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 名古屋市名東区 赤帽タケフジ運送の「ふ箱」

赤帽タケフジの車窓から見える光景

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親鸞の妻・・玉日の廟

2012年11月18日 | いにしえから学ぶ

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 京都引取り日。早朝出かける。荷受は午後。午前の空き時間に伏見・深草の「西岸寺」を訪れる。

 西岸寺(さいがんじ)は、今年6月に新聞記事となった。この寺の塚の発掘で、親鸞の妻?「玉日姫」の遺骨?が発掘されたというものです。

 親鸞は肉食妻帯を公言した初めての僧です。その始めての妻が玉日姫か、恵信かがはっきりしません。恵信・親鸞との婚姻は事実です。九条兼実の娘といわれる玉日姫との婚姻は伝説ということになってます。

 親鸞の曾孫・存覚の「正明伝」には玉日姫は親鸞の妻と記されてます。しかし現在本願寺宗派の学説が強い。東国で親鸞の法脈を継いだグループの「玉日説」は否定されてます。

  越後の地では確かに恵信が妻でした。彼女は玉日姫の侍女であったようです。玉日姫は親鸞が流刑になった時、なにかの事情で越後には同行せず、間もなくこの西岸寺の地・小御堂で亡くなったようです。その後、流刑地に同行した恵信が親鸞と結婚した・・・ということです。

 親鸞と玉日姫の新婚生活はどうも九条兼実邸のあった五条西洞院のあたりといわれます。 今回仕事で出向いた地が偶然にも、その近くでした。荷受の前にこのあたりを散策しました。この地の大泉寺には玉日の木像があるそうです。寺をのぞくと本堂の階段で犬が日向ぼこしてました。

 小春日和の京都を半日楽しみました。


村の守り神

2012年10月14日 | いにしえから学ぶ

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土日仕事なし。昨日、豊田の北部グリーンロード沿いにある「猿投神社」へブラット行く。秋の例大祭が土日に催される。準備に忙しそうでした。当神社は大碓命(おおうすのみこと)が祭られている。彼は双子でありその弟は小碓命=日本武尊(やまとたける)ということです。なんだか神話の世界でわかりません。

 しかしこの大碓命は美濃国に左遷?されたのかこのを地を開拓し、毒蛇にかまれて死んだ・・・とありました。兄弟の争いがあったのでしょうか。

 この神社は「左鎌」が看板のようです。鎌といえば労働です。稲刈りです。それを象徴してるんでしょう。この地を開拓し、稲作労働をし、民が富む・・・と言う流れでしょう。「左」というのは、双子の一人は左利きというからだそうです。

 猿投神社の「絵馬」の多くは「左鎌の形」です。奉納されてる左鎌の絵馬は豊田らしく、トヨタ系の会社のオンパレードでした(写真)。当地トヨタの守り神であるかのようです。Img_0060

 例大祭には「棒の手」が奉納されます。棒の手はこの地に伝承される民間武道です。刃物を使用せず、棒切れでもって身を守る武術と聞いてます。一度見てみたいです。この武術はこの猿投から西の長久手・尾張旭・名古屋名東のあたりまであるようです。いずれも村落を守るために、村人が自衛のために身に付けたものでしょう。中世の時代は村の共同体を守るために命懸けだったのでしょう。


親鸞の妻・・・玉日姫?

2012年06月10日 | いにしえから学ぶ

興味ある記事が朝日新聞にありました。

親鸞の妻「玉日姫」の遺骨・骨壷?が京都伏見の西岸寺で発見されたというものです。

親鸞の妻帯はよく知られています。妻「恵信尼」の書いた手紙十通が現存しています。恵信と暮らす以前に「玉日姫」と結婚していたという伝説があります。

 その玉日姫の塚を調査したら遺骨がでてきたのです。彼女は関白・九条兼実の娘といわれている。

 兼実は親鸞の師・法然に深く帰依した人です。その九条家の家司が三善為教でした。為教の娘が恵信です。師法然ー九条兼実ー三善=恵信で、親鸞と恵信との結婚は想像できます。

 恵信が玉日姫であるという説もあり、不明が多い。恵信は上越の板倉でなくなった・・といわれ、彼女が生前希望した五輪塔が発掘されている。恵信=玉日姫であれば、彼女の遺骨を伏見にて葬る理由がない。

 されば玉日姫は実存していたのか。

 宗派本願寺は玉日姫説は否定している。歴史学の調査の期待が望まれる。

 写真は先だって新潟行きの帰路、上越の恵信の里です。親鸞の妻恵信が晩年住んだところです。五輪塔は、近年発掘されたものです。20125_007


新潟帰り

2012年06月01日 | いにしえから学ぶ

20125_016  先日の新潟の帰りに小林一茶の旧家に寄りました。新潟・妙高から長野に入ってすぐの信濃町です。北国街道沿いにあるのでわかりやすいです。今は一茶の弟の家と、彼が息を引き取った土蔵がのこってます。晩年柏原で大火があり、彼の母屋も燃えてしまいました。残ったのがこの土蔵です。ここでの暮らし数ヶ月で亡くなりました。

  土蔵住まいして・・・「やけ土のほかりほかりや蚤さわぐ」・・・と説明にあり。

 14歳でこの雪深い柏原を江戸へ旅立ちました。江戸では相当貧乏苦労したようです。江戸では当時信濃の出稼ぎ人を「椋鳥(むくどり)」とか「おしな」と陰口されました。そんな中で句の修行をしたようです。

 また父親の死後継母とその子(弟)と熾烈な相続争いがあった。結婚は52歳で晩婚です。妻は28歳と若い。妻も子も早くになくなる。

 なんだかわれらと等身大の人物のようで、親しみがわきます。俳句も芭蕉のように一部のスキもない句ではないが、親しみ深いものがあります。

 


三河国・国分尼寺

2012年03月07日 | いにしえから学ぶ

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 定期済ませて組合に行くとドンピッシャリに仕事でる。豊川市穂ノ原行きでした。

 帰りは寄り道しました。2キロほど西の「三河国・国分尼寺」公園です。

 奈良の時代、聖武天皇は全国60余カ国に「国分寺・国分尼寺」を建立しました。ここ三河国の尼寺は大きく、伽藍が中門・金堂・講堂と一直線に並ぶ様式です。

 中門(写真)は一部復元されてます。朱塗りの柱、梁はあざやかです。屋根は出土した天平の瓦を復元したものらしい。金堂・講堂の礎石も整備され当時の結構が想像できます。

 律令制度が崩壊する平安時代初めには、財政的に維持困難となり荒れ果てたという。大きな金堂礎石も6個しかなく、すべて崩壊してから持ち去られました。

この地は、いまでも「穂の原」といわれる豊かな土地です。しかし大伽藍を建立するには民の労力が強制動員されたことでしょう。当時聖武時代は、飢饉・疫病さらに九州に乱もあり、何度も遷都しています。統治するに不安だったのかも・・。そこで日本中に国家安泰を求めての「国分寺・国分尼寺」建立だったんでしょう。

 統治者の思いと・・それに翻弄される民。統治者の思いの遺構は発掘されるが、そこに動員された民の思いは想像するしかない。

 ここで福島を思いました。千年後、「福島原発事故」は必ずや遺跡となり記憶されているでしょう。でも福島の民の悲しみ苦しみは、天平の民同様に埋もれてしまうのだろうかと。


江戸時代、盲目でトップに立つ・・

2011年10月15日 | いにしえから学ぶ

003 一ヶ月も前になりますが、埼玉・本庄児玉行きがありました。寄り道の雑記です。

 塙保己一(はなわ・ほきのいち)の案内看板がありました。どんな人かなぁ~のノリで彼の生家に寄ってみました。

  彼のことは全く知りませんでした。 江戸時代の盲目の国学者です。この地武蔵国児玉に生まれる。7歳で失明する。13歳江戸に出て按摩・音曲を習うも興味がない。(盲はこれくらいの仕事しかなかったんでしょうね・・)

 彼は手のひらに文字をなぞってもらい、覚えた。また人の話を少しも違わずに覚えたと伝えられている、スーパー記憶力の人です。元来の才能があり、努力があったんでしょう。そして国学のトップに立つた。

 国学って?くらいのことですので、彼がものにした「群書類従」がなんだかトントわかりません。

  現代の盲と江戸時代のそれとでは、生きていく事に、とてつもない差がある。そんな中で一角の者になった。自分は五体満足ではあるが、チョウなまぬる人生で比較にもならない。ただ仰ぎ見るだけですね。

  付け足しですが、彼の息子も国学者になりました。幕末に長州の尊王派であった伊藤博文(以前千円札でしたっけ?)らに暗殺されてます。当時の孝明天皇の廃帝を学問していたと誤解されたらしいです。伊藤はその後明治の元勲として初代総理となる。そのかれもハルビンにて射殺される。歴史は巡ります。

 写真は塙保己一の生家。


鎌倉時代・親鸞の夫婦関係

2011年07月27日 | いにしえから学ぶ

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今週は起伏のない仕事です。日に細かい仕事が2~3件の推移です。本日は午前が空白。図書館にて新聞小説・五木寛之の「親鸞」、7月半ば以降を読みに行く。

 親鸞が越後上越での流刑生活が赦免されたその後です。

 親鸞は師・法然が京で亡くなり、京へ帰る理由がなくなりました。彼はある縁で北関東へ行く決心をした。 それを妻の恵信に決意を告げる。彼女は越後にゆかりある人です。子供もあり見知らぬ地へ生活の場を移すことには消極的でした。しかし彼女は夫親鸞を深く信頼していました。条件つきで北関東行きを承諾します。その条件というのは、その地で生活が成り立つならば・・とのことでした。女性は現実的です。子を育てる環境がない土地での生活は出来ないというのです。

 ここで鎌倉時代の夫婦関係を思う。現代なれば、旦那が決心して仕事先を見知らぬ地で営むという時、女房は心中気に入らぬもついて行かざるを得ない・・・というのが現実でしょう。

 しかし鎌倉時代の女性は、今とは違います。結構自立しています。それには根拠があります。夫婦といえども財布が二つなんです。夫婦別産です。夫の行動が気に入らねば、ついて行きはせぬ・・・というものです。

 この鎌倉時代から360年ほど下った戦国・織田信長の時代に、西洋から来た宣教師ルイス・フロイスの書き残した記録があります。

 「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける」・・・と書いている。当時は結構イケテル夫婦関係ですね・・・。

 当然親鸞の夫婦関係もそうだったんでしょう。妻・恵信は選択した結果関東への移住を選びました。

 さて・・・関東での物語はどうなるでしょうか・・・楽しみです。


浜松・米津村の大事件

2011年05月11日 | いにしえから学ぶ

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 本日は春日井から浜松市まで。催事ものの運搬でした。肌寒い雨でしたが、運送は順調13時に終了。

 走行実車120キロでした。100キロを越える仕事は今月初です。今回の震災募金は、120キロ×5円=600円也。5月分は現在¥2,675です。

 帰りに寄り道をしました。

 浜松市内の1号線に米津という信号があります。その北に「江戸行六義人菩提所」の碑がありました。説明によると240年程前江戸時代のことです。米津の浜に紀州の御用船が難破した。米津の村人が総出で救助し荷を回収した。紀州側はその荷の不足を言い立て、人身御供を要求した。隠居船の又三郎ほか五名が江戸行きとなり小塚原で処刑された。

 紀州は徳川御三家だ。その威光による強引なやりかたです。以後米津村では六義人を供養するが、それさえも禁じられた。村人は石地蔵を埋め、月日が過ぎ忘れられた。

 時は移り昭和十年。寺の拡張工事の際にその地蔵が発掘された。そして、その顛末が判り以後顕彰されたという。

 遠州灘の一寒村にも、こんな天地がひっくり返るような出来事があったんですね。この時代このような義人は日本各地に見られる。封建時代の大規模なモメゴトの最終的な処理方法でしょう。こうした義人の残された妻子には、村による扶養がなされたという。そんな裏づけかあるから「村のために死す」という義人が多く出たんTakefuji_011だろう。 なんとも村落の絆の強い時代ですね。


浜松の「小豆餅」という町名

2011年01月23日 | いにしえから学ぶ

 21日・22日に浜松納め・引取りがあった。毎年恒例の運送です。天気もよく順調に終了でした。

 浜松西ICを出て、まっすぐ市内に向けると、「小豆餅町」という信号ある。面白い町名です。これは徳川家康の三方が原の戦いが起源でした。

 かの戦いは家康・織田の連合軍が武田信玄にコテンパンにやられた戦で有名です。家康30歳の若さで、かたや信玄は50をこす老獪なモサです。家康は必死の思いで浜松城へ逃げ帰ります。城まであと一里、ほっとしたのでしょうか、腹が減りこの地の茶店で小豆餅を食った。そこへ追っ手があることを知り、あわてて代金を払わずに城へ急いだ。茶屋の婆がおいかけ代金を取った・・・という逸話が元です。

 家康は負け戦で死をも覚悟したんでしょうね。兵はわずか、城で篭城もならず・・です。そこで取った策は「空城計」というものでした。八方破れの策です。城中にかがり火を炊き、門をあけっ放しにするというもんです。武田勢にしては簡単に家康の首が取れるというものだ。歴史はここで変わってたかもしれない。

 武田の追っての武将は、深追いを避けで帰還する。家康は死ぬ覚悟で寝ていたということです。家康は生き、信玄はその翌年病死する。


 甲斐銚子塚古墳

2010年12月30日 | いにしえから学ぶ

 12/27(月)の続き・・・草笛市への帰り、甲府南のIC口の「甲斐銚子塚古墳」へよりました。

 再現された古墳群を散策しました。乏しい歴史の知識を動員して当時の生活を想像しました。かの古墳は、全長170メーターの前方後円墳です。高さは15メーター、形は「鍵穴」状、または「てるてる坊主」の形です。それは東日本でも最大級のものです。造られたのは4世紀後半とのことです。古墳が盛んに造られた時期です。011 

 見事に再現された古墳を一周するのも時間がかかります。これほどの土木事業は、相当の人とモノ、そして技術と時間がかかったでしょう。これは公共土木工事ではなかったか?

 エジプトのピラミッド工事に従事する人の勤務状況の遺物が発掘された。それによると「二日酔いにて休み」というのがあった。奴隷をこき使って構築したという思いを拭ってくれた。

 古墳時代もこんなもんだろうか?力仕事にはメシがいる、測量、埴輪作りの技術のあるものも動員せないかん。これら計画的に運営するのは、巨大イベントです。鞭の強制で造る事はムリだ。人と物・技術が大きな規模で循環する公共事業でないか?これは時代を動かした歯車の一つとなったと思う。

 当時は稲作が普及した時代でした。稲作は水利の整備、計画的な協同耕作が不可欠でした。稲作地をより広く所有したものが各地の豪族となった。またその争奪が多く発生した。鉄製の農耕具と兵器の発展は、人口増加をもたらすが、戦もふえたわけだ。やがて「やまと」政権が統一をはたす。古墳造営は急激に消滅する。

 年末の一時楽しい時間をすごすことができました、ありがとうございました。来年も宜しくお願いします。


次郎長の妻「おちょう」

2010年12月07日 | いにしえから学ぶ

004  平和公園の墓碑めぐりーその3

 戦国・信長・・忠臣蔵と続きました。今回は幕末の侠客「清水の次郎長」です。

 彼の女房は「おちょう」です。その墓は日蓮宗・妙蓮寺にありました。

 安政五年暮れ、現在 「西区の巾下」の侠客・長兵衛宅に次郎長と子分達が止宿しました。その時におちょうは 重い病となり亡くなったという。おちょうも共に逃亡していたのか。この年は、次郎長が甲州の出入りで捕り手に追われ、逃亡中の時と思われる。世は「安政の大獄」で尊王攘夷派が獄に繋がれた時代です。

 この「巾下」には、赤帽が配送でお世話になる有名な仕出し屋がある。この店は美濃街道沿いにあり、創業は江戸時代です。当時は八百屋でしたから、侠客長兵衛もこの店の客でもあったんでしょう。そんなことを思うと、次郎長・おちようが歴史上の人ではなく、身近な人物に感じられてくる。

 墓の正面は「妙法 信解妙諦信女」とあり側面には「駿州清水三ノ町 山本長五郎」とありました。没年は安政年12月。

 次郎長の前半は博徒、そして明治維新には、官軍より街道の警察を命じられたりもする。前半生とは打って変わり、富士山ろくの開墾、お茶の実業そして、英語教育の塾までもと様変わりでした。 一つ身で二つの人生をまっとうした人のようです。


栃木県鹿沼市からの帰り道

2010年12月04日 | いにしえから学ぶ

12/2(木) 

 栃木県・鹿沼市行き。昨夜取り本日早朝納め。最寄のPAで車中泊、寒くなってきました。8時過ぎに終了。さぁ~て・・・どうやって帰ろうか?と思案。

 東京経由はつまらんので、北関東道路から上信越で長野・佐久市まで行く。あとは和田峠越えで19号した走りでした。

 今回は和田トンネルはやめて、中仙道のあった旧道をはしってみました。紅葉は終わり、樹木も冬支度で、葉が落ち梢越しのお日様が気持ちよかった。

 この峠は、中山道でも有数の難所だったそうです。数箇所にお助け茶屋や、接待所がありました。なかでも現在まで保存されている、和田峠施行所はよかったです。

 19世紀の始め、江戸の豪商「かせや与兵衛」が、この峠の難儀を知り、幕府に千両を寄付した。その五十両でこの接待所を造った。11月から3月までの通行人に粥と焚き火のもてなしをし、牛馬には年中小桶一杯の煮麦を施したという。江戸時代には、こうした善意の基金による施行所が運営されていた。すばらしいです!

 当時の千両とは如何ほどのものでしょうか。篤志家をこうやって顕彰するのはいいことですね。こういう善意が街道を維持してきたんですね。 

 他に、「東餅屋」がありました。(現在は廃墟)当時の旅人が一服したのでしょう。峠の前後5箇所あった。ここでも茶屋一軒に「一人扶持米」が支給された。年間にすると4.4表=260キロに当たる。何故か?それは峠にて遭難者、行き倒れ等の人があれば救助にあたる役割を担っていたそうです。江戸の時代の仕組は深いです。

 和田の峠で楽しみました。最後は「水戸の天狗党」の合戦で倒れた御柱の碑を訪れて、急ぎ帰る。

 全走行920キロ、往還時間25時間(寄り道ふくめ)008 でした。


信長の伯母の墓に出会う

2010年11月18日 | いにしえから学ぶ

014_2  紅葉を楽しんで歩いた平和公園。手すりにもたれかけ、下をみる。変った墓石に掘られた文字をみてビックリ。「織田信長公伯母君也」とある。そこは「梅屋寺」の墓地でした。五輪の塔が、L字型の別の墓石に乗っている。戒名は「梅屋慶香大姉」とある。天文二十一年任子三月二十四日。五輪の塔には文字はなく、文字はすべてL字型の石に彫ってある。「当寺造建」と戒名の頭に明記されていた。

 天文二十一年は1552年です。その前年に信長の父、信秀が没して家督を17歳の彼が継いでいる。その翌年に伯母はなくなっている。梅屋寺はもと清洲にあったらしく、そこに葬られたということは、遠方に嫁いだのではないと推測。寺は現在清洲越えで?名古屋の東桜にある。

 この時代の家系図は男子にっいてははっきりと書かれているが、女性はアバウトです。この伯母の実名はわからない。

 同じ叔母でも岩村城の女城主といわれる「おつや」の方は有名です。武田側についた信長の叔母であるが、彼の怒りをかい、1575年に逆さ磔刑となった。これは梅屋寺の伯母が亡くなってから23年後のことです。

 この二人の姉妹(信長の父、信秀の姉と妹)、姉の生き様はわからねど戦国の世はすざましい。013


墓あるき

2010年11月13日 | いにしえから学ぶ

 名古屋東部の丘陵地帯にある、平和公園は、戦後市街地の区画整備のために、各寺院の墓碑を18haの敷地に集めた公園です。春は桜、秋は紅葉そして釣りができる池あり、四季を楽しめる名古屋人の憩いの地です。

 近いとこですので、散策によく行きます。ここには歴史上有名な方達の墓があります。今日はその一つを紹介します。

 忠臣蔵四十七士の「片岡源五右衛門」です。彼は尾張藩の熊井重次の妾の子で、赤穂へ養子に行った人です。若いころから藩主浅野長矩に仕え寵愛された。禄も三百五十石となり、赤穂浪士のなかでも大石に次ぐものであった。主君     浅野長矩は刃傷後、田村屋敷に囚われ、即刻切腹となった。彼の最後をみたのは片岡であるといわれる。この決別のシーンは忠臣蔵の名場面の一つです。

 討ち入りを覚悟した片岡は、尾張の親類に累が及ぶことを考えて、事前に義絶していた。しかし江戸時代のことです、実家の熊井家は遠慮(家に閉居)、従兄弟も自分遠慮(自ら閉居)となった。期間は二ヶ月ほどでした。

 さてその墓は、主君と同じ泉岳寺にあり、また彼の出自の地である名古屋乾徳寺にもあるということです。

 平和公園の墓地歩きはきもちよいです。犬も歩けば・・ですね。001

 


特攻隊を見送った、ソテツ

2010年09月30日 | いにしえから学ぶ

Yanagigaura 9/29(水)

 時々出る仕事。JR新幹線・在来線を使用して大分県の「柳ヶ浦駅」まで。駅にて荷をお客さんに渡して終了し、即帰ります。したがってお得意の寄り道はできません。

 今回は帰りの小倉行きが30分ほど先でしたので、駅の外にでてみました。大きな蘇鉄が小さなロタリーの中にありました。以前最終列車を逃し、この町のビジネスホテルで泊まったこともあったんですが、その時は全くソテツには気づきませんでした。

 「ソテツ」に看板がありました。要約すると以下です。

 柳ヶ浦駅の西南に、戦時中「宇佐海軍航空隊」がありました。太平洋戦争末期には、この基地より153名の特攻隊員が、沖縄の海に散華した。昭和20年4/21 のB29の爆撃でこの基地は壊滅した・・

 さてこのソテツは、この基地ができた昭和14年に、この地の商店街が基地の庁舎に寄贈したものでした。空爆にも逃れ、生き残こりました。後柳ヶ浦の人達が、駅に植えなおしたんです。

 かっては153名特攻隊員の若者を送り、いまは柳ヶ浦を訪れる人を迎えます。

・・・このほうがええなぁ~