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 名古屋市名東区 赤帽タケフジ運送の「ふ箱」

赤帽タケフジの車窓から見える光景

名古屋市名東区の赤帽運送はタケフジへご用命下さい
052-772-5880

ムカシの選挙・・・

2016年07月09日 | いにしえから学ぶ

7・10

 投票日です。私はアソンデル時に期日前投票にいきました。
この「投票」は日本の中世からあったらしい。投票とは言わずに「入札(いれふだ)」とか「落書(らくしょ)」 といったらしい。村単位でおこなわれた。その目的は、村役を決めたり、盗人が誰か?!を決めたりした。
今なら警察の仕事も村人がする。この時代は、「村」が生きる装置・手段として大切なのだ。村を離れては生きていかれない。従って「村」の決定権・処罰権は強い。盗人とされたものは家財没収で村から放逐される。また飢饉のとき、葛粉を盗んだということで盗んだ母が子と共に村人に殺害された・・・という記録もあるらし。
 当時は村民の行うことは、村の責任とみなされる。村の秩序を破るものは排除せねば村そのものの責任となるからだ。
けっこうシビアな選挙です。その点オキラク?な現代の選挙です。いかなくても食う手段がなくなるわけでもない?から。 
 しかし「入札」しないと回りまわって ガツン!としっぺ返しが来ます。江戸時代には「地獄札」ともいったらしい。


秀吉さんは多指症か

2016年05月29日 | いにしえから学ぶ

「戦国武将の死生観」篠田達明著を読む。その一部。

 秀吉は多指症にて右手親指が2本あった・・・ポルトガルの宣教師ルイスフロイスが、六本の指があった・・と記録している。秀吉の朋友・前田利家は「太閤さまは、右手親指一つ多く六つ御座候」と記している。信長から「六つ奴」と呼ばれたことありと、秀吉が自ら語ったことあり・・・・

 信憑性が高い。かれは背丈130センチほどの小男で、眼が飛び出し猿面の容貌であった。
これらの身体的なことで劣等感を持っていたでしょう。それがバネとなり八面六臂の活躍・戦功があったともいえそうです。晩年は寝小便をするなど認知症状がはっきりでていたという。政治的にも朝鮮出兵し、中国さらにはインドにまで侵略すると・・・認知症からくる誇大妄想に陥った。

 篠田達明氏は医師で作家だそうです。医師の立場から戦国の武将のカルテから行動をみる。興味つきません。


信長・秀吉が躍動した地

2015年12月11日 | いにしえから学ぶ

12・10

 納品先が江南市小折町でした。そこには「生駒屋敷」跡があります。信長が思いを寄せた生駒家三代目の娘「吉乃(きつの)」の在所です。生駒家は運送業にて財を成した。武功夜話によるとこの屋敷で秀吉は蜂須賀小六の輩下となる。信長と秀吉との出会いは、吉乃の計らいとも。信長は二十歳そこそこ、清州城を奪った頃です。きっと清州から馬を馳せて吉乃のもとへ通ったんでしょう。そこにて戦国を動かした猛者たちの邂逅があったんですね。桶狭間戦いから天下布武への道がここから始まった。信長・秀吉らが5百年前躍動した地であると思うとチョイト胸おどった。吉乃は二男一女をもうけたが、若くして亡くなり、近くで荼毘にふされた。その地は屋敷の西南にあり現在墓地でして、石仏と桜の大木がありました。

 


土岐氏果てた地

2015年10月21日 | いにしえから学ぶ

10・21

昨日は岐阜県山県市大桑(おおが)の現場納めでした。里山、現場より先は美濃の山々。この集落の先は路もなし。当然携帯も不通(docomoは可)。職人さんが鹿を見たといっていた。

 そんなところにも歴史ありでした。土岐氏の大桑城址あり。かっては中世の城下町があったらしい。戦国時代16世紀半ばに美濃の斉藤道三(マムシの道三)に城を破られる。当時の曲輪・四国堀がはっきり残っていました(写真下)。また土岐氏「六万人戦死」の碑が山襞のなかにありました。深閑とした美濃の山郷に戦乱の火が燃え盛ったんですね。


「原爆に夫を奪われて」・・・の言葉

2015年08月06日 | いにしえから学ぶ

8・6(924回)
 広島原爆70年。今朝の新聞に、今国会で審議されている「安保法案」、成立すれば日本は核兵器の運搬も可能・・・との政府の見解あり。

 昔読んだ<原爆で夫を奪われて> その中の言葉を拾ってみました。


 「ウサギが皮をはがれたように焼けとられて」・・・門前ツルヨ

 主人が「腹がにがる、にがる(イタイ)」といった。卵の白身がええいうんで体になすりつけてやりました。 「やねこい(苦しい)やねこい」というても手当てのしようもなかった・・・亡くなってみりゃ、あれほど「水をくれ、水をくれ」いうたのに、存分にのませてやりたかった

・・・・野村マサ子

 「 皮膚がぼろきれのようにぶらさがって、足の裏に皮がみんな集まっていましたよ・・・・体を動かしてやると腹がゴロゴロ鳴って、どす黒い血が口からあふれて出て・・・そりゃなんともいえんひどい死にようでした」・・・・松田ヲチカ

 「実地に見とらにゃ本当のむごさは分からん思いますが、シナ事変に参加した人が・・・わしの見た戦争でもこれほどのむごたらしい死に方はなかった・・・と話しとった」「主人を戸板にのせて啓(息子)と家まで運んだ折の重たかったことです・・・。原爆に焼かれてどれだけ苦しかったことか。その苦しい思いが、目方にもなったじゃろか、そいで、あがいに重かったのじゃろかと、考えたりしとります」・・・・横地トシコ

 6日の朝、主人の弁当のおかずに卵玉子焼きを入れることにしました。卵焼きをしとると、主人がそばを通りかけて「今日はごっそうじゃのう」といってわたしの尻を後ろからちょっとかまいました。「今日は卵焼きに白いめしじゃけ、みんなに隠して食いんさいよ」と・・・
 この弁当を主人は食うことはなかったんよ・・・ ・・杉田チヨコ


納品先でモウケル

2015年06月05日 | いにしえから学ぶ

6・4

 早朝5時半積みこみ、9時岐阜市の現場おろしでした。7時に到着。そこの北側は、惣構(そうがまえ)といわれる土塁です。今は長良川堤防道路です。信長は土塁で囲まれた城下町を450年位前に造ったのです。それ以前は「まむし」といわれた斉藤道三の孫、龍興の稲葉城でした。 
 岐阜城祉・金華山ロープウエイの下にある信長の館・宮殿跡を散策した。現在発掘がおこなわれている。壮大な居館、広大な庭園、巨石石垣など。焼け跡からは牡丹文・菊花文の瓦がでた。調査によると金箔が施されていた。城郭の金箔瓦はこの岐阜城のあとに築かれた安土城が始めてといわれていたが、それを遡ること十年以上前に金箔瓦が使用されていた。
 更にさかのぼり、この岐阜城の前に信長が築いた小牧城(愛知県小牧市)ここに金箔瓦がでた。「3段石垣」の発掘調査で出土した。発掘ごとの新事実、歴史はこうだから面白い。それにしても信長の派手スキは歴史をかえましたね。
 納品先が思わぬもうけモノでした。静かな朝の岐阜公園を楽しみました。
 


千年前の人とタッチ

2015年05月18日 | いにしえから学ぶ

5・18(899回)

 三重県・南伊勢町の美術館までの納品。お客さん同乗です。名二環が事故にて不通、迂回する。あとは順調。全行程3時間ほど、お客さんは居眠り・・・自分も眠くなってしまう。南伊勢町五ヶ所浦は風光明媚なとこです。

 帰りに明和町の「斎宮跡」に寄る。古代より南北朝に至る6百年以上にわたり伊勢神宮に仕える人びとが住んだ地域です。遺構の発掘が進められている。本日も斎宮駅前の「古道」跡で発掘調査がなされてました。2メーターくらいの深さの穴です。側溝跡とみられるところより土器・土師器・陶器片がでてました。発掘の調査員の方よりお話を聞きました。平安時代の人が触って捨てたとみられる土器片。千年たって今湯気を立て出て来たばかりのものです。手にとって千年前の人と会話した気分になる。
 仕事でもうけて、斎宮跡でも発掘作業を直接みられてトクしました。


ピースあいち

2014年08月16日 | いにしえから学ぶ

8・15(798回)
 近所に「戦争と平和の資料館・ピースあいち」がある。戦争の教訓と平和を発信する場です。昨日はじめて訪れました。たまたま「3・10東京大空襲」体験者の語りをやってまして、聞くことができました。
 体験者は大正11年生まれの並木満夫氏の話でした。
昭和20年3月10日木造家屋密集地の江東区等の下町を超低高度・夜間・焼夷弾攻撃がありました。これはあきらかに東京住民殺戮を目的としたものでした。爆撃計画は周到なものでした。3月の季節風の強い日であり、目標が煙で見えなくなるを避けるため、風下の東側からの攻撃でした。爆弾ではなく、木造家屋を焼くに効果的な油脂焼夷弾(しょういだん)です。38万発・1800トンをばら撒き、一晩に10万余の死者を出したかってない作戦です。広島・長崎の死者を上回る惨劇でした。
 隅田川は川面が見えなくなるくらいの死者累々だったそうです。
語った並木氏は当時東大農学部の学生でした。当時の文系・法系の大学生は学徒動員で兵役でした。しかし理系の学生は軍事技術に役立つということで兵役免除だったそうです。・・・以上並木氏より。

 戦争は受けた被害だけを継承するわけにいかない。加害のことをも忘れてはいけない。東京空襲に匹敵する日本軍による南京大虐殺もありました。
 政治家は、いちに戦争を回避することが最優先。戦争を知らない国会議員がほとんど・・・という記事をみました。ならば、議員諸氏にはたんと歴史を学んでほしいです。

 本日終戦記念行事での安倍首相のコトバは、被害のことを語れども加害の事実は口にしなかったと新聞にあった。


真岡の帰り・・・親鸞遺跡に寄る

2014年08月04日 | いにしえから学ぶ

Img_0100 8・4(795回)
 7月下旬に栃木・真岡市へ行きました。着地近くに専修寺(せんじゅじ)があり寄りました。この寺は真宗高田派の本寺です。伝承に親鸞が北関東在住の時、この地に寺の始めを開いたそうです。その間に住んだ庵が再建されてました。専修寺の東2キロの山あいにありました。三谷草庵(みやそうあん)といいます。
 せみ時雨にうたれて小径をいくと、竹林のなかにありました。江戸時代には、親鸞遺跡巡りが盛んで、この場所もにぎわったようです。親鸞は念仏停止の弾圧にて越後に流刑となり、赦免後京都に帰ることなくこの北関東へ来ました。妻・恵信と子供も一緒でした。20年ほど北関東にあり、茨城・稲田で書物を書き、多くの人びとが真宗に帰依しました。60歳の頃親鸞は京へ帰り、妻・恵信は越後に帰る。越後には恵信の家屋敷・土地があったらしい。彼女は三善為教の娘といわれる。
 その恵信の手紙十通が大正時代に西本願寺で発見されました。娘・覚信尼にあてたものです。750年前の晩年のものです。親鸞の思い出や、下人を娘に譲ること、飢饉で多数死んだこと、針を送ってくれとか五輪塔を頼んだとかイロイロです。
 親鸞は在京時代「玉日姫」を娶ったという説もある。玉日の墓は京都・西岸寺にあります。


杉原千畝記念館

2014年05月06日 | いにしえから学ぶ

5・5(772回) 
 昨日の好天日に岐阜県八百津町の「杉原千畝(ちうね)記念館」へ行きました。
彼は戦前の外交官で東欧リトアニア領事館に赴任していました。
 当時ヒットラーのユダヤ人虐殺を逃れ、国外に逃げるユダヤ人が続出した。多数のユダヤ人が日本の通過ビザを求めてリトアニア領事館を訪れた。このビザはホロコーストから逃れる手段でした。
 当時の日本はヒットラーと同盟を結ぶ直前でした。そのビザを発行することは同盟国の政策に抗することとなる。しかし彼は一晩悩み決断し、ペンを握れなくなるまでビザを書きまくった。そのかず数千に及ぶといいます。
 戦後救われた多くのユダヤ人が彼を捜し顕彰した・・・ということです。杉原の故郷に「人道の丘」と呼ばれる記念館ができた由来です。
 外交官の身分は魅力的です、国家の意向を忠実に遂行すれば・・・ しかし国家の方針は必ずしも正義ではない。
 彼の結論は、ホロコーストにおびえ、他国へ逃れるため日本領事館に望みを託すユダヤ人にビザを発給することでした。
 その決断の部屋も再現されていました。


江戸時代の「赤帽」?

2013年10月20日 | いにしえから学ぶ

 10/19(705回)

 今週はヒマでした。・・・・・暇にまかせて先回の続きです。

 江戸時代の運送を担ったのは宿駅制度だ。街道の宿場には問屋場・宿駅を置いた。これは「お上」の物資を運送するためのシステムとしてつくられた。そこには人足と馬が常備させられた。原則次の宿駅までの運送だ。先回のブログでいえば、中津川宿からは落合か大井宿までだ。そこで荷を付け替えて運送は終わる。
 この公儀の運送費用は問屋もちです。その代わり?税金の一部が減免される。また問屋場を旅人の宿にしたり、民間の運送等で儲ける。
 民間の運送も原則次の宿場までだ。運送賃のトラブルが多かったんでしょう、運賃に関し1711年に定めがでた。その高札が先回の写真です。
 急ぎの荷もあった。一駅ごとに荷を付け替えるのは面倒だし、損傷もある。さらにその都度の手数料もかかる。ならば目的地まで極力通しで運ぶ便を・・・ということです。江戸時代の「赤帽」でしょうか。
 その名を「付け通し」「通し馬」という。運賃は一里20文~ぐらいです。時代により5割増しになったこともあり・・・です。
 この時代はどうも物流を潤滑に・・・という考えはなかったようだ。東海道では、大井川や安部川などには橋を作らせなかった。軍事的の考えが優先している。しかし物流は欠かせない。大量運送は船便でした。千石船が日本をグルリと走っていた。

 3百年前の時代にも「赤帽」的運送屋があり、街道を往還してたんですね。


江戸時代の運送賃

2013年10月13日 | いにしえから学ぶ

20125_015 10/13(704回)

 江戸時代の運送賃と赤帽運賃を比べると・・・?

 先日中津川へ行った折に、中山道の高札場(法度・掟を掲げた場所)を訪れた。そこには18世紀前(正徳元年)の運送屋の運賃表が高札に定めとして掲げられた。

 この恵那郡には、落合・中津川・大井宿がある。
その間の距離は落合~中津川は一里あるなしだろう。中津川~大井宿は二里位だろうか。運賃もその距離に応じている。荷一駄が前者が55文、後者が111文とある。旅人が馬に乗っていくと、それぞれ36文と53文である。
 夜間料金もある。軽尻(からじり・荷なしの馬に旅人がのること)でも運賃は本馬(40貫目)料金だ。この時代も夜間運送は高い。
 人足一人雇えば前者は28文、後者は53文とある。

 当時の貨幣価値はどんなもんか?落語の二八の蕎麦=16文で、現代の掛け蕎麦が300~400円とすると、1文=20円チョイ程度?されば人足一人が中津側~落合宿間1里(4キロ)ほどで28文×20円=560円となる。
 赤帽料金では4キロ×185円=740円で人足労役が安い。
この高札は尾張藩付け家老の竹腰・成瀬の両名によるものだ。この運賃はきっと安く見積もられているのだろう。実際はこれを上回っていたのだろうか。

 アレコレ思い巡らすとオモシロイ。20125_016


遊びモード

2013年10月11日 | いにしえから学ぶ

20125_014 10/10(703回)

 10時頃に中津川市行きが入る。出かける時はすでにアソビモードでした。12時半に仕事は終了。

 さてどこいこかぁ~、地図を見ると近くに「苗木城跡」とある。R257沿いです。「苗木遠山資料館」を訪れる。この苗木藩は一万石余の小藩であつた。江戸期には一度も国替えがなく、12代の遠山氏が治めた。戦国時代には信長の妹を迎え、のち生まれた娘を武田信玄の息子勝頼に嫁がせるなど、巧みに乱世をわたる。その後城を明け渡すことあるも、関が原で東軍・家康に付き奪還する。

 資料館をあとにし城跡を訪れる。その城山は巨石ゴロゴロの山です。その巨石をとりこんでの石垣は、様々な組み方を見せてくれミゴトです。頂までは思うほど難なくいけました。天守台には巨岩二つをまたいで砦ふうの見晴らし台あり。眼下には木曽川、秋空のもと恵那山もくっきり。文字通り絶景でした。時間があれば城砦を一巡りのコースも楽しい。
 手術後一ヶ月も経過してないのに、寄り道モードになるのも体調復活なんでしょう。ありがたし。
 
 


清州ジャンクション下は弥生の村だった

2013年05月08日 | いにしえから学ぶ

連休はさしたることなしに終わる。コマイ仕事と、掛川行きでオシマイ。

 6日の最終日には清須市までの仕事があり、帰りに貝殻山・貝塚資料館へ寄る。「朝日遺跡ーよみがえる弥生の技術」展です。この地は東海地方でも最大級の規模です。名二環の清州ジャンクションの下に遺跡があります。昭和50年代の発掘時に見学にいきました。

 集落の周りには環濠があり、その外側には逆茂木(さかもぎ)といって茨の枝を束ねた柵や、乱杭という丸太を鉛筆のように削り何本も突き立てた防御施設があった。おおくの戦争があったのでしょう。鏃・青銅器の武器はそれを語ってます。

 ガラス玉・管の製品も多く、装飾や祭祀に用いられたんでしょう。相当高度な技術です。

 戦争に備える生活、もし負けたなら妻子は拉致ということも・・
 稲作もせなならん。土器も作り、ガラス製品も作る。鏃から農作業道具・金属の銅鐸・武器まで。遊んでる時間はない。きっと分業もなされたし、専門家的なグループもあったんでしょう。また交易は不可欠です。村落にない技術・モノは他に求めなければならない。すでに「市」的な交流はあっただろう。

 また祭祀は重要です。村落の安寧を祈願する・・・・「まつりごと」は現代人の想像を超えるものでしょう。出土品から読み取れるものとして、この「祈り」に関するものきわめて多し。

 想いをめぐらすときりなし・・・人のくらしは今とかわりなし。人間の歴史はオモシロイ。