おそらくは大陸から伝えられたと思うのだが)。そうすると7世紀前半を描いた「善徳女王」におけるウォルチョン大師の存在、そしてドラマの中で「格物」と呼ばれる技術がリアリティをもったものに感じられるわけだ。

ちなみに日本では陰陽師と呼ばれる人たちが日食や月食の起こる日を計算する役割だったはずである。陰陽師というと小説や映画では妖怪退治やマジシャンのように描かれることが多いが、実際には科学者としての役割も果たしていたわけだ。

さて、「日本書紀」の記述に関してだが、7世紀前半に起こった3つの日食の記録(628、636、637年)のあと、680年を境に頻繁に記録がされるようになる。つまり、この頃に、日食の起こる日を算出する技術が伝えられたと考えることもできるわけだ。この当時天皇の座に就いていたのは第40代の天武天皇。事情通からすると「なるほど」と納得しやすいのではないだろうか。


うつけの振りをする皇子

2012年05月15日 | 階伯(ケベク)

(ドラマの進み具合からだいぶ遅れてしまったが・・・)

ドラマ「ケベク」第3話では時代が進み、ケベク誕生から14年後の626年を描く。
面前で母親(ソンファ皇后)を亡くし復讐を誓う幼少期とはうって変わり、あまりに軟弱でおバカなキャラクターへと変貌したウィジャ(のちの義慈王)の姿が見られるのだが、これは果たして素の状態なのか、それとも周りを偽る演技なのか・・・(すでにその真意は明らかになっているが)

626年というと史実上599年生まれのウィジャは26-27歳になっているわけで、30前の男があの様子では確かに呆れるほかないというわけである。(もっとも、そうするとケベクが生まれたという設定の612年にはウィジャは12-13歳になっているはずで、ドラマ中の少年(6歳ぐらい?)とはかなり乖離がある。相変わらず、史実との整合性はあまり気にしていない印象だ。)

ところで、うつけの振りをする皇子といえば「日本書記」の中にも知る人ぞ知る有名な皇子がいる。
ウィジャより数十年あとだが同じ7世紀の話である。

『日本書紀』巻二六斉明天皇三年(657)

九月(ながづき)に、有間皇子(ありまのみこ)、性(ひととなり)黠(さと)くして、陽狂(うほりくるひ)すと、云云(しかしいふ)。

有間皇子は、第36代孝徳天皇の皇子である。

乙巳の変(中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿殺害)の後、女帝皇極天皇に代わってその座についたのが孝徳天皇(皇極天皇の弟)。一般に「大化の改新」と呼ばれる一連の改革事業は、この孝徳天皇の治世にスタートしているわけである。

しかし、この孝徳天皇の最期はなんとも惨めであった。難波宮(大阪)に遷都したのだが、飛鳥に戻りたいという皇太子(中大兄皇子)に同調する者が多く、結果的にはほとんど置いてきぼり状態でむなしくこの世を去ったようである。

時の実権は中大兄皇子の一派が握っていたのだろう。そんな中にあって天皇の皇子というポジションにありながらも、有間皇子の立場はいつ殺されるともわからぬ恐怖のどん底にあったらしい。皇位継承の有力候補でもあるため、邪魔者として見られていたのである。

彼が生き延びるためにはすべてを捨てて狂人のふりをするしかなかった・・・まさに、「ケベク」におけるウィジャのようだったのである。
しかし、結局彼は陰謀に巻き込まれ18歳という若さでこの世を去る。

有間皇子といえば、個人的には、昔読んだ「飛鳥昔語り」というマンガの印象が強い。

ロバート・ブラウン著「よいこの東洋史 第2巻 日本史 第2節 飛鳥」銀河出版社 2305年

・・・というフレーズでどれぐらいの人がピピッと来るだろうか・・・?