ノートル・ダム大聖堂前広場の西の端に“Le crypte archeologique du Parvis Notre-Dame a Paris”(パリ・ノートル・ダム前広場の考古学的地下礼拝堂)があります。こうした長い名前ですが、実際には「パリの歴史地下博物館」といったところです。
一般に公開されているのは、パリがまだルテティアと呼ばれていた時代の遺跡です。実際にそこにあった建造物の一部などが保存されていて、見学できるようになっています。
ルテティア(今のパリの地域)に人が住み始めたのは、旧石器時代とか。鉄器時代に入ると、ケルト人が移り住み、その中のパリシイ族(後のパリの語源)が紀元前3世紀にはシテ島に定住するようになったそうです。当時の金貨が見つかっており、繁栄ぶりと美的センスの良さを示しているとか。ルテティアはその後、紀元前53年にはシーザーの支配下に入り、翌52年にアルウェルニ族の首長ウェルキンゲトリクスによる反乱にパリシイ族も加わりますが、ローマ軍に鎮圧されてしまう。シーザーの『ガリア戦記』にもこのときの戦闘が紹介され、そこで「セーヌ河上の島に位置するパリシイ族の町」として歴史上はじめて登場することになります。その後、ガリアの村からガロ=ローマの街として発展していくことになります。
当時の舗石まで保存されています。この道をどのようなパリシイ人が、ローマ人が、どのような服で、何を話しながら歩いたのでしょうか。
また、井戸の跡(左)と柱の土台も見ることができます。パリの地層には建設に不可欠の石や石膏が豊富だったそうですが、そのことを物語っている遺跡が多く残っています。
ガロ=ローマ時代には開発の中心がシテ島からセーヌ左岸に移っていましたが、3世紀末に始まるゲルマン人の進入により、シテ島の自然の要塞としての価値が見直され、シテ島が再び中心に戻ったとか。
3世紀の街並みの模型が展示されています。手前が左岸、奥にシテ島、そしてほんの少しだけ開発された右岸。幹線道路を作り、それと直角に交わる道路とで碁盤目状の街を見事に造っています。左岸には、浴場が3つ、劇場1つ、フォーラム1つ、闘技場が1つあったそうです。いかにも古代ローマといった施設ですね。浴場のひとつは中世美術館の一部に、闘技場はリュテス闘技場として、今も見ることができます。
4世紀頃、ルテティアに替わりパリが街の名前として一般的になります。そして、フランスの王となったクローヴィスによって、508年、メロヴィング朝の首都と認められ、さらに発展していくことになります。5~6世紀のパリの人口は15,000から20,000人だったとか。この時代に多くの教会が建設されています。そのひとつが、今のノートル・ダム大聖堂の建つ場所に建てられたというSaint-Etienne(サン=テチエンヌ)大聖堂。30mの高さのある堂々たる造りだったそうです。
7世紀末頃から、パリの重要性にかげりが見え始め、政治の中心も少しはなれたところに移ってしまいます。しかし、9世紀に始まるヴァイキングの侵略により、再びシテ島が自然の要塞として脚光を浴びることになります。10世紀後半、カペー朝が始まると、パリはその首都となり、それ以降、フランスの中心として栄えていくことになります。
中世のパリの街並みを再現した模型です。城壁に囲まれたパリですが、次第にそのエリアを広げています。右岸はかつて湿地帯でしたが灌漑技術の発展などにより、人が住めるようになりました(ガロ=ローマ時代の模型と比較してみてください)。今日、マレ地区と呼ばれますが、そのmarais(マレ)とは、湿地とか沼といった意味。開発は遅れましたが、今ではおしゃれな街になっているのは、ご存知の通りです。
また、この地下博物館には、ガロ=ローマ時代のモザイクの一部、塗料など街づくりに欠かせなかった材料が展示されていたり、
その色彩感覚を示す資料が展示されています。
赤と黒が内装によく使われていたそうです。ローマ趣味だったそうですが、これは今でもフランス人の好みに色濃く残っています。黒のセーター・パンツに真っ赤なコートとか、黒一色に赤のマフラーとかいった出で立ちをよく見かけます。黒と赤の配色、ルーツは古代ローマなのかもしれないですね。スタンダールの『赤と黒』は、貴族と聖職者。でも、こうした色もルーツは古代ローマにあるのかもしれないですね。
ルテティアからパリへ・・・その歴史をシテ島の地下で見ることができます。ノートル・ダム大聖堂へお出かけの際には、立ち寄ってみてはいかがですか。
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一般に公開されているのは、パリがまだルテティアと呼ばれていた時代の遺跡です。実際にそこにあった建造物の一部などが保存されていて、見学できるようになっています。
ルテティア(今のパリの地域)に人が住み始めたのは、旧石器時代とか。鉄器時代に入ると、ケルト人が移り住み、その中のパリシイ族(後のパリの語源)が紀元前3世紀にはシテ島に定住するようになったそうです。当時の金貨が見つかっており、繁栄ぶりと美的センスの良さを示しているとか。ルテティアはその後、紀元前53年にはシーザーの支配下に入り、翌52年にアルウェルニ族の首長ウェルキンゲトリクスによる反乱にパリシイ族も加わりますが、ローマ軍に鎮圧されてしまう。シーザーの『ガリア戦記』にもこのときの戦闘が紹介され、そこで「セーヌ河上の島に位置するパリシイ族の町」として歴史上はじめて登場することになります。その後、ガリアの村からガロ=ローマの街として発展していくことになります。
当時の舗石まで保存されています。この道をどのようなパリシイ人が、ローマ人が、どのような服で、何を話しながら歩いたのでしょうか。
また、井戸の跡(左)と柱の土台も見ることができます。パリの地層には建設に不可欠の石や石膏が豊富だったそうですが、そのことを物語っている遺跡が多く残っています。
ガロ=ローマ時代には開発の中心がシテ島からセーヌ左岸に移っていましたが、3世紀末に始まるゲルマン人の進入により、シテ島の自然の要塞としての価値が見直され、シテ島が再び中心に戻ったとか。
3世紀の街並みの模型が展示されています。手前が左岸、奥にシテ島、そしてほんの少しだけ開発された右岸。幹線道路を作り、それと直角に交わる道路とで碁盤目状の街を見事に造っています。左岸には、浴場が3つ、劇場1つ、フォーラム1つ、闘技場が1つあったそうです。いかにも古代ローマといった施設ですね。浴場のひとつは中世美術館の一部に、闘技場はリュテス闘技場として、今も見ることができます。
4世紀頃、ルテティアに替わりパリが街の名前として一般的になります。そして、フランスの王となったクローヴィスによって、508年、メロヴィング朝の首都と認められ、さらに発展していくことになります。5~6世紀のパリの人口は15,000から20,000人だったとか。この時代に多くの教会が建設されています。そのひとつが、今のノートル・ダム大聖堂の建つ場所に建てられたというSaint-Etienne(サン=テチエンヌ)大聖堂。30mの高さのある堂々たる造りだったそうです。
7世紀末頃から、パリの重要性にかげりが見え始め、政治の中心も少しはなれたところに移ってしまいます。しかし、9世紀に始まるヴァイキングの侵略により、再びシテ島が自然の要塞として脚光を浴びることになります。10世紀後半、カペー朝が始まると、パリはその首都となり、それ以降、フランスの中心として栄えていくことになります。
中世のパリの街並みを再現した模型です。城壁に囲まれたパリですが、次第にそのエリアを広げています。右岸はかつて湿地帯でしたが灌漑技術の発展などにより、人が住めるようになりました(ガロ=ローマ時代の模型と比較してみてください)。今日、マレ地区と呼ばれますが、そのmarais(マレ)とは、湿地とか沼といった意味。開発は遅れましたが、今ではおしゃれな街になっているのは、ご存知の通りです。
また、この地下博物館には、ガロ=ローマ時代のモザイクの一部、塗料など街づくりに欠かせなかった材料が展示されていたり、
その色彩感覚を示す資料が展示されています。
赤と黒が内装によく使われていたそうです。ローマ趣味だったそうですが、これは今でもフランス人の好みに色濃く残っています。黒のセーター・パンツに真っ赤なコートとか、黒一色に赤のマフラーとかいった出で立ちをよく見かけます。黒と赤の配色、ルーツは古代ローマなのかもしれないですね。スタンダールの『赤と黒』は、貴族と聖職者。でも、こうした色もルーツは古代ローマにあるのかもしれないですね。
ルテティアからパリへ・・・その歴史をシテ島の地下で見ることができます。ノートル・ダム大聖堂へお出かけの際には、立ち寄ってみてはいかがですか。
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