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 名古屋市名東区 赤帽タケフジ運送の「ふ箱」

赤帽タケフジの車窓から見える光景

名古屋市名東区の赤帽運送はタケフジへご用命下さい
052-772-5880

高知・いの町プチぶらり

2010年09月28日 | いにしえから学ぶ

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 昨日の高知県・いの町の続きです。

荷の積み込みに一時間ちょつとの時間があったので、「紙の博物館」近くの椙本神社へいきました。「いの大黒」として知られているみたい。古い歴史があるみたいでした。竜馬伝にもでていた「武知半平太」の奉納した絵馬があるそうです。境内には碑が二つありました。

 一つは、高浜虚子の句碑です。この地は俳諧が盛んであったようです。紙で経済的にうるおったからでしょう。

   紙を漉く 女もかざす 珊瑚かな

  当地は古くから紙漉きが盛んでした。女の仕事でもあったんでしょうか、当然その収入もあります。彼女らは、珊瑚の髪飾りをきそってしたんでしょうね。

 二つめには、大正七年に全国的におきた米騒動に、この町の名望家「田中・・?」(メモしてないのでアバウトです)の取った行動の顕彰でした。米の不作と買占めで米価の暴騰となり、富山のある港町からこの騒動が始まった。この地でも商家やお金持ちの家が襲われた。ここで田中・・さんが大金を出し、同時に町のお金持ちのかたがたからも基金を募った。このお金で大量に米を購入し、廉価にて町民に売り、秩序が安定したという。

 いつの時代でも・・どの場所でも社会が混乱した時には、こういう人があらわれるんですね。 歴史の年表には載ることがない地方の出来事です。このような史実を掘り起こし、顕彰して、碑に残すことはいいですね。


トシさん・・近くに来ましたので・・・

2010年09月15日 | いにしえから学ぶ

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 9/15(水)

昨晩8時集荷で、本日朝9時東京・多摩市納品の仕事でした。即走るには時間がありすぎるので、家に帰って11時過ぎまで仮眠して出発しました。それでも朝6時に着いてしまいました。時間つぶしのため、地図を見る。

 ありました多摩川石田橋のたもと、R20 からすこし入った「石田寺」に「土方歳三」の墓です。山門をくぐるとしきりにポトポトと木の実が落ちる。かやの大木だ。樹齢四百年というから、きっと「トシ」もこの木の下でカヤの実を拾っただろうか・・と思いをはせる。墓を見るとずいぶんと「土方家」の墓碑ばかり。この地域は土方一族が根付いているんだろう。「トシ」の墓標はそのカヤに見守られるようにありました。

 近藤勇も 多摩川を挟んだ、いまの調布市で生まれている。 彼の首塚は愛知県・本宿の法蔵寺にある。このことは昨年12月のブログにしました。

 新撰組、戊辰戦争と維新を駆け抜けた二人は、坂本竜馬とは対極の姿勢ですが、生き様は全く同じですね。

 若きころワタシも、彼らのような生き方に羨望した時代もありましたが・・・いまは彼らの墓参り・・それも仕事のついでに思い出す・・というところです。

 カヤの実の ポッリとおちて 時めぐる

・・・仕事は無事終了、帰路はベラボウに眠かったです。引越しは、連チャンでもOKですが夜走りはニガテです。

 

 

 

 


秀吉の生母

2010年09月02日 | いにしえから学ぶ

 9/1(水)

 「急いで幸田町まで書類を届けてください。赤帽さんの近くのミニストップにいます」とのTEL。50キロ見当の仕事で昼の定期に間に合う、ラッキー!!とにかく走る。11時過ぎに終了でした。後は名古屋に戻り、定期と簡単な家具等の移動の運送です。

 最後の家具運送の着地は「御器所」というところです。家を捜してる道中に思はぬ歴史スポットに出くわしました。

 豊臣秀吉の生母「なか」の誕生地でした。大河ドラマでは市原悦子,草笛光子らが演じてました。キャラは田舎の土くさいおふくろさんというものです。田舎人が、息子秀吉の長浜城に迎え入れられ、ついいは大政所となったひとです。長生きをしたようです。秀吉と同様に波乱万丈の人生です。


先輩の戦争体験

2010年08月16日 | いにしえから学ぶ

ある先輩の戦争体験。

 昭和20年、彼は十四五歳でした。まだ中学生?で一二年も年上であれば徴兵になるかならぬかの歳でした。当時の学校は授業は停止され「勤労動員」という、労働の毎日でした。

 かれは愛知県の知多半島の生まれでした。当時乙川には中島飛行機の製造工場があったそうです。戦闘機等の製造に動員されたのです。彼はコクピットの計器盤の取り付けをしていたそうです。配線コードをつなぎ、はめ込む作業でした。結構複雑な作業をしていたんです。

 製造過程の戦闘機が仮設の足場に乗っかっていて、その下からもぐりこむようにして作業するわけです。時にその脚立が崩れて怪我をする人もあったようです。完成した戦闘機は伊勢湾を横切り、三重の鈴鹿航空隊に行くんですが、たどり着く前に伊勢湾に墜落することもあったそうです。彼曰く「いい加減な機器の取り付けのせいだろう」と。年端もいかぬ子供達に完全を期すわけにはいきません。

 やがて戦闘機を作る材料さえなくなり、彼は東三河の豊川の北の新城あたりで豪を掘る作業に行った。そこでも各地からかき集められた動員学生が豪堀をしていた。「本土決戦」のための豪だそうだ。身の丈ほどの深さに縦横無尽にほり、さらに深く、司令部をモグラの巣の如く掘ったそうです。大変な重労働でした。

 その地で昭和20年8月7日の豊川工廠(弾丸機銃の工場)の大空襲を見たそうです。時間は午前中、遠目にまるでハエや蚊が群がるように豊川の上空をB29(重爆撃機)が飛んでいたそうです。それは、サイパン、グアムからの124機だった。

  その大空襲は250キロ爆弾が三千発以上、総重量は800t以上が投下され、二千八百以上の死者がでたそうです。その中には、彼と同じ動員学徒が何百人もいました。

 少年期の食べ盛りに満足に食えなかった彼です。時々口いするものが不味いと思う時にフト当時の食料難の思いにスイッチがはいると「ああ、これは決して不味くはないなぁ~」と思い返すそうです。


即身成仏

2010年08月05日 | いにしえから学ぶ

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8/5(木)

 夏休み前で周りは少し動いてるみたいですが、タケフジはイマイチの日が続きます。本日は朝早くの建築現場納めでした。現場は日進市です。近くに「聖人塚」・(しょうねずか)なるものが、野方というところにありました。

 「尾州府志」という江戸時代半ばの官撰地誌にこの塚の記事があるそうです。ある僧が「鈴の音がしなくなったら入定(にゅうじょう)=死去したしるしです」といってこの塚の土中に入ったということです。この地には「六部のしょうがねもち チンチン鉦叩け」という童謡があったそうです。六部とは巡礼の行脚僧のことです。

 これはいわゆる「即身成仏」です。五穀断ち、水断ちをして「ミイラ」になるんです。佛になり世の安寧を願うわけです。先日、111歳でミイラ化して発見された人の家族の言葉に「即身成仏になると部屋にこもった」とメチャな言い訳がありましたが・・・。 

 江戸時代にはこのような手段で「佛」になることを行った僧が数あります。以前揖斐の横蔵寺にて妙心法師の即身佛を見たことがあります。壮絶な生き方であるし死にようですね。


戦国古戦場のルートで帰る

2010年06月27日 | いにしえから学ぶ

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 先週石川県の帰りに寄った「丸岡城」のはなしとあれこれです。

 日本現存する最古の城だそうです。信長の臣下 柴田勝家の甥 勝豊の開城です。二層三階で、武将が甲冑をかぶり眼をむいているように見えました。簡素でかざりっけがなくカッコイイです。最上階まで上ってみました。階段は限りなく垂直に近く、備え付けのロープをたぐって登りました。城郭より見るこの一帯は、越前の一向一揆を討伐した柴田勝家が領していました。彼は名古屋の、それも自分の近くの上社村の出らしいです。家の近くの地の人の姓に柴田が多いのもそのためとかってに思ってます。そのせいか親近感がある。

 城は昭和23年の福井地震で全壊しました。しかしそのときの町長 友影元の奔走により再建がなりました。崩壊した材木等はそのまま保存されて使用されました。コンクリ製では意味ないですね。見る眼をもった人物ですね。

 越前より北国街道を通って(R365)木之本のルートの帰路です。栃の木峠を越え志賀県に入ると「賎が岳」です。ここは信長の死後、勝家と秀吉が戦って秀吉が勝利した地です。その後勝家は、妻のお市(信長の妹)と自害している。

 さらに下ると長浜手前には小谷城址がある。もやに煙ってました。浅井長政とお市(最初の夫)の城跡です。信長に攻められて長政はこの城で自害してる。

 このルートはまるで戦国歴史を走りぬけるような地ですね。最後は「姉川古戦場」をよこぎって、「関が原」より高速でかえりました。すべて戦いの街道でした。


今いてほしい人・・二宮金次郎

2010年06月09日 | いにしえから学ぶ

Img_1486  チヨット前のお話です。6月1日夜10時取りで、神奈川の藤沢市の朝着け仕事でした。一度家へ帰り、翌朝2時過ぎまで眠る。3時に高速に入る。藤沢は朝8時過ぎに終了。寄り道なしでは帰れません。 

 小田原の「二宮尊徳記念館」に寄ってみる。

 薪を負いながら本を読むあの「二宮金次郎」です。学問と実践が一致した人です。江戸時代後半の人です。時間をかけてゆっくり見ました。

 彼は、荒廃した村や、財政が破綻した武士の家政、さらには一国の藩制の建て直しを行った人です。かれの言葉で「仕法」といいます。財政再建請負人といったらわかりがいいですね。そのやり方は単純でした。

  •  まず「分度」から始まる。ブンドとは聞きなれません。収入、能力、資産、回復力を心得て生活することが大事と説く。『入るを計り、出るを制す』で、収入以下の生計なら必ず余裕が生まれる。自分の「分度」をすることから始まる。
  • 分度によって生じた余力、お金を自分の将来や社会のために譲り合うこと。これを彼は「推譲」(すいじょう)という。自分および社会に再投資することにより幸福な社会をめざす。

 この行動の中心には勤勉積小為大(せきしょういだい)がある。ちいさなことの積み重ねにより、大事がなるということです。ただケチケチして小金をワタクシに貯めるのではない。「報徳」という背骨が通ってます。一木一草・水・石・空気等の万物には徳があり、そのおかげで人は生きている。だから自分の徳(能力・役立つところ・よいところ)を社会のために役立てる。・・・ということらしい。

 わかりのよい思想です、でも実現するのは相当きついです。これを生涯貫いたんですね。現在の日本の建て直しを依頼したいです。きっと厳しい「分度」がなされることでしょう。

元気をなくしつつある国家の建て直しは人です。尊徳は新田開発をいい変えて「心田開発」といってます。改革には、一人一人の心の育成が肝心と考えます。農業復興(事業・財政再建)は住民の人のこころ構え(心の田)を改めるがスタートということです。

 今にこそ、日本丸が沈没しない前に、二宮尊徳さんに登場してもらいたいです。

 写真は尊徳の生家です。両親がなくなり一家離散し、この家を出ることになりました。彼の人生の目標の第一歩は、この家を再興することから始まりました。


偶然にも聖武天皇

2010年05月31日 | いにしえから学ぶ

Img_1480  昨日の運送の着地は三重県白山町のお寺でした。境内に碑があったのでみてみると、「聖武天皇の関宮跡」とありました。

 奈良の時代です。藤原広嗣の乱が九州で起きました。その乱を恐れ天皇は、四百余名の兵士、側近を従えて伊勢へ行幸しました。名張、青山を経てこの地白山の河口の頓宮(仮の宮)に至る。ここで十日間いたと続日本書紀に記されているそうです。

 藤原広嗣は捕らえられて、この乱は終わったのにもかかわらず天皇の流浪の旅が続く。とても奇妙な行動ですね。その後みやこの遷都が続く。数年で首都をかえるわけです。また全国に国分寺の建立を命ずる。なにかを恐れて、神仏の加護を求めたんでしょうか?謎です。

 そんな謎の出発点の河口の関宮でした。偶然にもそこへの運送があり、一挙に年表の一行が身近になりました。

 写真は、聖武天皇行幸の一員であった「大伴家持」がこの地河口の野辺で妹(いもー妻)恋しさに読んだ歌の碑です。万葉集に納められているそうです。アザミの花がきれいでした。

 


心の思いどうりをいうと検挙される時代

2010年03月24日 | いにしえから学ぶ

 22日、引越しがキヤンセルになってしまって丸一日フリー。切り替えて 東別院の彼岸法要に妻子三人で行きました。出店で飲食したり、桜のつぼみはピンクにふくらみ、春の雰囲気は十分味わえました。別院での催し物を見ました。恒例の「平和展」です。今回は21回めで、そのテーマは「弾圧」でした。なんだか政治的でおおよそお寺の催にふさわしくないようでしたが、そうではありませんでした。

 あれこれあるんですが、一つだけ記します。植木徹誠といってもわかりませんよね。でも植木等の父と書けば、フゥーンですね。植木徹誠は「スーダラ節」の植木等の父です。彼は三重県の真宗大谷派(東本願寺)のでした。彼は解放運動にかかわり昭和13年に治安維持法違反で検挙もされているそうです。

 僧徹誠は、常々檀家の若者が赤紙で召集される時に「戦争は集団殺人だ、・・・戦地ではなるべく弾のこないところを選べ、・・・必ず生きて帰れ、・・・なるべく相手も殺すな」という発言を繰り返したお坊さんでした。

 もし自分の息子が戦地に赴く時に「死んで来い弾が飛んでくるところへ先頭になって飛び出せ、・・必ず死んで帰れ、・・・相手をできるだけ殺せ・・」と言って送り出す親があるか?

  植木の父はあたりまえのことを言って、官憲に囚われた・・そんな時代でした。

 「平和展」のひとつでした。

 彼にはまだおもしろいエピソードがあります、スーダラ節を歌うことになった植木等が父に相談したそうです・・・、その後の話しです。次回です。

 


南京からの千手観音

2010年03月21日 | いにしえから学ぶ

 いつも散策する平和公園、その平和堂にある千手観音の公開があり行って来ました。この観音像は、昭和16年に中国の南京市からの贈呈されたものです。

 ことの顛末は日中戦争にさかのぼります。昭和12年の日中戦争での両国犠牲者を慰霊するために、名古屋の唐山(千種区)にあった、丈十メーター余の木造十一面観音を南京市に寄贈した。そのお返しに南京市の寺にあった、金色の千手観音が昭和16年(パールハーバーの年)夏に送られたのです。昭和39年に平和堂が建立されて以来そこに安置されました。

 近所にすんでいてもそれを見たのは初めてでした。高さ四メーターほどで、重厚な造りです。まじかで仰ぎみましいた。

 その交換された観音像の顛末を知りました。名古屋から送られた十一面観音像は、1960年代、中国の文化大革命で、紅衛兵により破壊されたとのことです。

 そもそも昭和16年に名古屋から南京に観音像が贈られたのも、おおいに当時の政治状況の結果だと思います。泥沼に落ちいった日中戦争の中で、両国の緊張緩和のために軍のはからいではないでしょうか。特に南京は昭和12年暮れの南京占領時の南京大虐殺の地です。日本から渡った観音が破壊されたのもそんな因縁なのでしょうか。

 しかし名古屋の平和堂では、南京の観音像が今も、民を救うために千の手を差し伸べている。うれしいことです。お互い傷つけあう関係ではなく、友好の千の手を結び合う関係でありたいものですImg_1313_4 。          

写真は平和堂の南京市より贈られた、千手観音像。


戦のあと

2010年03月17日 | いにしえから学ぶ

Img_1301_2 Img_1304_3                                                       本日は、3件の仕事あり。昼の定期、その直後に入った、お得意さん依頼の刈谷市行き。3時に終了。あとは夕方の、名古屋ドームの催し物「フラワードーム」の撤収です。

 ドームの仕事まで2時間ほど時間があつたので、道中に、「桶狭間の合戦」場の近くにある「戦人塚」を尋ねる。国道1号線からすぐで、桶狭間が望める高台にある。現住所は豊明市前後町です。桶狭間戦場より東一キロほどのところです。

 桶狭間の戦の後、百八十回忌のもので、江戸時代の1739年に建立されたとありました。合戦で斃れた双方の兵士を弔った碑です。施主は快翁龍喜と記されていました。

 このような戦で斃れた兵士の塚は各地にてよくみます。凄惨な戦にて斃れた兵士を、土地の人々が霊を弔らったものです。戦の是非なぞは問うことなく、亡くなったひとをあわれみともなった。今川、織田勢の無数戦死している様に出会った桶狭間の住民の驚き混乱を想像してみました。歴史書には合戦の記述はあっても、戦に巻き込まれた草民のことは埋もれてしまってますから。

 写真のマンホールは豊明市のものです。桶狭間のかっせんです。

 も一つは、戦人塚です


ピンポイントの偶然

2010年02月12日 | いにしえから学ぶ

Img_1269_8  本日は組合で仕事待つ。花番ではあるが午前中仕事でず。山岡荘八の徳川家康、第五巻の後半を読み終えたとこで仕事でる。家康の正室、築山御前が甲斐の武田と内通し、謀反をたくらんだところでした。

 仕事は豊田市から岡崎までの引越しでした。着地は岡崎欠町、順調に終え、帰り道、通り一本越えた「八柱神社」に「築山御前の首塚」の看板。あれ~?!何度みても同じ。さっきまで読んでた、彼女の終焉の地でした。着地の場所がドンピシャの偶然に絶句です。御参りしてきました。

 築山御前は、信長に桶狭間で首をとられた、今川義元の養女でした。家康が駿府で人質の時代に彼に嫁し、信康をもうけている。その信康は長じて、彼女の父を討った信長の長女、徳姫を嫁として迎える。嫁、姑が仇敵どうしだ。

 いろいろあって、築山御前、子の信康ともども、信長の命にて殺害され、自刃している。家康の意向であるという説もあるが、今では藪の中です。家康にとっては、妻と長男を同時に失う・・または、なき者にする?わけだ。戦国の世は生きるためには何でもありです。・・・現代も負けてはいない・・・ですが。

 写真は築山御前の首塚。

 今日は、ピンポイントの偶然に一寸ドキドキしました。これも引越しのおかげです。


「道草おじさん」今日はどこへ?

2010年01月21日 | いにしえから学ぶ

 本日の運送は、2件。定期と田原市行でした。早々と3時に終了。道草おじさんとしては、多分今日は仕事はないであろう・・・と決めこんで、帰路の道中で道草。

 小坂井町の伊奈城跡に寄る。15世紀半ばより本多氏の城跡です。今は3M位の土塁がかなり残っている。また堀跡より逆茂木(さかもぎ=敵の侵入を防ぐため、鹿の角のような枝木を突き立てた柵)が出土している。

 松平清康(家康の祖父)が1529年に吉田城(豊橋)を攻めた時、当時の伊奈城の本多正忠が先陣を勤め、攻略に貢献した。戦の後に伊奈城に清康を招き、宴を催した。その時に、城内の花ヶ池の「水葵の葉」を敷いた酒肴でもてなした。清康はたいそう喜び、その葵を家紋とすることになった・・・。いわば徳川「葵の紋」発祥地だ。・・・という解説あり。

 城内に「正念台」跡があった。聞きなれぬものだが、そこには遺骨が埋められていたそうだ。戦死者をともらったものか?城内にあるのは珍しいものだろうか?「正念」とは、一心念仏だろう。一向宗の念仏が盛んであったのだ。Img_1254_2 Img_1253_2

 仕事の帰りにこんな時間を過ごすのは、なんとも得をした気持ちになる。運賃を頂いて、楽しく見聞できるのだから。

 写真は土塁と伊奈城の古地図の碑。

 


信長のDNAは、天下人となる・・・

2009年12月27日 | いにしえから学ぶ

先日三日続いたセントレア空港行きの最終日、終了後、国道沿いの丘にある「大野城址」へ寄りました。

 ここには佐治氏の城のあったところです。丘の上には、城を模した展望台がありました。大野水軍といって伊勢湾を拠点として活躍した。ここの城主へ織田信長の妹「「於犬(おいぬ)」が嫁いでいる。信長にとっては、伊勢湾に勢力をもつ大野水軍は味方にしておく必要があった。しかし佐治信方(おいぬの主人)は、若くして一向宗の長島の闘いで戦死する。子も儲けて名を「一成」という。主なき「おいぬ」はその後、子を残し、山城国の細川昭元へ嫁ぐ。コロコロと嫁がされる?わけだ。・・・以上解説より。

 子の佐治一成はその後、これまた信長の妹である「おいち」のむすめ(父は浅井長政)「おごう」をめとる。いとこどうしですね。ここらの相関関係は複雑です。

 後にこの夫婦関係も秀吉によって離縁させられて、結局「おごう」は家康の子秀忠に嫁ぐ。そしてImg_1178_2おごう」は三代将軍の家光を生む

 徳川家三代目には、信長の血がはいる。彼は天下取りを目前に倒れるが、織田一族のDNAは、おいち~おごうを通し天下人となったわけだ。

 写真は大野城からの伊勢湾。佐治水軍に嫁いだ「おいぬ」はこの海を眺めたことでしょう。


新撰組近藤勇の首塚は愛知県に?

2009年12月15日 | いにしえから学ぶ

Img_1168 昼より豊橋の引き取り仕事。3時の約束で時間があるので調節。本宿(もとじゅく)の法蔵寺に寄る。旧東海道沿いにある。藤川~本宿~御油と松並木、旅籠やがあり、当時をしのぶことができる。

 ここには新撰組の近藤勇の首塚がある。薩長の志士に恐れられた勇猛無比の男。戊辰戦争に敗れ、慶応四年、江戸の板橋で処刑された。 遺体は三鷹の菩提寺に葬られる。首は塩漬けにされ京都三条川原にて晒される。近藤の同士がその首を奪い、近藤の敬慕していた、新京極の、称空義天大和尚に弔いを依頼する。しかしその時には彼は三河の法蔵寺の管主になっていた。そしてこの地に葬られることになった。それも無縁仏として草むすなかで・・・忘れられてしまった。・・・解説書より。

 九十年余の時が流れ、昭和33年に再び、近藤勇は掘り返された。今では幕末の怨讐をこえ、訪れる人が絶えない。彼の節操を貫く愚直なまでの生き方は、今の時代にはまぶしいくらいです。

首塚を訪れたら、とたんに仕事が二件入った。仲間に依頼する。強い近藤のご利益か?