ある先輩の戦争体験。
昭和20年、彼は十四五歳でした。まだ中学生?で一二年も年上であれば徴兵になるかならぬかの歳でした。当時の学校は授業は停止され「勤労動員」という、労働の毎日でした。
かれは愛知県の知多半島の生まれでした。当時乙川には中島飛行機の製造工場があったそうです。戦闘機等の製造に動員されたのです。彼はコクピットの計器盤の取り付けをしていたそうです。配線コードをつなぎ、はめ込む作業でした。結構複雑な作業をしていたんです。
製造過程の戦闘機が仮設の足場に乗っかっていて、その下からもぐりこむようにして作業するわけです。時にその脚立が崩れて怪我をする人もあったようです。完成した戦闘機は伊勢湾を横切り、三重の鈴鹿航空隊に行くんですが、たどり着く前に伊勢湾に墜落することもあったそうです。彼曰く「いい加減な機器の取り付けのせいだろう」と。年端もいかぬ子供達に完全を期すわけにはいきません。
やがて戦闘機を作る材料さえなくなり、彼は東三河の豊川の北の新城あたりで豪を掘る作業に行った。そこでも各地からかき集められた動員学生が豪堀をしていた。「本土決戦」のための豪だそうだ。身の丈ほどの深さに縦横無尽にほり、さらに深く、司令部をモグラの巣の如く掘ったそうです。大変な重労働でした。
その地で昭和20年8月7日の豊川工廠(弾丸機銃の工場)の大空襲を見たそうです。時間は午前中、遠目にまるでハエや蚊が群がるように豊川の上空をB29(重爆撃機)が飛んでいたそうです。それは、サイパン、グアムからの124機だった。
その大空襲は250キロ爆弾が三千発以上、総重量は800t以上が投下され、二千八百以上の死者がでたそうです。その中には、彼と同じ動員学徒が何百人もいました。
少年期の食べ盛りに満足に食えなかった彼です。時々口いするものが不味いと思う時にフト当時の食料難の思いにスイッチがはいると「ああ、これは決して不味くはないなぁ~」と思い返すそうです。